@13 名前
「おはようお兄ちゃん、よく眠れた?」
朝か。僕はベッドから起き上がる。
「久しぶりにね。良いベッドのおかげだ」
僕はベッドを撫でた。寮のベッドは少し固かったが、ここのベッドは身体を包み込むような不思議な素材だった。
僕は足元で何かが動いていることに気がついた。猫かと思ったがそれは自動掃除機だった。
「親への気持ちの整理はもうついているって、自分ではそう思っていた」
僕は昨夜の夢を思い出しながらそう呟く。
「でもでも、心の底じゃついていなかった」
幽霊が僕の心を代弁した。
「そう、父親ですら。小学四年生から一度も会っていないのに、棘のように心に刺さっている」
僕は床を走る掃除機を踏まないようにして部屋を出て洗面所に向かった。この家の風呂場は一階だけだが、トイレは各階にある。
「過去に囚われてるんだね」
僕は洗面台の鏡越しに幽霊を見つめた。ゆらゆらと揺れる白い服は何かに似ていた。
「そうだ、いいことを思いついた」
僕がそう言うと幽霊はキョトンとした顔で首をかしげた。
「君に名前をつけよう。ただただ幽霊って呼ぶのはいささか味気ない気がするんだ」
幽霊は浮かび上がって僕に顔を近づける。僕は振り向いて微笑んだ。
「どうだい、何か希望はあるか?」
「ううん、お兄ちゃんがつける名前なら何でもいいよ」
僕は幽霊をまじまじと観察した。何か特徴になる要素はないだろうか。数分間の奇妙な空白ののち、僕は口を開いた。
「雪(ゆき)というのはどうだろう」
「ゆき、降りしきる雪?」
幽霊は雪降る景色を思い浮かべるように目を上に向けた。
「そう、君は真っ白だから雪。すこし安直すぎたかな」
僕は照れを隠すための笑みを顔に浮かべた。
「雪、気に入ったな。ボクは今日からそう名乗るよ」
幽霊は目の前でスケート選手のように一回転した。
「そうか、うん、気に入ってもらえて良かった。あらためてよろしく、雪」
僕は手を差し出した。雪と触れ合うことはできないと知っていても身体が勝手にそう動いた。雪はそれに応じて手を重ね合わせてくれた。
「夢の中とはいえ、君の言葉は確かに僕を励ましてくれた。僕に取り入るための作戦だったとしたら僕の負けだ」
お兄ちゃん、すごいや。何て簡単な言葉だろう、でも僕が欲してたのはそういった言葉だったのかもしれない。今や僕の中の雪に対する嫌悪の感情は確実に薄まっていた。
「あれは作戦なんかじゃないよお兄ちゃん。本心なんだ」
雪は本当に触れ合いそうになるくらいに僕に顔を近づけた。
「僕はお兄ちゃんに嘘をつかない」
真剣な眼差しだった。紅い眼の奥に何か蠢くものを見た気がした。
「コズ?」
ユヅハの声だ。僕は幽霊に目配せをしてトイレを出た。
「おはよう、顔を洗っていたんだ」
そこには寝間着姿のユヅハが立っていた。でもよく考えたら僕だってそうだ。
「おはよう。部屋にいなかったからこっちに、朝食を用意したから呼びに来た」
僕は感謝の言葉を述べて一階に戻る彼女の後を追う。彼女のすぐ後には猫も歩いていた。ユヅハに懐いているのだろうか。
「よく眠れた?」
本日二回目の質問だった。
「ああ、おかげさまで」
「よかった、運動は好き?」
「嫌いじゃないけど、得意ではないかな」
「後で庭でテニスでもどうかなって」
意外な提案だったが、僕には断る理由もなかった。
「もちろん、お手柔らかに」
軽い朝食を済ませたあと、僕は彼女が用意してくれたテニスウェアに着替えた。
「似合ってる」
ユヅハが言う。サングラスをかけたユヅハは表情が隠れて更に謎めいた雰囲気があった。僕はすこし安心した。今の彼女はそれほど悲観的な表情をしていなかったから。
僕たちはラケットを持って濁りのない青空の下に立った。
「テニスのルールを知らない」
僕はネットの向こうにいるユヅハにそう言った。
「じゃあ、先に五回ポイントをとった方が勝ちっていうのはどう?」
「そうしよう、わかりやすい方が助かる」
ユヅハは頷いてボールをサーブした。僕は走ってそれを打ち返し、彼女もまた走ってそれを打ち返した。
最初、僕は彼女の動きを緩慢だと思い、勝てると思っていた。しかしよく観察するとそれはあくまで最低限の動きでボールを取りに行っているのだと気づいた。
後半戦になると僕は息切れが目立つようになった。自分の体力を全く把握できていなかったのが原因だ。
結局二対五で僕は負けた。僕は負けた瞬間、綺麗なコートに寝そべった。真っ白な太陽が目に入り思わず目を閉じた。
「僕の負けだ」
「初めてにしては悪くない」
「ありがとう、自分の体力の無さに驚いたよ」
僕は自嘲気味に笑った。
「仕方がない、寮生活じゃ身体も鈍る」
「体育プログラムだけじゃ健康に必要な運動量はこなせないからね」
経馬みたいな人間なら休み時間や休日に友達とバスケットボールなんかもしているが僕がそれほど活発な人間じゃないのは自明だ。
「家の中にはジムもある、この夏休みのうちに体力をつけてもいいかも」
「至れり尽くせりだな、ここでの生活は最高だ」
僕は立ち上がって地面から拾い上げたボールを思いっきり打った。小気味良い音を立ててボールが吹っ飛ぶ。
僕の心は今やこの青空のように晴れ上がっていた。
「君が望むならいつまでもここに居てもいい」
「はは、できるならそうしたいね」
僕はユヅハの冗談に笑顔でそう返した。しかし冗談ですら真顔で言うのは少し反応しにくかった。
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