魔法少母
土岐陽月
魔法少母
「あ。笑った」
赤ちゃん特有の、ふわふわしたほっぺたをつついてみた。くすぐったそうにしながら、目を細め口角を上げる君。
かわいい。そう思った。
この子のためなら何でもする。私が守る。
一カ月前、私は母になった。
「行ってきます」
まだ寝ている母と、君と、赤ちゃんの面倒を見てくれるおばあちゃんに向けていった。
おばあちゃんには何度も心配された。
病気と嘘ついて休んでいた高校。今日、久々に行く。確か今年度初めてじゃないかな。クラスがどうなったかとか全然分かんないや。勉強にもついていけないと思う。そもそもそんなに頭良くなかったし。
朝は騒がれたものの、私が久しぶりに来たクラスは元の日常を続けようとしていた。どこまでみんなが私の事情を知っているかは分からない。もしかしたら、全員知っているかもしれない。
うちの高校は女子高だ。だけれど、彼氏がいる人はゼロではないし、なんなら妊娠して中退した人もいた。
一時間目の授業、ロングホームルーム。高校三年なのだから、進路を考えろというやつだ。進学校でもないし、偏差値の低い高校だから半分より多くが大学以外を選ぶ。
進路調査用紙は幼稚園や小学校の頃にあった、将来の夢を書くものとは違う。
将来の夢、お嫁さん、お菓子屋さん、最近だとユーチューバー。
誰しも夢を持っていた。大人にあこがれ、未来にあこがれ。好奇心旺盛で、きらきらとした目をしていた。
魔法なんだ、きっとそれは。困難を乗り越える力。なんでもできる、どこからでも湧いてくる力。私たちはみんな、魔法少女だ。
毛布にくるまった私の子供。私は大人になりつつある。
その日、その日を生きられない。子供のころ夢見た未来が来ないことは知っている。私の子供は、コウノトリが運んできたわけでも、キャベツ畑で生まれたわけでもない。お父さんは仕事で夜遅くにしか帰ってこない。お母さんは朝帰ってくる。
しがらみにまかれ、私たちは大人になりつつある。
結局書けなかった進路調査表を背負い、帰り道を歩いていた。重い荷物を学校へ持っていって、また持ち帰ってくる。シーシュポスとどっこいどっこい。
毎日の魅力が消え、つまらなくなってしまったのはいつからだろう。君の存在で解放されかけた日々をまた繰り返す。
近くで平穏が崩れる大きな音がした。
「怪人だぁぉぁ!」
バカみたいに騒ぐ取り巻きの大人。
私たちはいつか魔法少女を卒業する。それはつまらない大人になった時。
ビルの死角から怪人が飛び出してくる。灰色の土埃が舞う。
私の周りからも沢山悲鳴が鳴り始めた。魔法を持たない大人たちは立ち向かえない。
立ち止まった私の横を、我先にと走り去って行く。
重い鞄を下ろし、小さく深呼吸する。
「へーんしん!」
右手を空へ突き出し、高い声で叫ぶ。
どこからとともなく、魔法のステッキが現れる。ハートの形をした大きな宝石が先についていて、ピンク色のリボンがちょうちょ結びされている。
キラキラ輝く光の中で、フリフリがたくさんついた、ピンク色のドレスを纏う。
「魔法少女、参上!」
ビルの高さが少し増し、空が遠くに見える。
「あたしならなんでもできるんだから!」
あたしの身長より大きい怪人に向き合う
町のみんなが少しはなれたところで手をにぎって見守ってる
ステッキを怪人の方へ振った
ステッキのハートからピンク色の魔法の光弾がいくつも怪人の方へ飛んでいった
命中し、ピンクの大ばく発が起こる
怪人は空のかなたへ吹っ飛んで星になった
ピースを作って決めポーズ
辺りが歓声に包まれる。いつの間にか私のドレス衣装は消え、いつのも制服に戻っている。鞄を拾う。……重い。家へ帰らなくては。
大人たちの拍手を背に受け、私はその場から立ち去った。
そっと、玄関のドアを開け、小さく、でも聞こえる声でただいまと言う。
家では、お昼寝中の君が待っている。撫でたいし、ほっぺたをぷにぷにしたいけれど、起こしてしまいそうだから我慢する。その代わり近寄って、君と添い寝をする。甘いミルクのにおいがした。
しばらくずっと、そうしていた。
轟音が響き渡り、家がビリビリと震える。うたたねしていた私は飛び起き、辺りを見渡す。
また二、三度地面が激しく揺れる。その音を縫って聞こえてきた君の泣き声。
外からは、振動のほかに人々の悲鳴や何かが砕ける音がする。急いで窓を開け、外の様子を見る。
空を覆いつくさんばかりの黒、噎せるほどの埃、血の匂い。
怪人がいた。さっきのとは比べ物にならないほど大きく、周りのビルをゆうに越すほどの。
辺りは、形容しがたいほど凄惨で、なぎ倒されたビルや傷ついた人達であふれかえっていた。
この家も危ない。私は窓から外に飛び出る。君のいる家を守る。私が怪人を倒す。
ステッキを振り、あたしは魔法少女に変身した。
巻き込んでしまわないよう、あたしは逃げ惑う人と逆方向へ走り出す。怪人があたしを見つけ、そのとんでもなく大きい手でつぶそうとした。それをジャンプで華麗によけ、怪人の腕を駆け上がる。怪人は腕を振るい、あたしを振り落とそうとする。それが近くのビルを壊し、ガラス片があたしの頬をかすめた。
痛み、同情が欲しかったわけではない。
血を拭い、走る。
自分に非があったんじゃないの?
別のビルの屋上に飛び移る。
でも、あいつが悪者扱いされなかったのが、許せなかった。
怪人はあたしを見失う。背後をとれた。いけるっ
あたしはステッキを思い切り振り、魔法弾を飛ばす。
怪人に命中し、弾が大爆発を起こす。
勝った……と思った。
白煙の中から、飛び出してきた巨大な腕が強く、強くあたしを打つ。反応が遅れた。
吹き飛ばされ、地面に削られ、落ちていた巨大なコンクリート片に打ち付けられた。
胸を腹を抉るような、覚えのある痛み。
足を縮め、腹を抱え込み、胎児のように丸くなる。
魔法が、効かなかった……
あたしには無理だ。勝てっこない。
キラキラしていた。美しくて、いとおしかった。なんでもできる気がしていた。希望に満ち溢れていた。そう思っていたあたしの魔法は、怪人を倒せなかった。
でも、どうしようもなく、綺麗なんだ。捨てたくない。
子供でいるのは、そんなにも悪いことなんだろうか。
弱々しい子猫の声。首だけ起こし声の方を見る。灰色の残骸に囲まれ、一人ぼっちで泣いていた。君のことを思い出す。あたしが守らないと……
……違う。あれはあたしだ。
子猫のまま逃げられないで泣いている今のあたしだ。
少し遠くで、君の泣く声が聞こえた。
弱さの証。永遠に消えないキズの印。
いつの間にか、フリフリがついたピンクのドレスは消え、制服に戻っていた。
手の中にただ一つ残る、魔法のステッキを見た。
息を呑む。
プラスチックでできた、安っぽく光るハート。スカスカなステッキ。それらを止める鈍色の大きなねじ。随分と、軽かった。
こんなだったのか。私の好きだった魔法は。
覚えのある、腹の痛み。
ああ、私は、大人になったのか。
おもちゃのような魔法のステッキを、そっと地面に置く、からりと安い音がした。
ひどく大きな怪人に向かって、私は走り出す。制服のまま、ステッキを持たないまま、魔法を捨てたまま。
恋をするとか、処女を失うとか、そういう時に魔法を失うんじゃないんだ。
守りたい何かができたとき、そして、それを救わなければいけない時、私たちは選択して魔法を捨てる。
自分を鼓舞するために、声を上げて走った。怖くないと言ったら大嘘になる。でも、『私』なら倒せる気がした。君を守りたい。
怪人めがけてジャンプする。あの時のように、ビルを飛び回る大ジャンプなんてできない。等身大のジャンプをする。
それでも私は勢いに乗り、拳を振りかぶる。そして、
巨大な怪人に、ちっぽけな拳を振り下ろした。
怪人が倒れ、大きな地響きがした。
肩で、息を、する、
家は、君は、無事だろうか。
君のいる我が家に急いで駆け寄った。
布団の上でぐずっている君……。良かった、無事で。守れたんだ。
涙を拭ってやって、抱きしめる。ミルクのにおいがした。
この子は私が守る。守らなければいけない。
私は、母になった。
魔法少母 土岐陽月 @TokiAduki
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