『幸福恐怖症』②

 「初めて逢った時から、あなたのことをいつも気にしていたんです」


 清廉な白百合の花は、黄昏の光を纏って優美に揺らめく。

 赤い夕陽に染まった屋上の白いタイルに、二つの黒い影は妖しく佇む。


 「ご迷惑かもしれないと承知です。でも、一生最後のお願いです・・・・・・」


 夕暮れの屋上へ自分を呼び出したのは、私立百合浜高校の生徒である河田・実里。

 確か、特別内科病棟の二〇二病室に入院している患者である宇都宮・雛子の親友で、よく見舞いに来ていた。

 宇都宮雛子は、白血病の末期患者であり、医師から残り一ヶ月の「余命宣告」を受けた少女だ。

 自分の担当する診療科とは異なるが、精神・心療内科病棟へ行くには、内科病棟の通路を渡る必要がある。

 初めの接点は、廊下で立ちくらみに襲われた雛子が床に頭を打つ前に、自分が間一髪支えた事だった。

 以降、自分の担当病棟へ戻る際は、毎回必ず雛子と顔を合わせるようになった。

 最初は簡潔なあいさつのみだったが、やがて世間話を交わしたり、雛子自身の話を聞いたりする機会があった。


 「どうか、雛子のになってあげてください!」


 雛子の気持ちには、既に薄々と気付いていたため、驚きはしなかった。

 恋を叶えられないまま、残りの人生を終えようとする親友を見かねた河田実里は、無茶な要求を申し出ることも。

 闊達で友達思いの彼女の性格から、容易に想像できた。

 

 「ごめんね・・・・・・僕は、雛子さんの願いを叶えてあげられない」


 静謐せいひつの瞳に憂いを灯して答えると、実里の顔に悲しみは波紋する。

 直後の展開が、自分には既に読めていた。


 「どうしてですか!? 雛子のことは嫌いじゃないですよね? ならお願いです! ほんの少しの間・・・・・・いえ一日だけでもいいんです! 雛子を好きになって!」


 一度断られただけでは、実里が食い下がらないことも。


 「雛子さんは良い子だと思う。僕にはもったいないくらいだし、今時珍しい芯の強い優しい子だと思う・・・・・・でも、僕は彼女の気持ちに応えられる立場ではないんです」

 「だったら! このことは私達だけの秘密にして、看護師さん達には黙っていてあげるから! そしたら、怒られないで済むでしょう!?」


 先ずは、雛子の人間性を肯定している事実を述べながらも、自分の厳しい立場を遠回しに告げる。

 病院の職員が患者と医療を超えた”私的な関係”を持つことは、当然ながら職業倫理に反する。

 しかも、相手が未成年となれば、懲戒処分か退職を余儀なくされる。

 事情を話せば理解してくれる者はいるだろうが、了承は得られない。


 「すみませんが、河田さん。黙っていれば済む問題ではなくて・・・・・・」


 雛子の今生の願いに承諾できない理由は、そんな建前でもない。

 自分が恐れていることは、そんなではない。

 

 「雛子は私の自慢の親友です! あんないい子が・・・・・・好きな人と最後の時を一緒に過ごしたい・・・・・・たったそれだけの幸せすら、許されないんですか!?」


 宇都宮雛子の願いだけは、叶えられない。

 自分は、雛子の真っ直ぐな恋心に応える資格のない人間なのだから。

 実里が中々納得しないと悟った自分は、畳みかけるしかなかった。


 「僕にはがいるから・・・・・・他の女の子とは、嘘でも付き合えないんだ」


 申し訳なさそうに言い放たれた台詞に、まくしたてていた実里は、遂に言葉を失った。


 「とにかく・・・・・・ごめんね」


 雛子と実里の切実な想いを考慮すれば、彼女達には辛いだろうが、自分に嘘はつけないのだ。

 自分の眼差しと言葉は真剣だ、とようやく悟ったらしく、実里は無言で去った。

 今頃、実里の胸には言葉にならない悲憤と微かな罪責感が、糸のようにもつれ渦巻いている。

 意気消沈した小さな背中を見送ってから、溜息を零す。


 「晴斗・・・・・・」


 屋上の夕闇から親しみ慣れた、か細い声は聞こえた。

 いたたまれなさそうに揺れる気配は、晴斗の背後へゆっくり迫ってきた。

 ああ、ちょうどよかった。


 「美天・・・・・・」


 夕陽を背に振り返った晴斗は、白百合の微笑みを咲かせた。

 優しく細められた瞳に映る美天は、泣きそうな眼差しで見上げていた。


 *


 頭が重い。両眼が熱い。心臓が痛い。

 瞳の奥から今にも溢れそうな何かを堪えるのが、精一杯だ。

 何故、この最悪の時期タイミングに、屋上へ来てしまったのだろう。

 どうして聞きたくもない事実へ、耳を傾けてしまったのだろう。

 あのまま、立ち去っていればよかったものを。


 『僕には好きな人がいるから――』


 決して聞き間違いではない晴斗の台詞は、脳内で繰り返し響き渡る。

 晴斗の気持ちを聞いた河田実里の絶望と恐怖に慄く表情、去り際に溢れた悲憤の涙は、焼き付いて離れない。


 美天は・・・・・・、痛いほど想像できる。

 恋する人と結ばれない理不尽。

 喪う悲しみを背負わせたくないという、相手への罪責感。

 血の滲む努力と我慢の末に、未来すら奪われる絶望感を。

 なのに、美天自分は最低だ。


 「来てくれたんだね、美天」

 「うん・・・・・・それより、よかったの・・・・・・?」

 「ああ。河田さんのことかい。いいんだよ。こうするのが一番いい」


 自分は救いようもないほど、残酷で穢らわしい人間だ。

 たとえ振りでも晴斗が雛子の恋人になることを、頑なに断ったことに、心底安心した自分がいた。

 雛子の悲嘆と絶望で成り立つ喜びだ、と知りながらも。


 「一つ訊いても、いい?」

 「いいよ」

 「どうして・・・・・・実里ちゃんの頼みを断ったの?」


 か細く震えた声で問う美天に、どことなく責められているように感じたのか、晴斗から微笑みが消えた。


 「、どうしていた?」

 「え・・・・・・?」

 「余命の短い患者さんに恋人になってほしい、と懇願されたら・・・・・・君は聞いてあげるの?」


 静謐に澄み渡る声で逆に問われた美天は、言葉を失う。

 透明な眼差しを感じる中で逡巡した美天は、おずおずと答えた。


 「どうしても、最後だって頼まれたら、一日くらいなら・・・・・・「


 普段の晴斗らしからぬ鋭い声は、冷凛と諫めた。

 今まで相手の言葉を遮るような真似をしてこなかった晴斗に、美天は少なからず動揺した。


 「だめ、なんだよ。仮に相手の希望を叶えることに承諾して・・・・・・、同じことを要求されたらどうするんだい?」

 「それは・・・・・・」

 「しかも、その相手が美天の立場を尊重してくれる人、年齢や性別の面で美天に好ましい人とは限らない。そしたら、何故『この人は良くてあの人は駄目なのか』って」


 晴斗の正論に返す言葉もなく、美天はただ納得するしかなかった。

 晴斗の言う通り、全ての患者の全ての希望に応えるのは、現実的ではない。

 そんな当たり前に、美天は内心打ちひしがれた。

 医師は治療と診察、PSWは治療と入退院、生活に関する相談支援といったように『役割』がある。

 自分の役割と力量を超えた行為をすれば、本来の業務も他の患者への公平性も崩れてしまう。

 少し冷静に考えれば分かる事柄を失念した美天は、己の未熟さを痛感すると共に、自己嫌悪へ駆られた。


 「ごめんね、美天。でも、僕は・・・・・・自分の気持ちにも、嘘はつきたくないんだ 」


 晴斗の言葉は、美天を安堵と絶望を同時に与えた。

 晴斗には、誠を貫きたいほどに恋い慕う相手が他にいる。

 揺るぎない事実は、断崖から深淵へ突き落とされたような衝撃を与えた。


 「ごめん、なさい、晴斗・・・・・・私、そうだよね・・・・・・晴斗の気持ちを考えてないことだった・・・・・・私達を必要とする患者さんは、一人だけじゃないのに・・・・・・」


 否、そもそも最初から自分のような人間は希望し、絶望すること自体が、間違っているかもしれないが。

 今の謝罪も、患者や晴斗のことを思ってではない。

 ただ許されたい、嫌われたくないという恐怖から零れたものだ。


 「いいんだよ。美天なら分かってくれると思ったから話したけど、僕こそ言い方がきつくなってしまって、ごめんね」

 「ううん、晴斗は大切なことを教えてくれた・・・・・・私を心配してくれたんだよね?」


 自惚れているような言い方で気が引けたが、晴斗の諫めるような言動は、美天を心配してのことだと伝わった。

 普段から美天は、患者との雑談が不器用だ。

 しかし、相手に対する共感と尊重は強い、と晴斗は認識していた。

 美天の優しさは、長所であると同時に、彼女自身を潰しかねない諸刃の剣だ。


 「もちろんそれもあるけど、正直落ち込んだ。美天は平気なのかなって・・・・・・僕が他の女性と付き合っても」

 「平気なわけないよ! ・・・・・・って・・・・・・晴斗」


 晴斗の何気ない台詞、頭で考えるよりも先に零れた本心に、美天は直ぐ我に返った。

 今さっき、晴斗も自分も何を言ったのか。

 呆然と立ち尽くす美天の戸惑いを、晴斗は代弁する。

 晴斗の微笑みは優しくて、瞳はいつになく真剣だった。


 「僕は美天がだから――好きな子にも、嘘はつきたくない」


 切実に揺れた声で紡がれた言葉に、美天の頭に歓喜の警鐘が響き渡る。

 期待してはいけない。

 晴斗とは”良き友”だ。

 自分にとって、晴斗自身にとっても。

 きっと、深い意味はない。

 それなのに、嬉しいという感情は、嵐のように渦巻いて抑えられない。


 「僕は本気だ。最初は、信頼できる友達だと思っていたけど今は・・・・・・隣に君がいない日常も未来も考えられない」

 「晴斗・・・・・・っ」


 信じられないとばかりに凍りついた美天を、温かな香りとぬくもりが包み込んだ。

 大きく見開かれた美天の瞳に、動揺は波紋していく。

 言葉を失った唇に触れたぬくもりは、太陽の花のように温かくて柔らかい。


 「これで・・・・・・やっと信じてくれるかな・・・・・・美天」


 名残惜しそうに軽く離れた唇は、確信に満ちた言葉を奏でた。

 どこか陶然と澄み揺れる眼差し、迷いのない動作は、こちらの全てを見透かされていた証のようで。

 美天が身を委ねるように双眸を伏せると、甘く優しいぬくもりは、再び唇へ舞い降りた。

 閉ざされた瞳から、涙が零れ伝う。


 あまりに幸せで、とても――。


 *


 翌年・二〇二一年の麗温れいおんな春――。

 青百合市の桜並木の道を、晴斗と一緒に歩いていく。

 桜色の天幕の中を歩く足元には、青百合の花々が小川さながら美しく咲き揺れていた。


 「また来年も、美天と一緒に桜を見れますように」


 春風に舞う桜の花びらを手に取った晴斗は、願掛けしてくれた。

 初めて晴斗と一緒に見た桜は、今まで一番綺麗で、幸せな色に満たされていた。

 桜の花色は、晴斗のように淡く優しいのに、自分達の記憶を鮮やかに彩ってくれた。

 青百合市の名産物である百合の花は、空を映したように青々と美しかった。

 来年も続いていく私達の幸せを、示すように。


 *


 灼熱の夏は、色々な場所へ行って、色々なことを二人で一緒にした。

 互いにとって十年ぶりだった熱砂の海辺も、夜の花火大会も、初めて来たような新鮮で楽しい時間だった。

 子どもの頃とはまったく違う、大人っぽい彩りの水着も浴衣も、恥ずかしくて緊張していた。


 「美天・・・・・・何だか、いつも以上に・・・・・・その、綺麗だね・・・・・・」


 普段から正直で褒め慣れているはずの晴斗は、気恥ずかしいそうで、瞳は熱っぽく揺れていた。

 すると、美天もますます胸が高鳴り、顔は熱を帯びて・・・・・・けれどそれ以上に嬉しくて、舞い上がっていた。


 *


 黄金色の静謐、茜色の寒気に染まる季節――。

 去年、晴斗と恋人になった秋を迎えた後。


 「ねえ、美天。この間の話だけど」

 「お母さんとお父さん達が言っていた、大晦日と正月の話?」

 「うん、それもあるんだけど・・・・・・」


 十二月十四日の静やかな冬季――。

 行きつけの喫茶・薔薇園でお茶をしていた美天と晴斗は、手を繋ぎ合わせながら和やかに話す。

 ついこの間、二人の両親は新幹線で二時間かけて遠路遥々、二人の住む青百合市を観光も兼ねて尋ねて来てくれた。

 美天の父親は病院の管理栄養士、母親は英会話教室の講師だ。

 父は、おっとりとした温和な人柄。

 母は海外留学経験の長さから、快活で毅然とした話し方をする。

 二人共に、一緒にいて明るい気持ちになれる所が、昔から好きだった。


 『晴斗から話を聞いているよ、美天さん。いつも息子が本当に世話になっています』


 晴斗の両親は、以前から聞いていた通りの好ましい人達だった。

 大学病院の精神科医である父親は、物腰の柔らかさと落ち着いた声が、晴斗とよく似ていた。


 『美天ちゃんね! 晴斗から聞いた通りの、純で優しい感じの素敵なお嬢さんだわ! 晴斗、メールや電話すると必ずあなたのことを惚気るのよ?』


 母親は児童精神科クリニックの臨床心理士で、明朗な笑顔と話し方が心地良い。

 優しげな美しい顔立ちは、晴斗にそっくりだった。


 『ちょっと母さん』


 晴斗の両親は、本当に穏やかで優しい人達だった。

 話でよく聞くように、恋人の両親との顔合わせは、強い緊張と心構えを強いられる。

 もし恋人の両親が怖い人だったり、それこそ第一印象で嫌われてしまうものなら、交際反対と関係崩壊の危機にも発展しかねない。

 しかも美天は、心優しくて知性も美貌も兼ね揃えた晴斗に相応しい恋人としての自信も誇れる魅力は、自分にはないと思っていた。

 しかし、緊張する美天を励ます晴斗の言葉通り、全ては杞憂に終わった。


 「晴斗のお父さんとお母さん、本当に優しくて素敵な人達だった・・・・・・晴斗が今みたいに育ったのは、分かるかも」

 「美天のお父さんとお母さんも、穏やかで優しい人達だったね。美天を生み育ててくれた二人には、感謝してもしきれないよ」


 幸い、晴斗の両親は息子のである美天を、心から気に入った。

 さらには、美天の両親とも仕事と趣味の話で意気投合したのだ。

 晴斗のように素晴らしい息子を育てた両親も、素敵な人達に違いない、と思っていた。

 両親は想像以上に優しく、美天に強い好感を示してくれたため、拍子抜けしたくらいだ。

 双方の親は、我が子の交際相手を互いに認め合い、仲良くなるというここまで円満な展開に至るとは。


 「もう晴斗ってば・・・・・・でも、ありがとう・・・・・・あ、ごめん。それで話って・・・・・・?」

 「うん・・・・・・あのね美天」


 場面は変わって、夕焼けの帰路にて。

 一度棚上げにしてしまった本題へ戻った頃、美天は藍百合アパートの部屋の扉まで到着した。

 交際を始めてから、晴斗は逆方向にある美天のアパートまで、わざわざ送ってくれるようになった。

 最初は大変だからいいよ、と美天は遠慮した。

 しかし「少しでも長く美天と一緒にいたいからだけど、だめかな?」、と言われて断れるはずがない。

 毎回必ず夕方の暗くなる前に帰らせてくれるのも、美天の部屋には上がらないのも、交際前から変わっていない。

 紳士的な晴斗の気遣いは、自分が大切にされているという実感を与えてくれた。


 ただ最近は、晴斗の優しさに時折不安を覚えた。

 晴斗に窮屈な思いをさせていないかと。

 しかし、胸に燻る不安を感謝で覆い隠しながら話を促す美天に、晴斗は意を決して切り出した。


 「美天――これからも、僕とずっと一緒にいてほしい」


 鞄から取り出した一枚の封筒を晴斗は差し出してきた。

 白百合が咲いた綺麗な模様の封筒に、美天は首を傾げながらも中身を開けて見た。

 途端、美天の瞳に驚きと歓喜が広がっていく。


 「! 晴斗・・・・・・これは」

 「急な話でごめん。でも、美天に受け取ってほしいんだ」


 封筒の中身は、一人分の旅行券チケット・・・・・・しかも、五泊七日間のドイツ旅行だった。

 真ん中には、十二月二十五日のクリスマスキリスト降誕祭を挟んでいた。

 それ以上に美天が驚愕したのは、旅行券の書類の下に重ねられただった。

 既に幾つかの欄が埋められた書類を手にする美天の指先は、微かに震えていた。


 「返事は、向こうへ着いた時に、聞かせてほしい」

 「晴斗」

 「それじゃあ、おやすみ。また明日ね、美天」


 驚きで言葉が出ない美天を他所に、晴斗は照れくさそうに微笑む。

 これ以上はいたたまれなくなったのか、美天の頭を優しく撫でると、扉を閉めて帰って行った。

 しかし晴斗が帰ってからも、暫し美天は玄関で放心していた。

 晴斗が渡してくれた書類に既に刻まれた、晴斗の名前をなぞってみる。

 晴斗らしい丁寧で柔らかな字に愛おしさを覚えたが、濡らさないように気をつけないと。


 嘘のように嬉しくて、夢のように幸せだった。


 当たり前のように晴斗が隣にいてくれて、大切にされ、愛してくれることはあまりに幸せで・・・・・・時折、、涙が止まらない夜を過ごした。


 正直な話、唐突に舞い降りた夢のような現実に、感情は追いつかない。

 けれど、晴斗も自分と伴にある未来を希ってくれたことは、何より嬉しかった。

 こんな自分のような人間が、大好きな人に愛されるなんて。

 伴に生きる幸福を得られるなんて。

 数年前は、ちっとも想像できなかった。

 幾つもの迷いや不安はあったが、美天の心は既に決まっていた。


 「晴斗・・・・・・」


 何もかもは、順風満帆だった。


 しかし、美天は直ぐに思い知らされた。

 

 今の幸福は、再来する嵐の前の静けさに過ぎなかった、と。


 「だな、朝比奈――」


 この世で最も恐ろしいものは、苦痛や暴虐ではない――。


 ――だ。


 「――どうして」


 当たり前の幸せは、一度壊れてしまえば元に戻せないことを。

 形だけは修復できても、壊れる前の亀裂のない綺麗な状態には、二度と戻せない。


 「少し、話さないか?」


 『破壊者』は知らない、何も考えない。

 幸せを壊された人間の気持ちを。

 壊されたのことを。

 飛び散った破片は、周りも傷つけることを。

 チャチな悪ふざけ破片の一擦りでも、人を殺すのには十分事足りることを。


 「昔、仲だろ?」


 奪う人間には分からない。

 永遠に出口の無い暗闇の空洞を彷徨う苦痛を。

 生きて這い上がろうともがき続けた末、やっとの思いで一筋の光を見つけた、人間の涙の熱さを。


 「俺も朝比奈に逢いたかったんだ」


 奪う人間は踏みにじる。

 陽の当たる世界へ力一杯伸ばした、傷だらけの手を踏みつける。

 そして、希望を掴もうとした迷子の人間を嘲笑いながら、再び穴蔵の底絶望》へ突き落とすのだ。

 汚れを拭きとった紙を躊躇なく捨てるような、実に残酷な軽さで。


 約束の日まで、残り――。




 ***続く***

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