1話 - Ⅱ

『………………』


 まただ。また聞こえる。

 どこの国の言葉かも分からない。だけど、どこか心に引っかかる謎の声。


『……!……!……!』


 何を言っているのか、全く分からない。

 でも、何かを訴えかけてきているのは、感覚的に理解できる。


 次第に大きくなっていく声は、幻なのか現実なのか、その境界線が曖昧すぎて、逆に気持ち悪かった。


 異物が体内を駆け巡る不快感の直後、胸が急に苦しくなり、とうとう耐え切れず、彼は起床した。


「っはあ!……なんだってんだよ、一体」


 つい先ほどまで頭蓋を響かせていた声は、もう一切聞こえず、またか、と黒斗は内心ため息をついた。


 最近、同じ夢ばかり見ている気がする。と、彼は寝起きでぼんやりする頭を右手で押さえながら思った。


 誰かに呼ばれているような、しかし何を言っているのか分からない。全くもって、歯がゆい夢。


 おかげで、ここ最近の寝覚めは、過去最悪と言ってもいい。


「人の怨念、とかか?」


 彼の行っている無力化について思えば、恨まれても仕方がないが、しかし、そうなると疑問が出てくる。


 なぜなら、極端に恨みがましい罵詈雑言を浴びせるのではなく、自分のことを必要としているような、遠くから誰かが呼んでいるような、そんな奇妙な感覚を受けるからだ。


 詮無いことだ。考えたところで、答えが見つかるわけでもない。


 そうやって、彼がいつもの結論に行き着いた時、ちょうどタイミングよく、自室の扉がノックもされずに開かれた。


「黒斗、アンタまた寝てる間にうなされてたけど、大丈夫?」


 母親だった。またうなされてた、ということは、今日が初めてじゃないのだろう。


「なーんかここ最近、変な夢ばっか見るんだよな」

「特に昨日から酷いよ。夜中に声がすると思ったら、あんたの呻き声だったんだから」


 布団から起き上がり、黒斗は軽く伸びをした。


「ああ、ちなみにさ、オレなんか寝言でも言ってた?」


 一応、彼は質問してみた。毎晩同じ夢を見るというのも、少し異常である。何か手がかりがあれば、儲けものであろう。


 その時、ほんの一瞬だけ、母の表情が曇った。


 だが、あまりにも短い時間だったので、黒斗もさして気に留めなかった。


「うーん、ただの呻き声にしか聞こえなかったわね。――さ、朝食が冷めちゃうから、アンタも早く起きなさい」



     ◇



 今年高校三年生になった黒斗だが、今はもう12月。すっかり、卒業目前になっていた。すでに大学入試も合格しており、今は惰性を楽しむ高校生活を送っている。


 自宅から自転車で20分ほどの距離にある、県立高校。


 偏差値は高くも低くもない。いわゆる、中堅校というべき学修機関は、平凡を装うには都合がよかった。


 相変わらず、ガヤガヤしている教室の中。黒斗は目立つことなく、自分の席に着席した。


「よ、黒斗!」

「はあ」

「なんでため息つくんだよ!?」

「お前は朝から元気で羨ましい、って思っただけだよ。で、何か話したくて来たんじゃないの?」


 彼の名前は伊藤くん。

 何だかんだ三年間もクラスが一緒になってしまった彼とは、そこそこの仲と言ってもいいかもしれない。


「お前さ、今朝のニュース見たかよ?」

「あー、見てない。それがどうかしたの?」

「いや、実はこないだ元中のクラスメイトが事故で死んだって聞いて、葬式に行ったんだけどさ。そのクラスメイトが死んだ本当の理由って、いじめが原因だったんだと」


 何も知らない体を装い、黒斗は聞き手に回った。


「それだけでもマジ酷いんだけどさ、それ以上に酷いのは校長だよ、校長。いじめの事実も、自殺する際の遺書も、全部証拠を隠蔽したんだから。マジ、死んだあいつが報われねーよ」


「そうだったんだ」


 初めて知ったかのような感情を言葉に込め、黒斗は同情の言葉を贈った。


 しかし流石に、自殺した女子生徒と伊藤が同じ中学の人間だったことまでは、知らなかった。


「いじめグループのリーダー格の女の母親ってのが、これまた厄介でよ。PTAの会長もやってるらしいんだけど、それ以上に問題なのは、そいつの祖父なんだよ。誰だと思うよ?」


 いいや、と黒斗は首を横に振り、誰だか教えてくれ、と瞳で伝えた。


「この街の市長だよ。市長だぜ?ホント、ふざけるのも大概にしろって感じだよな」

「大方、市長が校長に圧力をかけた。ってところか」

「ああ、そういうことらしい」


 伊藤は大きく息を吐くと、やるせないような表情をした。


 事件の全容をすでに知っていた黒斗でも、今の彼に何て声をかけていいのか、少し考えてしまう。


 彼はどういう言葉を使うべきなのか逡巡していたが、会話の沈黙を嫌ったかのようなタイミングで、不意に伊藤の方から口を開いた。


「でもさ、神様って信じてるわけじゃねーけど、今回ばかりは少し信じたぜ」

「え、どうして」


「いや、事件が発覚した要因って、ネットにアップされた動画なんだってさ。オレも見たんだけど、正直言葉失ったわ」


「どんな内容だったのさ」


 我ながら、よくこんな自作自演の質問が出来ると思う。


 しかし、もう慣れすぎてしまったことだし、別にそれ自体は、悲しいことでも何でもない。


 例え、永遠に仮面を被ることになったとしても、この作業が悪を駆逐するために必要な習慣だというのであれば、喜んで受け入れる。


――それが、無力化に手を出した少年の覚悟だった。


「そのPTA会長と、そのお友達が、くっちゃべってる動画。ま、有り体に言うなら、ありゃ盗撮だわな」


「おいおい、それって違法行為だろ?」


 滑稽すぎる自己否定。そして芝居。


 自分が行った行為に対して、反対の意見を述べる日常側の石杖黒斗。


 多重人格でも何でもないのに、自分が二人いるような、そんな錯覚を覚えてしまいそうだ。


「まあ、そうだけどさ。結果的に見れば、そこから火が付いて、警察の捜査も始まって、最終的には隠蔽の事実が発覚したんだから、オレはあの動画がアップされて良かったって思ってる。死んだ藍堂の無念も、少しは晴れたんじゃないかな」


 藍堂。自殺した女の子の名前だ。


「どこの誰だか知らないけど、あの動画をアップした奴には感謝してるよ」


 彼は知らない。その人物が、さっきからずっと目の前に座っている人物なのだということを。


 黒斗は、彼の感謝を素直に受け取り、素直に喜んだ。もちろん、胸の内で密かに。


 例え、それが犯罪行為であっても、報われる人がいる限り、無力化の価値は失われない――。


 あの日、川に流したセンチメンタルが、ちょっとだけ救われた気分になれた。

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