第3話 乱数

 そんなこんなでエロゲーの主人公になった俺だったが、どこか腑に落ちない。恋愛シミュレーションゲームの主人公っていうのは、いろんな女の子から無条件の好意を寄せられるものではないのか? ここに来て1ヶ月経っていたが、女の知り合いといえば、幼馴染の亜季だけだった。亜季とはいつも中休みに弁当を食べていた。別段かわいいというわけではなかったが、俺にとっては気が置けない友人の1人だった。

 かわいいといえば、確かあそこにいる沙織さんはこのゲームのヒロインだったはずだ。彼女は1人でいることの多い娘だが、その容姿と川のせせらぎのような雰囲気から、クラスの男子には一目置かれている存在だった。確かシナリオでは、あの娘との出会いイベントがあるはずなんだけど。

 しかし俺の日常にはなにも起こらなかった。毎日毎日、亜季と弁当を食い続けていた。


 ある日の放課後、俺はそそくさと帰り道を進んでいたが、机に国語の教科書を忘れたことに気づいた。さっきより一層重くなった身体を回し、学校へと引き返した。茜色の夕焼けが世界を照らしていた。少し、身体が軽くなった。人がまばらな校内を通り、2年1組の建てつけの悪い扉を開けると、知っている顔がいた。亜季は目を見開いて俺を見つめた。

「おう、なにしてんの?」彼女のその不可解なリアクションを心配しつつも、俺はそう聞いた。

「いや、えーっとぉ、」彼女はいつになく歯切れが悪かった。露骨に俺から目をそらして、開け放たれたブレザーの裾をいじっていた。

なんだろう。知らないうちに、自分の心臓が脈打つ音を俺は感じていた。俺はそれがなにかを知らなかったが、それがどんなものなのかを知っていた。

「わたしね、さっき告白されちゃって、」

亜季はさくらんぼのような顔色でそう言った。一瞬、俺は無音の世界にいた。心臓は爆発してどこかへ消えていた。俺はもう、そこにはいないみたいだった。


カキーン。


どこからか聞こえた野球部のバッティング練習の音で、俺はこの世界に帰ってきた。よくもまぁこんな蒸し暑い日に練習するなぁ、というのが俺の第一声だった。

告白、か。思えば、それは普通のことだ。僕らは青春真っ盛りの高校生で、この娘は気立てのいい女の子で、それを好んだ男がいて。なにも間違ってなどいないのだ。ん? なにも? 俺は必死にその部屋へ入ろうとしていたが、どれだけやってもドアは開かなかった。なにも間違っていないのなら、どうして俺はいまこんな気持ちなんだろう。どうしてドアは開かないんだろう。どうして俺はなにかから逃げようと必死なんだろう。

「でっ、でもねっ、」不意に彼女が言葉を発した。さっきから俺は黙っていたみたいだった。

「でも、返事はしてないの。”考えさせてください”って言って、」そう言うと、亜季は不思議に黙った。下を向いているからか、彼女の茶色がかった前髪がサラサラと揺れていた。

俺は「そう、なんだ。」としか言えなかった。なにか今、自分の前にとてつもない大きさのなにかがいるような気がした。それは俺の手には余るようなもので、どう倒したらいいのか全くわからなかった。なぜだか、この場から立ち去りたいと思っていた。

夕焼けの入り込んだ教室で突っ立っている俺に、彼女は聞いてきた。

「わたし、どうしたらいいかな。」

もう俺には逃げる場所などなかった。いつも通りに進むと思っていた時間は、なんの予告もなく急に狂うものらしかった。

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