第20話 ルミ子
わんこソバ!? ハイ、次。ハイ、次。おわんにフタをしようともしない。苦労して、やっとカラにしたおわんに、容赦なく継ぎ足されるソバを、嫌な顔一つせずに、かき込んでしまう。次々と舞い込んでくる依頼に、フットワーク軽く対応するユイの態度を見ていると、ルカには、そんな想像が生まれた。
婚活という人間の限りない欲望に答えるべく、開催されているロングランのわんこソバ大会。その大食い女王―ルカの目には、常軌を逸したように映る大食いの果てに、ユイは何を求めるのだろう?
ルカは考えてみたのだが、答えらしきものなど、何も浮かんではこなかった。
リエさんとは真逆だ、という桂川正史さんの依頼が持ち込まれたのは、先週のことだった。
ユイから
「あなた、明日は休みなさい。働きづめなんだから。なんだったら、2、3日休んだっていいわよ」
と、命じられたその日、久しぶりに昼近くまで寝て、アパートの自室で、紅茶とサンドイッチという何ともわびしいブランチをとった。だが、その後、何もすることがない。したいこともなかった。身の置き所に困り果て、ぶらりと部屋を出たのだが、行くべきところは、結婚相談所の事務所しかなかった。顔を出せば、ユイに叱られるのは覚悟の上だった。それでも、ルカがいて、しっくりくる居場所は事務所しか思いつかなかった。
事務所の入っている雑居ビルの一階にある花屋で、事務所に飾る花を買ってから、二階にも立ち寄った。
ドアを開けると、コーヒーの豆の香りに包まれた。二階はコーヒー豆と紅茶の茶葉を売っている店で、店内でコーヒー、紅茶を楽しむことが出来た。喫茶店と呼ぶほどには席がないため、常連客以外、めったに立ち寄る人はいない。
ルカは、この店で紅茶の茶葉を選ぶのが好きだった。マスターの矢口さんは、恐ろしく無口な人で、こちらから話しかけなければ、絶対に口を開かない。聞かれたことだけに返事をし、それ以外の無駄口を叩かなかった。そんな物静かな、店の置物みたいなマスターも、ルカには好もしかった。事務所で乏しくなっていた茶葉を買い足してから、三階の事務所へ向かった。
ドアにはカギはかかっていなかった。ルカは恐るおそるドアを開けた。
(叱られるのは、嫌だな~ )
そう思いながら、中をのぞくと、棚の前にしゃがんでいる人の後ろ姿が見えた。明るい紺色の着物、目をこらすと、十文字の井げたの小さなかすれたような模様の入っているのが分かった。どこか、懐かしい。施設にいた頃、小学生だったときのおぼろげな記憶がよみがえってきた。ふいに、一つの言葉が浮かび上がった。
大島紬・・・おばさんは、確か、そう言ってた・・・
記憶をたぐり寄せていたとき、その白髪の多く混じった髪を後ろに束ね、べっ甲のかんざしを刺した頭が、くるりと向きを変え、ルカと目が合った。その顔を見た途端、ハッとした。
(ユイさんだ・・・。30年もすれば、この顔になる・・・ )
ルカが挨拶する前に、30年後のユイが、口を開いた。
「こんにちは。ユイの母のルミ子です。ルカさんね? 娘からあなたのことは、いろいろ聞いております。あの子はわがままで、私の言うことなんか、まるで聞いてくれません。強情だから、振り回されてるんじゃありません? 私の育て方が悪かったものだから。許して下さいね。
あの子は、あなたを頼りにしているんですよ。あなたが手伝ってくれるようになってから、あの子は変わりました。ずいぶん明るくなった気がします。ホントに感謝しています。これからも、あの子を助けてやって下さいね」
そう言ってから、ルカに向かって深々と頭を下げた。
頭を下げられて、ルカは慌てたが、ユイの母親、ルミ子の言葉に、胸の熱くなるのを覚えた。
(私がユイさんの役に立っている・・・ )
自分のことを認めてくれたルミ子に、シンパシーを覚えたせいか、ルカ自身思っていなかったことを、つい聞いてしまった。
「あのー、お母さんのお召し物は、大島紬ですか? 」
その途端、ルミ子の顔がパッと華やいだ。
「あらっ、お若いのに、着物に興味がおありなの? 」
再びルカは慌てた。ルミ子が着付け教室の先生であることを思い出したのだ。ルカは
「いえいえ、全くの素人です。ただ、大島紬には、子供のころの思い出があったものですから。その・・・ 」
と言ってしまい、話の流れから、かいつまんで、その思い出について、ルミ子に聞いてもらうことになった。
ルカが児童養護施設にいたときのことだ。小学生のころ、年に何度か、ひな祭りや端午の節句、七夕、クリスマスといった行事のある日に、お菓子やおもちゃを子供たちに配っていたボランティアのおばさんがいた。どういう素性の人なのか、まだ子供だったので知る由もなかったが、お菓子やおもちゃを渡してくれる際に、ルカのからだを、ギュッと抱き締め、優しい声で
「しっかり勉強して、賢い人になるのよ」
と言われたことを覚えていた。そのギュッと抱き締められたときの、おばさんが着ていた着物の感触が、ルカには新鮮だった。それで、いつか聞いたことがあったのだ。
「この着物はね、大島紬と言うのよ。冬、暖かくて、夏、涼しい。長年着ていても、着くずれることがない。日本を代表する伝統ある着物なのよ」
と、おばさんは教えてくれた。そんなスゴイ着物を着ているおばさんは、特別な人に違いない、とルカは思った。
ところが、ルカが小学校を卒業する前に、おばさんは死んでしまった。ガンだった、と記憶している。病気になってからも、体の動く限り、施設の慰問を続けた人だった・・・。
神妙な顔をして、ルカの話を聞いていたルミ子だったが、その話が終わると、しゃがんでいた棚の前から離れ、ルカに近寄り、そっとルカを抱き締めた。
「そのおばさんはこんな感じだったかしら? 」
と、ルミ子はルカの耳元でささやき、腕に力を入れ、ギュッと抱き締めた。
ルカは目をつぶった。思い出していた。おばさんの着物の感触、そして、自分のことを思ってくれる人に抱き締められる安心感を。
ルミ子は、続けてささやいた。
「あなたの生い立ちは、ユイから聞いてる。大変だったね・・・。苦労したのね・・・。それでも、よく生き延びて・・・あなたは、偉いわ・・・。よく生き延びて、あの子と出会ってくれた・・・ありがとうね」
ルカの耳元で、すすり泣く声が聞こえた。
よく生き延びて、という言葉が、ルカの耳の奥で、何度もこだました。
それは、私のこと・・・。ユイさんのお父さんのことでも・・・? つらい思いをして、生き延びてきたのは、私だけじゃない・・・。
ルカは優しく力強い母鳥の羽毛に包み込まれたような心地よさを覚えながら、そう感じていた。
ルミ子の腕に身を任せたきり、軽いめまいを覚えかけたとき、すっとその腕が離れた。泣き笑いの表情を浮かべたルミ子が、ルカに言った。
「もう一人、娘が増えたような気がするわ。あなたには、迷惑な話かもしれないけどね。・・・やりかけてたこと、片付けちゃうから。ちょっと待ってて。ユイは会員さんと外で会った後で、来るって言ってたから、じきに顔を見せると思うわ」
ルミ子は再び棚の前に向かい、しゃがみ込んで、棚に並べられたガラス器を一つ一つ取り出し、丁寧にほこりを拭きとり始めた。それから、足元に積まれた木箱に、ガラス器を布でくるみ、納めていった。
手慣れたもので、ルミ子は棚全体を眺め回し、半分ほど残したガラス器の位置を変えていった。見ていても、ルカにその配置変えの基準は分からない。でも、ルミ子に基準があることは、その手際の良さからしても、明白だった。
次に、テーブルの横に置いてあった大きなトランクを転がしてきて、中から、やはり幾つもの木箱を取り出した。新たに、陳列するガラス器だった。布をはずし、次々に棚のあいたスペースに、ガラス器を並べていった。すべてを並べ終わるのに、30分もかからなかった。並べ終えると、もう一度、棚全体を眺め回し、微調整した。
「こんなものかしらね~ 」
と、ひとり言のように、ルミ子は声に出して言った。そして、ルカの方を振り返り、
「どう思う? 」
と聞いてきた。聞かれても、ルカはどぎまぎするばかりで、何も返事ができなかった。
「だよね~ 」
と言い、ルミ子は、ハハハッと朗らかに笑った。その間合いといい、空気感といい、ユイと同じだ、とルカは思い、そのことに感心した。
(やっぱり、血のつながった母娘、そっくりだわ! )
カラになったトランクに、棚から取り出したガラス器の入った木箱を詰め終えると、トランクを再びテーブルの横に転がしていった。
「よっこらしょっと」
と声に出し、ルミ子はテーブルの椅子に腰を下ろした。
「ルカさん、ルカブレンドをお願いできるかしら? あの子から聞いたわ。格別なんですって? 是非、私もご
ルミ子はいたずらっぽい目つきでルカを見て、そう言った。
ハイ、と返事をして、ルカは早速キッチンへと向かい、紅茶の準備に取りかかった。そのとき、何気なく、キッチンの隅に買ってきた花束を置いた。目ざとく、ルミ子はその花束に目を留めた。
「あらっ、重なっちゃったわね。さっき、私も
ルミ子は、テーブルの奥にしつらえられた花台の上に載った花瓶に、目をやった。つられてルカもそっちへ視線を向けると、ゴージャスなフラワーアレンジメントが目に飛び込んできた。華道の先生が活けたものに、かなうはずがないのだが、それでも、自分が購入してきた花束のあまりのみすぼらしさに、ルカは心底、消沈してしまった。
すると、ルミ子は、ルカの顔つきから、その心情を鋭く読み取ったのだろう。こう告げた。
「大丈夫。派手なフラワーアレンジメントばかり、この狭い事務所に並べちゃあ、息苦しくなっちゃう。その花は、私がもらうわ。あなたは紅茶に専念して。それぞれに専門分野って、あるものだから、ね」
ルカには反論の余地などなかった。ハイ、と小さく返事してから、淹れたての紅茶と、来る途中で買ったサブレを添えて、ルミ子の前に並べた。
「うわ~、いい香りね~。早速いただくわ」
ルミ子は、ティーカップに口をつけた。ふーっと息をついて、満足な表情で、ルカを見た。
「あの子が言ってた通り、おいしいわ~! 優しいんだけど、深みがある。何だろう・・・? どこか、あなたに似てるわ。淹れる人の人格が紅茶にも乗り移るのかしらね? 」
さらに、一口、二口と飲み、カップをソーサーに置くと、ルミ子は思い出したように、棚に視線を移した。
「ガレ・・・、エミール・ガレって知ってる? 」
と、ルミ子は聞いた。最前までの声とは違って、なんとなく寂しそうに、ルカには聞こえた。
「いいえ、知りません・・・ 」
ルカの返答にも、ルミ子の表情は変わらない。棚に並んだガラス器を見つめてるというよりも、もっと遥か遠くを見据えているような目をして、話し出した。
「19世紀後半に、フランスで活躍した、天才的な工芸作家。日本でもガラス器や陶器がよく知られていて、今でもファンは多いわ。
私は、あまり詳しくないんだけど、全部、母の受け売りね。母にしたところで、父からの受け売りなんだろうけど・・・ 」
ルミ子は、一度、言葉を切った。短い沈黙だったが、そのとき、ルカの心の中には、西洋人形を愛おしげに抱き、桜吹雪に彩られたムームーを着たユイの祖母の姿が浮かんでいた。
「母がよく語っていたのは、黒いガラスのこと。黒いガラスは、『悲しみの花瓶』とも呼ばれていてね、ガレというと、これをイメージする人が多い、ガレを象徴するガラス器なの。
母は、黒いガラスの、いろんな作品について話してくれたんだけど、子供のころに聞かされて、今でもはっきり覚えているのが、死を迎えて、池に落下していくトンボを描いた花瓶のこと。もう飛ぶ力を失って、四枚の羽は張りを失い、バラバラに広がってるの。頭を下にして、まるで枯れ枝のような長いシッポを伸ばした姿で落ちていくところなんだけどね。その花瓶の底には、バイカモだったかな、水中花が小さな花を咲かせていて、その周辺を六匹のメダカが泳いでいる光景が描かれてる。その池の光景は、死ぬ間際のメダカの目に映ったものなの。
ガレにとって、トンボは、生命の母胎という水の意味を思い起こさせる重要なモチーフだったらいしんだけど。それよりも、母に聞かされて、ショックだったのは、花瓶の背面に刻まれた文章だったわ。そこには『私はひとり、ひとりぼっちでいたい』と刻まれているの・・・ 」
ルカは身を固くした。死に近づき、池の面に落下していくトンボが自分のことに思われた。行く先々で、周囲の人たちと合わず、苦しさのあまり、ひとりになって、バイト先を転々と移っていった。気が付けば、ひとりではなく、ひとりぼっち、になっていた。周囲に理解してもらおう、と努力する必要のない、ひとりは楽だが、周囲から存在を否定される、ひとりぼっちは、つらく悲しい。
その思いを伝えようと、ルミ子さんに視線を向けたとき、口を閉ざしたルミ子さんの目が、真っ赤に充血していることに気が付いた。
ルカの心は激しく揺さぶられた。
ルミ子さんは、心を病んで、自分と幼いユイさんを残して自殺した夫のことを考えている。ルミ子さんの目は、断崖絶壁から身を投げた夫の目となり、吸い込まれていく海面を見つめている。バイカモの小さな花とメダカの代わりに、海面に、どんな光景をその目は見つけたのだろう・・・?
バネ仕掛けの人形みたいに、ルカはテーブルの椅子から立ち上がると、充血した目で、棚のガラス器を見つめていたルミ子さんにしがみついた。
(こんな私に、他人を抱き締める力があるのか!? )
だが、そんな迷いを突き抜けるように、ルカは、力の限り、ルミ子さんの硬直してしまったからだを抱き締めた。ギュッと。
どれぐらいの時間、そうしていただろう? ルミ子さんの着物に顔を埋めるようにして、そのからだを抱き締めていたルカが顔を上げると、そこには、一筋の涙を流したルミ子さんの、まるで菩薩のような柔和な表情が浮かんでいた。彼女もまた、そっと両腕でルカのからだを抱いていた。
ルミ子の口が、ゆっくりと開いた。
「ユイに出会ってくれて、ありがとうね。・・・私にも出会ってくれて、ホントにありがとう」
その声が合図であったかのように、ルミ子さんが見つめていたガラス器の中で、黒ずんだ肌を見せていた首の細い花瓶が、ぼんやりとした黄色い光をにじませるようにして、
(ガラスが、言い尽くせない人の思いに反応している・・・。あの光はルミ子さんや私の心そのものなんだわ・・・ )
ルカには、何の迷いもなく、そう思えた。光の明滅を繰り返すガラス器に目をやりながら、ルカは聞いた。
「ここに並んでいるガラス器は、ガレの作品なんですか? 」
ルミ子は薄く笑った。
「もし、そうだったら、億万長者ね」
ルミ子の答えを、いったんはそんなわけがない、と否定の意味で受け取りかけたのだが、そうとも言い切れない、という思いが、頭をもたげてもいた。ルカには、どう理解したらいいのか、分からなくなった。
そんな疑問を断ち切るようにして事務所のドアが開く音がした。
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