客死

橋述 和

客死

 「あの。鉛筆、どこですか…。」

 少女がカウンターの下から覗き込むようにして小さな声で尋ねてきた。私は少し居眠りをしていたせいで痺れてしまっていた体を持ち上げて、こぢんまりとした店の奥の文具が並んだ棚を指さした。彼女はその指の先を見つめるようにぬっと首を回し、催眠術にかけられたかのようにゆっくりと足を進めていった。夏の終わりの昼下がり、二時半過ぎの事だった。

 茹だるように熱かった真昼の通りでは、眠りこけているうちにやや涼しげな風が吹き始めており、扉の外ではもうずっと買われずにいる風鈴が去年の夏よりも心なしか鈍い音で鳴いていた。私は、建ってからかれこれ数十年と経つこの店を突然私に預け、二年前に死んだ祖父の事を思い出しながらその風鈴を眺めていた。

 その時少し空いた扉から蠅が入ってくるのが見えた。忍び込むように現れた蠅に少女は気が付く様子もなく、蠅はただ私の視界を占有するのみであった。蠅というのはどうにも自由気ままで、それでいて厄介なもので、相も変わらず静まり返っているはずのこの店にも何かしら奇妙な一通りの緊張を与えていた。どこかに止まったかと思えば、またあちこちへ。静まったかと思えば、またあちこちへ。そうしているうちにその蠅は勘定台に置かれた祖父の写真に止まり、しばらく動かなくなってしまった。写真はずっと前に祖父が三崎港へ行った際に撮ってきた記念写真であった。写真の中の祖父は漁船の並んだ海と曇り空を背に、穏やかな笑みを浮かべていた。

 再び店の中は静まり返った様子で、写真から少し目線を上げた向こう側では、時計の音だけが一つまた一つと響いていた。きっとすぐに陽が落ちる。そうするうちに眠たくなって、知らぬ間に秋が来る。秋が来ればきっと——


 「あの、これ…。」

 私ははっとして時計から目を離し、声の方へ向きなおした。少女は花柄の鉛筆を手に持って、こちらを見つめていた。少女が財布から取り出した百円玉を受け取り、十円玉を二枚手に取って少女に返した。少女が鉛筆を片手に持ったまま財布に十円玉をしまうのを見ながら、私は帳場の椅子に座り込んだ。

 その瞬間私の左手にいる何かが目に入った。それとほぼ同時に強烈な寒気に襲われ右の手でそれを力強く叩いた。

 ひと時のグロテスクに少しぎょっとして固まっていると、鉛筆を手下げにしまい込み店を出ようとした少女と一瞬目が合った。少女の目はわずかに笑っているように見えた。

 手の甲では蠅が死んでいた。


 夏の終わりの昼下がり、二時半過ぎの事だった。

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客死 橋述 和 @madoca_arinobe

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