第2話 最悪の選択
三度目にそのニュースを聴いたのは、火事の一件から7年ほど
ぼくは大学に入学すると同時に親元を離れ、東京の下町にある小さなアパートで一人暮らしをしていた。
その頃、ぼくには同い年のガールフレンドがいた。彼女とは同じゼミで知り合い、すぐに打ち解けた。ぼくらは驚く程相性が良かったらしく、知り合って一月後には互いの部屋を行き来する仲になっていた。
ある日、ぼくは彼女から一緒に暮らさないかと相談された。どうしたのと質問すると、彼女は長い間
ぼくたちは学生で、家賃の大半を親からの仕送りで
「前の彼氏につきまとわれてるの」
怒らないでと念を押された後、ぼくは彼女からそう告げた。
東京に出て最初に始めたアルバイト先で親切にしてくれた2歳年上の男と、
彼女は部屋を替え、警察からは男に対してストーカー行為を止めるよう禁止命令を出してもらった。それから二年が過ぎ、すべて過去のことにだと思っていた矢先に、男が再び姿を現すようになったという。
「利用するみたいでごめんなさい。でもあなたと一緒に住んでるって知れば、あの男も
彼女が何かに
「きみの両親さえよければ、すぐにうちの親へ相談する。多分、反対なんかしない」
そう告げたとき、彼女がぼくに見せた笑顔を今でも覚えている。ぼくは本当に彼女が好きで、彼女の力になりたいと心の底から望んでいた。
週末に彼女の両親と会う約束をした。場所は上野公園に近いフレンチレストランだった。ぼくはバイト代で安いスーツを買い、慣れないネクタイを締める練習をした。
面談の前日、彼女と電話で話をした。彼女はぎこちなく、ここ最近ストーカー男は姿を見せてないから、もし嫌ならこの話は無かったことにしてもいいよと伝えてきた。
そうじゃないんだと彼女に伝えた。こんな話がなくても、ぼくはきみと一緒に暮らしたいんだと、ぼくの本心を伝えた。
「プロポーズされたみたい」
電話の向こうでクスクスと笑う彼女の声がした。あれは本当にプロポーズだったのかもしれない。あの時の僕にとって、彼女は本当に世界の全てだったのだから。
電話を切ると、鏡の前で再びネクタイを結ぶ練習を始めた。気持ちのいい春の夜で、明け放した窓の先から、咲き始めたばかりの桜の香りがした。
「踊りだしたい気分だな」
ぼくは呟き、オーディオのスイッチを入れた。大きな音は出せないが、CDで一曲位なら苦情も来ないだろう。仮に苦情が来たって、多分来週にはこのアパートを引き払って彼女と共に生活をするのだから構いはしない。
「今日最後のニュースです」
スピーカーから流れた声を耳にして、ぼくは凍りついた。
ぼくは音楽を聴こうとしていた。自分のオーディオで、自分で買ったぼくのCDだ。ここのところ
「23時45分頃、東京都江戸川区のマンションで、若い女性が男に右胸を刺される事件が発生しました。男は近隣の住民に取り押さえられ、駆け付けた警察に身柄を拘束されました。女性は一時心肺停止したものの、救急隊により意識を回復し、近くの病院へ搬送された模様です」
ニュースは更に続いた。胸を刺されたという女性の名前は伏せられていたが、取り押さえられた被疑者の名は公表された。その名は彼女から聴かされていた男のものと一致していた。
ぼくは時計を見た。時刻は23時30分。ここからどんなに急いでも彼女の部屋まで30分は掛かる。今から向かっても間に合いはしない。
ぼくは自分の携帯電話を探した。テーブルに置いたはずなのに、いつの間にか見えなくなっている。
まだ23時33分だった。ことがおこるまで12分もある。
「もしもし、どうしたの?」
電話の向こう側から彼女の眠そうな声が聴こえた。良かった。彼女はまだ無事だ。
「よく
「ねぇどうしたの?なんでそんなこと言うの?ねぇ、わたし怖いよ」
「予告があった。いまからきみを襲うって。だから急いで逃げろ。もう時間が無い。頼むからおれを信じて」
嘘だ。口から出まかせだ。だけど一刻も早く、彼女を部屋から逃がさなきゃならない。
「わかった。すぐに来てくれるんだよね。待ってるから。だから絶対に来てね」
電話を切って部屋を飛び出した。この時間ならタクシーを使えば20分で着くかもしれない。腕時計に目を向けると、23時37分を示していた。大丈夫。これなら間に合う。
彼女のマンションの前に着いたとき、時計の針は0時7分を
救急車に駆け寄ると、ストレッチャーを押してマンションの玄関から出て来る救急隊とすれ違った。彼女の姿を探したが、ストレッチャーには誰も乗っていなかった。
玄関から彼女の部屋のある五階まで階段を駆け上がった。五階の廊下に出たところで、警察官に止められた。
制止する警察官に向けて、彼女の名前を告げた。寄ってきた別の警官が、彼女の部屋に向かって走った。しばらくするとジャンパー姿の男が現れ、ぼくと彼女の関係を
「あの子の、被害者の家族の連絡先は知ってるか?知ってるなら連絡してすぐに来るよう伝えろ」
被害者?彼女は無事じゃないのか?充分でないけれど、時間はまだ
ぼくの
「彼女は、あの子は無事なんですか?ねぇ、教えて下さい。お願いします。怪我してるだけですよね?ちょっと怪我して、警察に事情を話しているだけなんですよね」
「あの子は死んだよ。体中何ヵ所も刺されて、おれらが着いたときには、
私服の警官が
男は視線を前に向けたまま、警官と共にぼくの脇を通り過ぎて行った。ぼくが飛びかかるのを警戒したのか、制服の警察官二名がぼくを背後から抱き止めていた。
「ばかな。そんなわけない。間に合ったんだ。時間前に、あいつが彼女を襲う前におれは忠告したんだ。彼女が死ぬわけがない」
ぼくを取り押さえている警官たちが顔を見合わせていた。ぼくが事件に
どうしてあんなことになったのだろう?それから何年も、ぼくはあの日の出来事を思い出し検証を重ねた。だが
あの日、ぼくの電話を受けた彼女は、ぼくの忠告に従ってすぐに部屋から出た。そして廊下の先にあるエレベーターで、彼女の部屋へと向かう男と
驚いた男は、彼女をエレベーターの中に押し込んだ。逃げ場を失った彼女は激しく抵抗し、逆上した男は持っていたナイフで彼女を刺した。エレベーターのボタンに手を伸ばし、とにかく男から逃げようとした彼女を、男は背後から何度も刺して命を奪ったという。
あの日、ぼくが聴いたニュースの中では、右胸を刺されたものの彼女は一命を取り
そうではない。ぼくが聴いた時点では、ニュースは事実を伝えていたのだろう。ニュースが伝えた事実を、ぼくが
あのまま部屋に残っていれば、刺されはするけれど彼女は助かったはずだ。だがぼくは、彼女に部屋から出るよう指示してしまった。その時点でニュースの情報は正確さを欠き、未来は上書きされてしまった。そして上書きされた未来は、昔の放火事件のようにいい方向に進むのではなく、最悪の結末に向けて進路変更してしまったのだ。
彼女の死はぼくのせいなのだろうか?あの時、どういう
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