第12話 マリナと阪田
マリナさんが、事務所に一歩足を踏み入れた途端、ルカは、春が来た、と感じた。
前に会ったときよりも、髪は長く伸び、重い印象にならないように、シックなブラウンにカラーリングされていた。ちょっと渋めのブラウンのアウターを羽織って、中には明るいベージュのニットにラベンダー色のカラーパンツという装いだった。冬から春への移り変わりにぴったりの配色だった。
やっぱり、この人と私では、属している世界が違う・・・
と、ルカは思い知らされた。
そんな春の到来を感じさせる装いとは裏腹に、マリナさんの顔色はさえなかった。テーブルの席に着くなり、彼女は軽いため息を吐いた。彼女の向かいに座ったユイは、ため息を聞き逃さずに、すかさず質問をぶつけた。
「ため息は、あなたに似合いませんよ。ため息を吐くと、幸せが逃げていく、と言いますしね。
電話では今ひとつお話の要領をつかめない点があったものですから、直にお話をうかがおうと思って・・・。阪田さんとの仮交際をおやめになりたいのですか? 」
すると、マリナさんはうつむき気味の顔を横に振った。ユイは、マリナさん自身が語りだすのを待つつもりで、黙って彼女の様子を見守った。マリナさんは胸の内で渦巻いている思いをたぐり寄せようとするかのように、暫くの間、言葉を発しなかった。
テーブルを挟んで、沈黙が続く中、ルカは二人の前にそっと紅茶を差し出した。悩みを抱えたマリナさんのため、少しでもこわばった心をほぐそうと、今日はフルーツフレーバーティーを用意した。フルーツの甘くて柔らかな香りが広がった。
マリナさんは香りを楽しんでから紅茶を飲んだ。ひと口飲み終えると、彼女の唇が緩み、吐息が漏れた。そして、語りだした。
「実は、お見合いが終わって、ラウンジを出ようとしたとき、洋一さんがいきなり私の手を握ってきたんです。正直言って、イメージと違って、積極的な方なんだな、と思って・・・」
ユイは見逃さなかった。そう語ったときのマリナさんが不快な表情を浮かべていなかったことを。ユイは小さくうなずいただけで、先を話すよう、目で促した。
「お見合いの翌日でした。洋一さんから連絡をもらって、映画を観に行きませんか、と。是非私と一緒に観たい、とおっしゃるので、行くことにしました。館内は混んでまして、私の隣の席にも人が座っていました。
映画を観ていたら突然、洋一さんが・・・洋一さんの手が、私の両ももの間に差し込まれてきたんです。私は映画に引き込まれていたものですから、そのとき、何が起きたのかよく分からなかったんですが、その・・・洋一さんの手がさらに奥へと伸びてきたので、思わずその手を握ったんですけど・・・。
洋一さんの方を見たら、私の方を見ていなくて、笑顔で映画をご覧になってました」
恥ずかしそうに語るマリナさんではあったが、やはり、その顔には嫌悪感はなかった。ルカにもユイの気持ちが手にとるように分かった。ルカも、マリナさんの語る話の内容と、それを語る彼女の表情とのチグハグさに戸惑っていた。
いったん喋りだしたら、歯止めがきかなくなったのか、マリナさんの語りは止まらなかった。
「次の週末にも、お食事のお誘いがありました。有名なフレンチのお店の個室がとれたからとおっしゃるんです。
メインディッシュが終わり、デザートが出されたときに、洋一さんが観てほしいユーチューブがある。自分の知り合いのピアニストで、ショパンの『ピアノソナタ第二番≪葬送≫』の名演だ、と言われるので、私も是非観てみたいとお願いしたんです。
すると、洋一さんは画像が見やすいようにと、私のすぐ脇に近寄ってこられたんです。お顔がくっつきそうな距離でした。動画が始まって、間もなくのことでした。
洋一さんは、私の肩を抱きよせ、手を私の胸元へと滑り込ませてきたんです。そのときは、恥ずかしくて、身を固くするばかりで、何も抵抗できませんでした」
硬いユイの声が響いた。
「そのとき、あなたは何も言わなかったんですか? まだ仮交際中なんです。そういう行為は禁止だ、とお伝えしたはずです」
マリナさんは首をすくませるようなしぐさをみせて、
「ゴメンナサイ。何も言えませんでした。何か言って、嫌われるのが怖かったんです・・・」
ホントに、それだけなのだろうか? と、ユイは内心で疑わしく思った。厭で厭でたまらないのだったら、何か言わずにはいられなかったはず。それなのに・・・。阪田さんの明らかなセクハラを、ハラスメントと感じていない彼女のせいではないのか?
とがり気味のユイの声が発せられた。
「まだ、あるんですよね? 」
マリナさんは遠慮がちに首を縦に振った。
ルカはいたたまれなさを感じて、空になったティーカップを片付けて、キッチンに運んだ。何かをしていないと落ち着かない。ユイは、お代わりのフルーツフレーバーティーを淹れた。
「まだ寒い日に洋一さんが水族館の熱帯園にワニを見に行きたいとおっしゃたんです。エサやりの時間を調べたから、その様子を見てみたいと。
熱帯園に入ると、中は頭がボッーとしてくるくらい暖房が効いていて、ファーの付いた厚手のコートを脱ごうとしたら、裾が汚れますよ、と言われて、脱ぐのを手伝ってくれました。そのときに胸とかお尻とかあちこち触られました・・・。
暖房が効きすぎているせいか、ホントに頭がのぼせてしまったようで・・・。
ロープで結わえられていた、まるまる一羽のニワトリの肉が、スルスルと、たくさんのワニが群れているところへたらされていきました。石みたいに固まってたワニが、突然ジャンプして、ニワトリの肉にかぶりつきました。
スゴイ! と洋一さんが声を上げられて、肉をむしゃぶり食べるワニを、食い入るようにご覧になってました。
見て、見て、スゴイよね! と言われて、私の腰に手を回されて、ぐいっと私の体を引き寄せました。それから、私の首筋にキスされました。私たち以外にも、お客さんはいたのですが、お構いなしです。頬に、唇に、何度もキスされました。頭がクラクラしてしまい、洋一さんの肩に頭を寄せて、彼に支えられて立っているのが精一杯でした・・・」
マリナさんは、お代わりで出された紅茶を見つめたまま、熱にうかされたように、ひとり語りを続けた。その視線の先をにらみつけるようにしているユイの眉間の皺は、一段と深くなったようだった。ひとり語りを続けるマリナさんの向かい側に座っているのが、もう辛いのだろう、ルカはテーブルを離れ、キッチンに身を隠してしまった。
「洋一さんに肩を抱かれるようにして、水族館を出てから、近くのレストランで夕食をとりました。お酒も飲みました。食事中も彼は上機嫌で、話をされていましたが、私は覚えていません。体がフワフワと浮んでいるようで、夢でも見ているような気分でした。
酔い覚ましに少し歩きましょう、と誘われたので、私もついていきました。夜の空気は冷たくて、のぼせていた頭が、少しだけシャキッとしたように感じました。
どこを歩いているのか、分かりませんでしたが、やがて幾つものネオンサインが、明るく輝いている通りへと出ました。
すると、私の肩を抱いていた洋一さんの手に力が入りました。私の耳元で彼はささやきました。
『ボクたちは、同じ音楽家同士。話は合うし、相性はピッタリだと思う。後はカラダの相性がピッタリかどうか、確かめてみませんか? 』
そうささやかれて、私は初めてその通りには、ラブホテルが軒を連ねていることに気が付いたんです。私は洋一さんに返事することが出来ませんでした。強い力で肩を抱きすくめられたまま、彼と一緒に歩いていくしかありませんでした」
ロウソクの炎が、いきなり、フッと吹き消されたように、マリナさんのひとり語りは終わった。息がつまるような沈黙が訪れた。陰で聞き耳を立てていたルカは、息を殺し、自分の気配を消した。
ユイの片方の眉がピクリと上がり、その鋭い両目は、マリナさんのボンヤリとした目を射抜いた。
「分かりました。それで、あなたは、阪田さんに正式にプロポーズしてほしい、と告げたんですか? 」
その言い方は、明らかに詰問調であった。
マリナさんは、射抜くようなユイの視線を見返すことが出来ず、伏し目がちになり、か細い声で答えた。
「言いました。こういう関係になった以上、なおのこと、はっきりさせてほしい、とお願いしました。でも・・・」
その声は消え入りそうだった。その後を受けてユイは言った。
「良い返事はなかった、と。もう少し待ってほしい、だとか、その時が来たら、必ずきちんとプロポーズするから、とか、言ったんじゃないですか? 」
マリナさんに返事はなく、目を伏せたままの姿勢で固まってしまった。
ユイは、静かではあるが、冷たい口調で話し出した。
「マリナさん、まさか、あなたはその言葉を真に受けているわけじゃあないでしょうね? 卑怯な逃げ口上だってことくらい、分かってるでしょ?
大事なときにさしかかってるんだから、聞きたくないことでも、言わせてもらうわね。
阪田さんはカン違いしてるの。自分はモテるのかもしれない、と。結婚相談所に入会した方には、よく起きる現象なの。次から次へとお見合いの相手を紹介してもらえるものだから、そういうカン違いなさる方が、しばしば現れる。
阪田さんも、あなたとの出会いを喜んでいることは間違いないわ。でもね、欲ばりになっちゃてるの。もう少し待てば、もっといい女性が現れるかもしれない。あなたよりもっと若くて夢中にさせてくれる女性が・・・」
マリナさんの肩が、小刻みに震えだした。うつむいた目から、涙がこぼれ落ちた。
それでも、ユイは容赦しなかった。マリナさんが最も恐れている現実を剥き出しにして、彼女の目の前に突き出して見せた。
「・・・だからと言って、今、あなたとの交際をやめるのは損だ。なんてったって、強引に迫れば、どんなことでも受け入れてくれる。都合のイイ女性だ。もっと若くて本命になる女性が現れるまで。それまでのつなぎとして、あなたとの関係は続けていこう。このままの、仮交際のままでズルズルと・・・」
「やめて・・・やめてください! 」
マリナさんはテーブルの上に泣き崩れた。そのとき、彼女の手がティーカップに触れ、すっかり冷めてしまった紅茶が、こぼれた。
ルカは無言で、台ぶきんを手に、マリナさんのもとに近寄り、こぼれた紅茶を拭きとると、ティーカップをキッチンへと運んだ。
(今の私にしてあげられることといったら、これぐらいのこと・・・)
ルカはそう思い、切なくなった。
そこへ、ユイのきつい調子の声が響いてきた。
「いいえ、やめません。まずは、自分の置かれた状況を、きちんと見定め、認識すること。希望的観測にすがっちゃ、ダメ。その上で、どうすることが、あなたの幸せにつながるのか、あなた自身で選ばなきゃいけないの。
37歳という年齢を考えて。婚活を成功させるのに、時間ほど大切なものはないの。1歳年をとれば、成婚の可能性は低くなる。出会い系アプリなら、年齢をごまかすこともできるかもしれない。でも、結婚相談所では、そうはいかない。
だから、1分1秒が貴重なの。
あなたを結婚相手として、本気で付き合おうとしない男性と、時間をつぶしている余裕なんか、ないわ! 」
ユイは、マリナさんに向かって声を潜めて告げた。
「カラダの相性を確かめよう、なんてクズな男の常套句よ。都合のイイ女。セフレ扱いされて、それでいいの?
・・・ね、分かってくれますよね? 」
マリナさんの反応はない。ときおり、肩がビクンと動き、くぐもったようなすすり泣く声が漏れてくるばかりだった。
ユイは椅子に座り直し、マリナさんを眺めているような、その実、何も見えていないような、ボンヤリとした表情になっていた。
ルカの目には、強烈な放射能線を全て吐きつくしてしまい、動けなくなったゴジラみないに映っていた。
ルカはキッチンで二人の使ったティーカップを、物音を立てないように注意しながら、洗っていた。
(今、この事務所の中では、時は流れているんだろうか? )
と、ルカは不思議な感覚に襲われていた。ビルの3階にある事務所の窓からは、街に夕景が広がっているのが見えた。
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