不心得

――ストーンヒル 屋上――


 昼食を済ませてから少しした頃、先に屋上で待っているように言われた私は、体を温める為のストレッチを一通り全てを終えていた。薄っすらと汗を掻いた体に、十一月のひんやりとした空気を深く吸って肺に取り込むと、火照った体の内側から冷まされていくようで気持ちが良い。視界は広く、感覚は研ぎ澄まされていて、まるで肌で空気の流れさえも感じ取れるかのよう。体調は万全だ。腹具合も落ち着いている。これならいつ訓練が始まっても大丈夫。なの、だけれど。


 ………………。


 二人とも、随分と遅いな。準備に少し時間が掛かるからと言っていたけれど、私が屋上に上がってからもう既に三十分は経過している。そもそも準備って、一体なんの準備をしているのだろうか。いいや。まだ来そうもないなら、もう少し体を温めておこう。


 温めた体を冷やすまいと、私は鞘から二振りの剣を抜く。すると何をせずとも体と剣の回路が繋がって、スッと剣に熱が送り込まれるように伸びてゆく。本当に良い剣だ。ただ構えただけなのに、こんなにも体と心が高揚するなんて。


 そうして準備を整えると、私は一人臨戦態勢を取る。続いて目の前を見据えると、その場所に仮想の敵を思い浮かべ始めた。膨張した体。鈍色にびいろの皮膚に覆われた体表。イメージし、目の前に投影させたのは、異形と化したブルーノの姿だ。想像上のブルーノは、圧倒的な質量を誇る体を締めて体を固めると、その見た目からは想像も付かないような速度で突進を仕掛けて来た。そうして私との距離を後一呼吸の位置まで詰めると、その両手を振り上げて、鍵爪を振り下ろそうとする。それよりも先に、私は左右の剣を交差するようにブルーノの懐へと斬り込んだ。放った斬撃が懐に深々と十字の痕を残すと、ブルーノはグラリと崩れ落ちてそのまま霧散して消え去る。


「フゥー……」


 ゆっくりと剣を戻し、呼吸を整える。


 私、強くなっている、よね。今は駄目でも、このまま二人の元で特訓して、もっと強くなれたなら――。


 そこまで考えたところで、“雨衣咲としての価値が無い”と言い放った父の顔が脳裏を過る。何を、今更。今更父に認められたとして、それが一体何になるというのだろう。それに、仮に父が私を認めたとして、その先に待っているのは、どうせ――。


 思考のその先と、視界の端に残る父の幻影を搔き消すように、鞘から片方の剣を抜いて振り払う。すると。


「うわぉっ、とっとぉ⁉」


 適当に剣を振り回した所為で、バランスを崩して転びそうになってしまう。ピョンピョンと飛び跳ねて、なんとか転ばずに体制を立て直した。


「セ、セーフ……」

「変わったシャドーですね。今のジャンプにはどんな意味があるのですか?」


 不意に声を掛けられた方へ視線を向けると、そこには屋上の出入り口付近に佇むシャロの姿があった。


「シャ、シャロ⁉ いつからそこに⁉」

「クルクルと回ってつまづいて、飛び跳ねている辺りからですわ」


 そう言うとシャロは頭の上の手のひらをかざし、ウサギの真似をするようにピョンピョンと飛び跳ねて見せる。


「んな⁉ な、なんで最初から見てくれなかったのさ⁉」

「フフ、ジョークですわ。途中からちゃんと見ていましたよ」

「……ッ⁉ んもぅッ‼」

「なんだよ、緊張しているかと思ったが、随分と落ち着いているじゃないか」


 シャロと問答を交わしていると、その後方、事務所へ続く階段からバレルさんがゆっくりと屋上へ上がって来ているのが見えた。


 …………、…………?


 なんだろう、この違和感は。ここからでは良く見えないけど、バレルさんの姿に違和感のようなものを覚える。その違和感の正体が分からないままでいると、とうとうバレルさんが屋上への入り口を潜り終え、プレートから降り注ぐ人口太陽光の光に照らされた。すると私は、すぐにその違和感の正体に気付いた。否、気付いてしまった。バレルさんの背中には吊られていたのは、身の丈ほどの分厚い剣。それはかつて私の目の前で何体ものアンヴァラスを両断してみせた鋼鉄の塊。この間は鉄屑やデカ物だなんて揶揄やゆしていたけれど、それは危険な状況や、殺傷以外の目的以外では決して使うことの無かった、バレルさんの愛剣。それを今、この場に持ち出して来たということは――。


「バレル、さん……その剣は、ど、どうして……?」

「言っただろ、命懸けの訓練だって。この剣だったら、少しはそれが実感できるんじゃないかって思ってさ」

「……いや、だって……そんな物でやったら……し、死に……死んで、しま……」

「あぁ、当たったら良くても重症、最悪死ぬ。それと言っておくが、俺は手加減が苦手だ。こんな重てぇ剣を使うなら尚更にな。だからな雫、頑張れよ」

「む、無理です‼ 無理ですよ‼ だって、そんな—―」

「お喋りは終わりだ。始めるぞ。剣を構えな」


 ゆっくりと、バレルさんの背中から剣が引き抜かれると、私は反射的に鞘から剣を抜いて構える。あれ、おかしい。なんだろう、この心もとなさは。さっきまでは剣を構えただけでもあれだけの力が湧いて来たのに、今は全然そうじゃない。あんなにも頼もしくてしっかりとした剣の感触が、手の中から完全に消えている。


 いや、手だけじゃない。足から伝わる床の硬さも、体の熱さも、全部無くなっている。今私に残されているのは、体を伝う汗の冷たさと、異様に狭く感じる視界からの情報だけ。まるで、体だけを残して私の全てが消えてしまったかのよう。だけど手の中でカチカチと震える剣の音が、嫌でも私の存在を肯定してしまう。


「行くぞ、雫」


 待って下さい‼


 必死でそう伝えようとするも、私の口は溺れるようにパクパクと動くだけで、声は一切出て来なかった。目の前には高々と剣を振り上げたバレルさん。次の瞬間には、瞬きを終えた頃には、きっとそれが私の頭に向かって振り下ろされて――。


 気が付くと、私は力いっぱい我武者羅に跳んでいた。しかし先のことを考えない出鱈目な跳躍ちょうやくでは着地もままならず、私は屋上のコンクリートの床を勢いよくゴロゴロと転げ回わる。そうして何度も体を打ち付けるように転がった私は、途中で無理やり体を静止させると、すぐに視線を今まで立っていた場所へと移す。そこには、バレルさんのあの分厚い剣が振り下ろされていた。しかも驚くことに剣の刃は地面に着いてはおらず、ピタリと私の股下辺りの高さで静止している。


 それを目の当たりにした私は、数か月前、日本の荒野でアンヴァラスに襲われていたときのことを意図せず想起してしまった。迫りくる蝙蝠型のアンヴァラスに、バレルさんが真上から剣を振り下ろしたときの光景。そのアンヴァラスは頭から股下までを斬り裂かれ、疑問を抱くような表情をしながら左右に分断される。そんな光景が何度も脳内で再生されると、真っ二つに両断されたアンヴァラスの姿が、次第に私の姿に置き換わって行き――。


 カチカチという音で私は我に返える。剣が震えているのかと思ったけれど、音の出所は別にあった。何度も奥歯が噛み合わさって、カチカチと音を立てていたのだ。


 呼吸は浅く速く、心臓は高速に不安定なリズムを刻む。次第に異変は視界にも影響を及ぼし、目の前の光景が圧縮され、まるで世界が静止しているかのように映った。そんな数百倍に圧縮された世界の中、バレルさんただ一人だけが時間の制約に縛られることはなく、その巨大な剣を肩へ担ぎ直して、着実に私の方へと歩み寄って来る。


 もう止めて下さい――降参します――リベレーターは諦めますから――だから、殺さないで――。


 そんな言葉の数々を、私は何一つ口にすることができなかった。あぁ、そうか。命を懸けるって、こういうことだったんだ。二人ならきっとまた、いつものように上手くやってくれるのだろうとか、そんな風に考えていた。なのにまさか、本当にそのままの意味だったなんて。目の前には本気のバレルさん。駄目だ。こうなってしまったらもう、私にはどうすることもできない。なら私は、ここで死ぬしか――。


 “生命活動放棄ノ信号ヲ検知。ソレハ、承諾サレナイ。スイッチヲ入レロ”。


「…………えっ?」


 知らない誰かが耳元で囁くような感覚。この感覚はつい最近、どこかで体験したような。頭に浮かんだ疑問を紐解くよう試みようとすると、不意にある光景が頭にフラッシュバックする――。


『――――ない……、本――、す――――、雫……――』


 これはいつのことだったのか。目の前にいたのが誰で、なんて言っていたのか。その記憶はとてもぼんやりと朧気おぼろげで、何故今こんなことを思い出したのかさえも分からなかった。でも確か、この記憶に出て来た誰かは、私に何かを謝っていたような――。


 まるで白昼夢でも見ていたかのような私の視界に、突如膨大な情報が飛び込んで来る。目の前には、今まさに私に向かって剣を振り下ろそうとしているバレルさん。瞬き一つの後、風を切って私の方へと振り下ろされる分厚い剣。その圧倒的な質量を伴う剣が、今の私の目にはやけにゆっくりに感じられて――。


 ガァンと、足元で金属がひしゃげるような音がする。気が付くと私は元いた場所から十数メートルは離れている給水塔の側面に着地していた。体が熱い。奥歯の鳴りは止み、視界は広く遠くへ開け、心臓も血管も拍動する音が外へ漏れ聞こえる程に力強く脈を打つ。恐怖は無い。むしろ全身を揺さぶるような何かが、私の全てを昂らせる。


 熱の正体。それは体の奥底から沸き出し続けるレイジスだ。溶岩のような熱と粘度を有したそれは、大きな濁流だくりゅうとなって体の内側を焼き焦がしながら全身を巡る。一瞬、灼熱にも似た激痛に私は何度も意識を手放しそうになるけれど、次の瞬間にはそれがとてつもないエネルギーへと変換されて行く。


 ゆっくりとした思考の中、そうして暫く給水塔の側面で自らの体に起こった変化を分析していると、次第に体が重力に引っ張られ始める。


「フッ、フッ、フッ――」


 短く三度、肺の中に溜まっていた余分な空気を吐き出すと、足場にしていた給水塔を蹴って、跳ぶ。正確に、予定通りのポイントへ着地すると、それとほぼ同時、目で標的を視認するよりも早く、目の前に立つバレルさんに向かって右の剣で斬り込んだ。


「シッ――」


 最初の斬撃は呆気なく弾かれてしまう。が、そのままでは終わらない。剣が弾かれた際に生じた反作用の衝撃を利用して、体を捻じるようにしながら跳躍する。きりもみして宙を舞う体。視界の先を目まぐるしく入れ替わる光景。次に視線と体が止まったそのとき、私の目の前にはバレルさんの背中があった。そこへ躊躇い無く繰り出す双剣の同時斬撃。これもまた、バレルさんの剣に弾かれてしまう。


 より速く、より疾く、より鋭く。受け流され躱されても、足を止めずに攻撃を繰り出し続けた。しかしその後どれだけ速度を上げて攻撃しようとも、全ての斬撃がバレルさんの剣によって阻まれる。原因は、攻撃と攻撃の間にできた僅かな隙。その隙が、バレルさんに防御を許す猶予を与えてしまっている。恐らく脳が反撃を意識して、無意識に体をバレルさんの剣の射程外まで退避させているのだろう。この退避行動さえ無くしてしまえば、或いはバレルさんに攻撃を当てることができるのかもしれない。だけど回避行動を捨てた状態で、もしもバレルさんに反撃されてしまったら――。


 回答。避ケル必要ガ無ケレバ良イ。


 いや、避けなかったら死んじゃうでしょうよ。


 回答。反撃サセナイダケノ速度デ攻撃ヲ繰リ出スベシ。


 簡単に言わないでよ。そもそもそんな技、私には……あっ、いや、でも……。


 検索。雨衣咲雫ノ攻撃手段カラ、最適解ヲ算出――提示。


 確かに、この方法なら反撃の隙は与えないでいられるかもしれない。けど……。


 推奨。実行。


 …………、こんな大技、絶対にできないと思う。でも、そこまで言うなら、やってみよう、かな。


 承諾。実行、開始――。


 “雨衣咲二刀流ういさきにとうりゅう 初伝しょでん 雨曝あまざらし”。

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