[クリーニング]

「この洋服もう捨ててもいい?」

胸の前にピンク色のカーディガンを掲げて、母の方に振り返った。

虫に食われたか、いつの間にか破けてしまったのか。お腹の辺りにほつれがあって、それをいじっている間に大きな穴になってしまった。

しかしそれをどこかで望んでいたのかもしれない。だって買ったのは数年前の、まだオシャレなんてモノに興味がなかった時。

サイズ的にはまだ着れるけど、花の刺繍が今見たらとても古臭い。おばさんみたいだからと、押入れの奥にしまい込んでいた。

「それぐらい縫ったらまだ着れるじゃない」

通販カタログを広げながら、リモコン片手に私の方を一目見ただけで、またテレビに視線を戻してしまった。

私はちょっとむくれて乱雑にカーディガンを机の上に置くと、冷蔵庫からジュースを取り出して一気に注いだ。

こんなのもう着ないのになぁ。呟いた言葉は、きっと母には聞こえていなかっただろう。


夕食の終わったタイミングで、急に思い出したかのように母が話しかけてきた。私の頭の中からはすっかりあの古臭いカーディガンのことは消えていて、一瞬何の話? と考えてしまった。

「ほら、クリーニング屋さんとかでもすっごく綺麗に直してくれるサービスがあるのよ。さっきの持っていってみない?」

どうやらこの間おばあちゃんがうっかりシミをつけてしまった服があって、わざわざクリーニングに持っていくのは勿体無い、でもとってもお気に入りのものだからとジャケットを預けたところ、本人もどこにあったか分からない程、まるで新品のようになって帰ってきたらしい。それ以来おばあちゃんは絶賛していて、昔に破いてしまったお気に入りの服を、暇ができては持っていくのだそうだ。

「常連になったから、私が一言かければ割引してくれるとか言ってるのよ。随分ノリノリになっちゃってねぇ……」

片手をついてはぁとため息をつく母は、本当に困っているという訳ではなさそうだ。おばあちゃんに楽しみができたことはいいことだろうし。いつも同じような話をされるのも、昔から慣れっこという訳か。

「で、あなたどうするの? それやってもらう?」

なぜか私はこの時、断ってはいけない気がした。よく分からないけれどそれが悪いこと、いや不可能とさえ思う。

いくら私でも服に悪いとか、可哀想だとか、そんな現実味のない擬人化のようなものは考えていない。

大した思入れもないはずなのに、母の姿を見ていると勝手に手が動き、私は大人しくゴミ箱に片手が入っていたカーディガンを差し出した。


しかし次の日には後悔していて、なぜあんなものを渡してしまったんだとか、クリーニングの料金があればお菓子を買った方がマシだよとか、一人で云々唸っていた。あのカーディガンが恨めしい。そうだよ、あんなの綺麗にするぐらいなら私もやってほしいよ。

手鏡を見ながらうんざりする輪郭をなぞった。パーツはそこまで酷くないと思う。でも、いつも隣にいる真由ちゃんなんかと比べると、自分の顔は大きいんじゃないかと思って、最近はなんとなく後ろにいることが多くなった。何人かで話をしていても、向こうにいる生徒がこちらを見て、あいつだけ顔でかいって笑っているんじゃないかと一歩下がる。

真由ちゃんは、私が悩んでいることに気がついていないだろう。彼女なりの悩みもあるだろうけど、私が抱えるような類の悩みは持っていないハズだ。ああ、ちょっと恨めしくなってきた。

べーっと変顔を決めてから手鏡を戻した。


後日、私の元に帰ってきたそれは、恨めしいほどに綺麗な姿になっていた。ただジャケット等と違ってノリが付いている訳ではないので、古臭さのあるくったりとした手触りは健在だ。新品とはまた違う深みのある良さが、余計腹立たしい。これがお気に入りの服だったらどんなに良かったか。

私はせっかくお金をかけたのだからと、丁寧に押入れの一番下にしまっておいた。その上には幼い頃に着ていた服が乗っているので、もうこの先処分以外でお目にかかることはないだろう。

ここ数日どこか待ち構えていたような気分で過ごしていたので、ことを終えるとベッドにダイブした。もう本当面倒くさい。今度似たようなことがあったら、ちゃんと断わろう。


チクリと舌に刺激が走った気がした。スープを飲んでいる途中で手を離したけれど、その後は何もなかったので、いつも通り舌に運ぶ。

こんなことが忘れた頃にやってきて、その時もなんだろうと思いつつ一瞬で消えてしまうので、首を傾げながら私は食事を続けた。

別にそこまで痛い訳ではない。尖ったファイルの先っちょに指で触れたぐらいの、本当になんでもないことだ。

針で思い出したのだけど、そういえば私は裁縫ができなかった。この間も制服のボタンをつけようとして、糸通しがなかったので随分苦労した。結局糸は入ったのにすぐ抜けてしまって、面倒になり放り投げた。

だから裁縫ができないというよりは、ただの面倒くさがりかな。昔から裁縫をやった記憶がない。私は変わってないってことだ。嫁にはしたくない性格。

ボタンはダイレクトに糸を通して、後ろで固結びしている。簡単だし見られることもないし、わざわざ針を使うこともないよ。


イヤホンでお気に入りの音楽を聴きながら、帰り道を歩いていた。星の出ていない真っ暗な空、繁華街に近い路地裏で。

その日は暑すぎず、心地良い風の吹く良い日だった。そのせいかな、なんだか詩人みたいな気分になって体を揺らしていた。

だから建物の壁に自分以外の影が重なったことに気づくのが、ワンテンポ遅かった。

三つ四つに増えた影は自分より大きくて、振り返る前に腕を掴まれた。大きな頭の男は、きっと悪いことを言っているのだろう。笑い声やその顔から何をしたいのかがありありと伝わってきて、言葉は遠ざかっていく。何の抵抗もできないまま、固い壁に押し付けられた。

千切れていく布はやけに脆かった。そうだ、この布は初めから一枚ではない。つぎはぎを集めて集めてなんとか形にした、一枚とも呼べないものだった。見た目だけ取り繕って、中身はすっからかんだ。一度壊れたものが、完璧になれるはずなんてないのに。

それを望んでいたのは自分だったのか、それとも別の誰かか?

偽りの世界で、偽りの家族で、偽りの自分の中に、真実なんてある訳がない。


落ちていた自分の一部を拾って、家であるはずの場所へ帰った。

そうだ、忘れるように言われていたんだ。全身を作り変えて、なんとか人間の姿を留めた私を、人形のように育てた本当ではない両親の元で過ごしてから、何年経ったっけ?

ぎこちないほつれはどんどん広がっていって、でもそれを治す針は怖くて触れない。仕方なくテープや糊で処置して……したのにまた剥がれた。落ちないでと手で拾うのに、ボロボロとこぼれていく。

「これは修復不可能だ」

誰かの声が聞こえた。

知らない世界に、白い光がぼやりと浮かんでいる。知らない誰かは銀色の物を持っていた。それを私に向ける。

キラリと光った針を受け取り、一番酷かったところに刺す。ちくりちくりと縫う糸に、やけに安心した。

綺麗になりたい。私を直して。私を直して。私を直して。私を直して。私を直して。



「お母さん、この服クリーニングに出してほしいんだ」

母は呆れたように笑いながら本を置いた。

「あなたは本当にその服が好きね、でもサイズがもう合わないでしょう」

私もふふっと笑って、母に向き合う。

「大丈夫だよ、この子のやつだから」

腕に抱いた暖かな重さを揺さぶる。

私はひとりでに瞬きもできない、可愛い子供の目を閉じてあげた。

ピンク色のカーディガンを広げて、この子の上に乗せてみた。やっぱりとても似合っている。

私と共に歩んできたこのカーディガンを、今度はこの子と共に生きさせてあげよう。

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