第22話 魅惑の微笑

「自分で行け……」

 

言い終わらないうちに、長い腕が背中と膝の下にのびてきて、ブザーと共に動き出す遊園地の幼児向けアトラクションみたいに、身体がふわりと持ち上がる。

 


 普段見ている景色と全然違う。体育館の床が遠い。いきなり子供から、プロバスケの選手にでもなったみたいだ。わたしを抱きかかえてる人物に眼をやると、やはり初日にトイレの前でぶつかったあの高下蓮だった。

胃がぎゅっと縮みあがった。パニックになりそう。


「お、おります」焦って、足をジタバタさせた。


「頼むから、少しじっとしててくれるかな」視線を前に向けたまま淡々と彼は言った。

 

 静かだった体育館がざわざわし始める。

誰かがからかうように小さくヒューッと口笛を吹いた。

やだーっ、とかキャーっという女子の苦痛に満ちた悲鳴があちこちから上がる。ちらりと見ると高下蓮にしっかりとお姫様抱っこされてるわたしに、剥き出しの敵意や嫉妬にかられたまなざしを向ける女子達。

 


 何しろ彼は学校一、もてる男子なのだ。たった今、わたしは間違いなくほとんどの女子を敵に回したことになる。なんでよりによってこの人なんだろう。他にも生徒はいっぱいいるのに。というか、そもそも大崎くんが譲らければ良かったのに、と見当違いな怒りも沸いてきた。

 


 卒業まで平穏に学校生活を送るというわたしの唯一の目標は、この瞬間潰えたといっていいかも。こめかみのあたりに冷や汗がじんわりと滲みでてくる。

体育館は騒然とし、佳境に入っていた校長先生の話も今はピタリと止まっている。

 


 そんな状況はまるで意に介さないといった感じで、全校生徒達の視線を背中に受けながら高下蓮は涼しい顔で体育館を出て行く。体育館のドアを一歩でると、外の渡り廊下はそよそよと気持ちのいい風が吹いていた。

 


 彼の纏っている空気がふわりと揺らめいて、わたしの鼻をくすぐる。ああ、そうだ。この何とも言えない甘くて爽やかな匂い。トイレの前でぶつかって抱きしめられた時もこの匂いがしたんだっけ。

 


 そんなことを考えてると、また強烈な痛みの波が襲ってきてぎゅっと眼をつぶる。

痛みの波が少し去ったタイミングで、薄目を開けてものすごく近くにある高下蓮の顔をそっと盗み見る。



 まっすぐ前を見て歩く高下蓮の横顔。

初めて会った時もあまりの美しさに驚いたけど、やっぱり今日も驚いてしまう。実際の彼の美しさは姿を見ていなかった間、わたしが頭の中で完璧に再現していたと思っていた顔よりもはるかに美しかった。どの角度から見ても、非の打ちどころのない顔。顔の修正アプリでも、間違っても彼の顔を直そうとはしないと思う。

 


 トイレの前でぶつかった時とは違い、今日の彼はなんだか自然体で穏やかな表情をしていた。眼差しも温かく、あの日わたしを睨みつけた人とはまるで別人のようだった。それでも類まれな美しい顔立ちのせいなのか、近寄りがたい感じもする。

それとも、そう感じるのはどこか寂しげな彼の瞳のせい? 



 彼の体のてっぺんからつま先までで、唯一親しみを感じるのはくしゃっとしたくせ毛の黒い髪だけ。睫毛は濃く、くっきりとした琥珀色の瞳は、校舎の大きな窓から入る光が反射して、木賊色とくさいろのような輝きを宿している。ところどころに赤っぽい色も混じっていて、いたって平凡なわたしの瞳とはまるで違う。 

 


 これだったのね。ぶつかった時、彼の眼にちょっとした違和感を感じたのは……勝手にひとり納得する。気がつくと、さっきまで前を見ていたその独特な瞳は真っ直ぐにわたしに向けられていた。

慌てて視線を外す。この至近距離でこの顔は、致命傷になりかねない。


「・・・・・・人の顔の観察が趣味?」



  ぎゃっ。バレてた! 痛いふりして慌ててうつむいた。前髪で隠したけど、顔が真っ赤になっているのは、きっともう気づかれてる。彼の歩みが一瞬遅くなり、気のせいかくすっと笑ったような声がした。

 

・・・・・・今、笑った? 冷血人間だと美咲にこき下ろされていた高下蓮が?

そっと眼を開けて、前髪の下から横顔を盗み見たけど、顔色ひとつ変わってない。こんな事で笑うわけないか・・・・・・やっぱりわたしの気のせいかも。


「かなり顔色が悪そうだね。大丈夫?」彼は優しくゆっくりとした口調で訊いてくる。


「この前といい今回といい、君には同じ質問ばかりだな」



 わたしに話しているというより、独り言のように呟く。

そういえば、トイレの前でぶつかった時も同じことを訊かれたっけ。大丈夫って。あの時、ぶつかったのがわたしだって分かってたんだ。彼がわたしのことを覚えているのはちょっと意外だった。



 こんな風に抱きかかえられているのは、気まずいし恥ずかしいし、とにかく居心地が悪い。早く降ろしてもらいたかった。


「もう・・・・・・歩けると思います」思い切って言ってみたけど、掠れた声しかでなかった。


「まるで説得力のない声だけど」彼は丁寧に指摘する。


「少し気分が良くなったから、大丈夫です」ここは引き下がらなかった。



 本当は歩ける自信なんてないけど、精一杯の強がり。思わず言ってしまったものの、この前みたいに睨まれたらどうしようと彼の反応が気になってしまう。


「・・・・・・意外と意地っ張りなんだね」


そういうの嫌いじゃないけど、と微かな笑みを浮かべた。今度は本当に。

ただでさえ具合が悪いのに、気絶しそうなほどの魅惑的な微笑に意識が遠のきかける。トドメの一発。わたしの強がりは跡形もなく崩れ去り、これでもう歩く余力は微塵も残されていない。諦めておとなしくする。心臓はそうじゃなかったけど。



 たかだか数分の距離のはずなのに、保健室までの道のりがものすごく長く感じる。

シルクロードじゃあるまいし、いつになったら保健室に着くのだろう。

ドキドキして体が火照ってきた。

これ以上、彼の顔を見続けることは心臓がもたないと眼を閉じると、それきり彼も話しかけてこなかった。

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