第三章『絶望の先』①
十二月二十二日・午後三時・羽也空港国際ターミナル。
百合島最大の空港内には、クリスマス旅行に胸を躍らせる家族連れや恋人達が、行き交う。
広々とした屋内の中央に建つ、巨大なモミの木に虹色のライトアップやオーナメントを飾ったクリスマスツリーは、輝き満ちる。
クリスマスツリーを目印に待ち合わせる一人一人が、相方と手を繋いで笑い合い、移動していく中、一組だけは暫し立ち尽くしたまま。
「美天・・・・・・どうして?」
「ごめんなさい・・・・・・晴斗」
クリスマスツリーを背に佇む晴斗は、森緑色に艶めくトランクに紺碧色の身軽なリュックサックを持ったまま、首を傾げていた。
一方、晴斗に触れられないよう意図的に距離を取る美天は、手ぶらだ。
これから一緒に旅行する、いで立ちには見えない。
目を合わさないように俯く美天の異変と謝罪の意味を、晴斗は理解できない。
暫しの沈黙の後、美天は絞り出すように答えた。
「私は・・・・・・晴斗とは、一緒に行けない」
「どういう意味、かな。美天」
「別れてほしいの」
確かな拒絶を含んだ声で奏でられた言葉に、晴斗の瞳は初めて動揺に凍りついた。
一方、突然別れを求めてきた美天の瞳――奥では、魂の悲鳴がひしめき合っていた。
*
時は遡って――十二月十六日。
「お疲れ様、美天。これから一緒に昼食にしよう」
「あ・・・・・・晴斗? ごめんなさい・・・・・・ついさっき、先に食べ終わってしまって」
「そうなのかい?」
「うん。ちょっと、担当の羽柴・幸雄さんとご家族さんとの面談で難航していて・・・・・・早めに確認したいことがあったから・・・・・・ごめんね」
「いいんだよ、そういうことなら。でも、休める時はゆっくり休んでおいてね」
「ありがとう、晴斗・・・・・・」
晴斗から、クリスマスの有給休暇を利用したドイツ旅行の券が入った封筒を、渡された後日。
美天は、職場で晴斗を避けているように見えた。
事務を一段落させた晴斗が声をかけても、美天は先程のように他用を理由に断る。
美天は、心底申し訳なさそうに謝るのみ。
「何だか朝比奈さん元気ないね・・・・・・一体、どうしたんだろう」
最近、美天の様子がおかしいことに晴斗だけでなく、一部の同僚も薄々気付いていた。
どこか、上の空に見える。
事務や談話をこなしているようで、時々瞳は虚ろな次元を彷徨っている。
あいさつや世間話を交わす際に見せる笑顔も、無理しているようで、見ている側が痛々しく感じる。
先輩PSWの小倉先輩は、美天にさりげなく声かけをし、一人で抱えないようにと遠回しに励ます。
しかし職業柄や立場もあって、本人から悩みを打ち明けたいと思わない限り、相手から無理に訊き出す真似はできない。
それは、恋人である晴斗も例に漏れない。
無理強いな態度は、かえって相手の心を頑なにすることも、熟知していた。
『お疲れ様、美天。忙しいとは思うけど、僕でよければ、何時でも話を聞くから。一人で抱え込まずに、ゆっくり休んでね』
患者と家族の面談を終えた美天の
最近、顔を合わせてゆっくり話す時間が取れない美天を、労ってのことだろう。
美天は、晴斗の残したメモを無造作に
甘党の彼が好きな、クレームブリュレ飴の優しく濃厚な風味が口の中で溶けていくと、眼底はツンと熱くなった。
夕方に勤務を終えた美天は、事務所に残った同僚にあいさつすると、晴斗を待たずに病院を後にした。
最近、晴斗は父親の知り合いの夜間クリニックを手伝っているらしい。
きっと、旅行を楽しむ資金集めも兼ねて。
「・・・・・・晴斗・・・・・・っ」
外一面は、灰白色の雪世界に染まっていた。
雪の向こう側から白い夕陽が眩かせていたが、霞んではかき消されていく。
霧のように容赦なく降り注ぐ雪の中、美天はぼんやりと浮かぶ外灯を頼りに、最寄り駅を目指す。
ギリギリの刻限の電車へ慌てて駆け込んだ美天が向かうのは、青百合駅から特急電車で三十分先にある、中央王百合駅。
王百合市は百合島の中心的な発展都市であり、他所の島から訪れた観光客から大企業、大学関係まで、数多の人間や商業が最も集中している。
かつて、美天の通っていた百合山大学のキャンパスも、王百合市にある。
二年ぶりに訪れた王百合市の賑やかな街並みの明るさ、人々の波に懐かしさと共に圧倒されながらも、足を急がせる。
「よぉ、遅かったな」
美天の着いた場所は、王百合市内に点在するバーガーチェーン店の一つ。
店内で談笑する学校帰りの学生や休憩中の社員、茶会中の中高年達を横切った先にある、仕切り付きの二人がけテーブルで、美天は男性と落ち合った。
軽佻浮薄に微笑む男性に、美天は不快感を隠せない中、恐々と向かいの席へ腰掛けた。
仕事帰りらしく、男性は紺色のスーツに白いワイシャツ、洒脱なデザインの青いネクタイを身につけた会社員らしい格好だ。
髪も耳に軽くかかる長さにワックスで控えめに整え、慎ましい焦げ茶色に染めている。
しかし、いかにどこでもいる普通の好青年風の新人ビジネスマン男性の唇は、悪意を描いていた。
「それで・・・・・・話って何・・・・・・?」
「同級生に久しぶりに会ったっていうのに、随分つれないんだな。むしろ、朝比奈の方が、俺に用があるんじゃねぇの?」
怯えを必死に押し殺している美天を映す瞳には、相手の冷酷な光が揺らめく。
相手は、テーブルに置きっぱなしの携帯端末へ意味ありげに触れながら微笑む。
相手の意図を感じ取った美天は、携帯端末を凝視したまま凍りつく。
やはり、何もかも変わっていない。
普通の好青年の顔に隠した、
最中、現実ではわずか数秒ほど意識の半分は、忘れられない記憶へと無理やり引き摺り込まれた。
くだらない理由で、自分から全てを奪ったこの男との過去を。
*
『
当初の田辺の印象は、ちょいヤンチャ系の明るい優等生だった。
犬毛さながらツンとした短髪に中肉中背、愛想の良い顔立ち。
ノリの良い性格のわりに、勉強はできるため女子受けも高く、いつも男友達に囲まれていた。
同じサークル所属だったため、当然互いに顔と名前を知り、そこそこ言葉を交わす間柄だった。
だから、大学一年生の夏休み前に呼び出された時は、驚きを隠せなかった。
『俺、実は会った時から朝比奈のこと・・・・・・けっこういいなって気になっていたんだ』
田辺に告白されると同時に、交際を申し込まれた。
美天自身は異性に、それもわりと人気者に告白されたのは初めてだったせいか、驚きと恥じらいで絶句していた。
一方、田辺は美天の沈黙を肯定と見なしたのか、彼女の返答を待たずしていきなり顔を近づけてきた。
『嫌・・・・・・!』
不意打ちで口付けられる寸前に、美天は平手打ちで抵抗した。
はっと我に返った美天の瞳には、左頬を赤くして愕然とこちらを凝視する田辺が映った。
『あ・・・・・・ごめんなさい、つい・・・・・・その、私には付き合っている人がいるので・・・・・・本当にごめんなさい!』
いたたまれなくなって怖くなった美天は、田辺の誘いを断ると、放心の彼を置いて逃げ去った。
事実、当時の美天には高校時代からの付き合いで、学部とサークルは異なるが、同じ大学に入った恋人がいた。
衝撃の告白を受けた翌日から暫くの間、美天は同じサークルや講義でも、なるべく田辺と目線を合わせないようにした。
失礼かもしれないが、やはり気まずくて仕方なかったのだ。
しかし、事態が急展開したのは七月下旬、大学の夏季試験に入った頃。
美天は、同サークルの先輩からの定時連絡メールと一緒に、メッセージを受け取った。
『美天ちゃんへ。田辺君から、この間のことについて話を聞き、相談されました。田辺君は、この間の告白で美天ちゃんに嫌な思いをさせてしまったみたいだ、と落ち込み深く反省しているみたい。だからお詫びに明日、最終夏季試験の後に予定してある「打ち上げ会」で、美天ちゃんにちゃんと謝りたいとのことです』
サークルの書記を務める三年の夏美先輩を介して、田辺が詫びたがっていることを知った美天は、誘いに応じた。
夏季試験の最終日、七月一番となった猛暑は、夜まで延滞していた。
五限目の精神保健学のテストを終えた美天は、打ち上げ会場に指定された英語サークルの教室へ向かった。
サークルスペースのある古めかしい旧校舎の三階は、六限目終わりの夕方には施錠される。
しかし、今回は特別にサークル活動の名目で、先輩達が鍵を預かっていた。
黄昏に照る木々の香る旧校舎の階段を登り、三階の廊下を歩いて奥突き当たりの教室が、英語サークル用のスペースだ。
教室に入ると、夏美先輩の他、二年生の男先輩に田辺とよく一緒にいる同級生の男子の七人は迎えてくれた。
『他の皆は、六限目のテストやバイトを終えてから合流するからね』
小さな懐中電灯の光だけがぼんやりと浮かぶ、薄暗の教室内に流れる夏の静寂。
強く効き過ぎたエアコンの冷風に、肌寒さで震える。
打ち上げというよりも、肝試しを始めかねない薄気味悪い雰囲気に佇む先輩と同級生に、美天は何だか空寒さを覚えた。
『隣の教室に、打ち上げ用の道具をしまってあるから』
『先に田辺達が準備に取り掛かっているから、手伝ってくれないか』
先輩と同級生の男子に促された美天は、己の違和感を頭の隅へ追いやった。
教室の後ろにある準備室からぼんやりと照る灯りに誘われるように、美天は付いて行った。
美天は普段と同じ慣れた手付きで、準備室の扉を開けた。
『え――』
普段の昼間に見慣れた狭い準備室の景色は、一瞬で暗転した――。
『おい、お前しっかり縛って押さえつけとけよ』
『ねぇ・・・・・・これは、さすがにヤバイよ・・・・・・! 今からやめても遅くは・・・・・・』
『は? 俺に指図するなよ、奴隷の分際で。俺をコケしたこの女に罰を与えないと』
一体、今何が起こっているのか――感情よりも先に本能は、数秒足らずで暴れ狂うことで応じた。
ようやく、状況を頭で理解したのは、半身を縦一直線に引き裂かれそうな尋常ではない激痛に、悲鳴をあげてから。
臓腑を奥内側から迫り上げられるような不快感、魚の腸をぶちまけられたような生臭、脳味噌をかき回されるような恐怖へと深く――深く溺れさせられた底で、汚らわしい獣人形となった自分と逢った。
自分の身に降りかかった現実を照らし晒す朝陽に、目覚めた頃――。
朝比奈・美天という人間は、汚濁と穢罪にまみれていた――。
*
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