06 海辺のテラス


              *


 インド洋。クリスマス島。深い蒼に染まる海。張り出した土地に白い家が建っている。     

 海風が撫でるテラスにテーブルが置かれ、ブロンドヘアの痩せた男が椅子に背を預けていた。イワン・スミルノフ博士。共産圏から偽装亡命したナノマシン学者だ。

 もうじき、視界いっぱいに壮大な夕暮れが始まる。宇宙が贈るパノラマだ。

 そういう意味なら、250年後に太陽系を呑み込むブラックホールもまた宇宙の贈り物なのだろう。そこにどんな意図があろうと、博士には興味がない。どうせ死んだ後のことだ。

 テーブルには、ノートPCとワインボトル、それに宝石箱を思わせるレザーケースが載っていた。

 彼は機嫌が悪かった。本来ならシャンパンを飲むはずが、そうはならなかったからだ。秘蔵のシャンパンが普段飲みのシラーに変わったのは、先ほど受信したレポートのせいだ。発信元はKINKIメディカルセンター。6日前、Alice対ブースッテッドマンの対決があった闘技場アリーナからだ。

 中国人のボスと賭けをしていた。イワンが当然のようにAlice勝利に張ると、じゃあその逆、とボスはブーステッドに張った。確実な負けに賭けてボーナスをくれる気か──そう思っていた。

 ところが賭けはボスの勝ち。大金を支払うか、最低でも半年はタダ働きをするハメになった。

 賭ける時にボスはこう言った。戦闘において、復讐心こそが最高のポテンシャルだ、と。

 復讐心がAliceをねじ伏せたとでもいうのだろうか。そんなに強い復讐心があの三人にあったのか? 

 添付された脳波データを変換したポリゴン映像で、おおまかな戦いの様子はわかる。人間たちは反撃に転じ勝利した。にもかかわらず、とどめを刺さなかった。その〈結果の未確定〉が原因でAliceは論理破綻をきたし自壊した。

 データから起こした映像以外で、何かが起きていたのだ。

 音声が構成できないから映像は無音だ。よって、やりとりは不明。だが、あきらかにもう一人、四人目のが居た。映像に捉えられない四人目にAliceは反応している。アルゴリズムから少女を解放し、形勢逆転のトリガーになった。その者は、信じられないことに、せっかくの反撃を中途で止めている。

 意味がわからない。

 その者は誰なのか。何処から現れて何処へ消えたのか……

 謎だ。時間をかけて考察する必要があるだろう。

 イワンはグラスに血の色の液体を注ぎ足す。

 それにしても、データだけのレポート提出になぜ6日もかかった? 何度問い合わせても結果の回答さえ拒否された。仕事のできない黄色イエローモンキーどもめ!

 データ映像をまた再生し直す。何度見ても負け戦は変わらないが。 

 シラーの重い渋みは自分への罰に思えた。

 卓上のレザーケースを引き寄せて蓋を開く。緩衝材に包まれたホルダーには点眼剤様の小瓶がひと瓶収まっている。瓶の中身はAice原液だ。淡緑を帯びる5mlの液体には、数万のナノマシンが泳いでいる。希釈すれば1000人分ができあがる。自らの頭脳と手が創り出した、いとしい我がだ。

 イワンは頬ずりしそうなほど小瓶に顔を寄せた。

「Aliceちゃん、負けちゃったね。くやしかったろう。パパが改良してもっと強くしてあげるよ。ブーステッドなんかに負けないようにね」

 ワインの渋みにチーズが欲しくなった。呼び鈴を持ち上げて鳴らした。

「つまらんところを突かれたものだ。今度は、自壊など起きないように論理構成の曖昧値を広めに取るか…… なにしろ人間というヤツは、何をしでかすかわからん──」ぶつぶつ我がに語りかける。

 イワンはしばらくの間気づかなかった。背後に立つ死神に──

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