[ぺこぽぺ]
夕焼けに照らされた街に鼻歌が響いている。
少女が一人両手を広げ、道路の端っこ、ブロックの上の細いところを歩いていた。
聞いたことのない、しかしどこか懐かしい童謡のようなメロディー。それに、主に『ぱぴぷぺぽ』の使われた歌詞を当てていた。恐らく深い意味などなく、その場で即興で考えているのだろう。
『ぴぷぺぽ、ぱぱぷぺ』
少女、そしてその歌、どちらにも反応を示す人はいなかった。誰もがただ夜に向けて、夕暮れの街をまっすぐに歩いている。
少女はちらりと横を見て、夕陽を確認すると、また足を前に動かした。その歌は一体いつまで続くのだろう。
同じ制服で、背丈も容姿も他のとはそれほど違いがなかった。特別美少女というわけではない。ただこのクラスのレベルにしては、数名が彼女の方を見てしまうのも仕方がないことだった。
少女はただにこにこと笑い、言葉を発することはなかった。転校初日、色んな人が彼女に話しかけたが、それを全て無視した。ただ笑っているだけ。不気味と感じたクラスメイトから避けられるのは、時間の問題だった。
誰かが彼女にぶつかった。恐らくはわざとだろう。その衝撃で彼女は床に倒れる。「ぴぷ」短い言葉だった。初めて彼女自身から発せられた音に、生徒は耳を澄ませる。
普通は痛いとか、うわっとか言うものではないのか。でもたまたま変な言葉が出てきただけだろうと、幸いにも関心は他のことに流れていった。
しかし協調する気が全くない彼女へ、他の生徒からの不満は徐々に募っていき、好意的に見ていた人もいなくなった。特に女生徒からは露骨に嫌われ、暴言や暴力を受けることも増え始めていた。
濡れたモップを突きつけられて、身動きのできない彼女が叫んだ。
「ぺぽぱぷぺ、ぴぽぇぱ!」
モップを持った生徒たちは笑う。「こいつ頭おかしい」「障害者は隔離しろ」と、更に攻撃の手を強めた。
少女が床に丸まって何も言えなくなっている時に現れたのは、その女生徒達に人気の男子生徒だった。
「何してるの?」
優しい声色でそう尋ねれば、女生徒達は大人しくなる。素直に謝り、その男子生徒に擦り寄った。
「だってこの子、なんか怖いからさ。変なことばっか言うし」
「だからってこんなことをしたらダメだろ。可哀想じゃない」
女生徒達は大人しくその場を去っていく。男子生徒は倒れた少女に手を差し出した。
「大丈夫? 立てる?」
その手を少女は避け、自力で起き上がった。スカートを叩き、男子生徒の方を見る。
その目はお礼を言うような感じではなかったし、かといってどうしてもっと早く助けてくれなかったのか、などと恨むようなものでもなかった。ただそこにあるものを見つめているだけ、それが人間であろうと机であろうと変わらない。そんな表情だった。
男子生徒は少し不気味に思ったが、笑みを崩すことはしなかった。
それから男子生徒は少女によく話しかけるようになった。少女は相変わらず何も言おうとしない。
「何描いてるの? それ」
空き教室で少女は黒板に大きな絵を描いていた。大きな丸が上半分を覆っているのは分かったが、その下半分はごちゃごちゃしたものにしか見えなくて、一体何なのかは分からなかった。
「ぺぷぽ……ぱぴぇぽ」
静かに少女は呟いた。それからまた白いチョークを一生懸命に動かす。チョークが割れてしまうのではと思うほど、力強く。
「君って……本当に話せないの?」
数秒の沈黙。その後に発したのは、やはり『ぱ』行で構成された言葉だった。
言動以外で特におかしいところは見当たらない。急にどこかに消えてしまうことはよくあったけど、ただのサボりだろうし。毎日学校に来るということは、恐らく家にも帰っているのだろう。先ほど女生徒たちにつけられた汚れ以外に、不潔なものは見当たらない。彼女はふざけているだけなのか、それとも何かの病気か。もしかしたら記憶に障害があって、一般的な常識はあるけど、言葉を忘れてしまったのかもしれない。
そんなことを考えながら、男子生徒は再び黒板の方を向いた。
「その絵は何なの?」
彼女が一音一音、はっきりとこちらに向かって口を動かした。何か伝えようとしているようだ。
「ごめん……分からないよ」
チョークを懸命に動かしながら何かを訴えているような気がするが、彼女の伝えたいことはさっぱりだった。
彼女はチョークを置いて、手についた粉を払った。こちらを振り返ることなく、そのまま去ってしまう。
「何なんだ……一体」
休みの日に、いつもは通らないような所を歩いていた。工事中のようだが、作業が進んでいる様子はない。鉄骨がそこら辺に積んであり、作業員もいなかった。
通り過ぎようと思ったが、奥に何かいるのが見えた。よく目を凝らすと、なぜか彼女がいた。服は制服のままだ。
そっと回り込んで陰から見てみると、身振り手振りをしながら誰かと話していた。床に座り、慣れた様子であの訳の分からない言葉をすらすらと口に出している。
どんな人物が彼女を相手にできるのだろうとさらに近づいたが、そこには何もいなかった。幻覚でも見えているのだろうか。話す間や相づちのような頷きも自然で、気味が悪い。
「何、してるの?」
もう何度彼女に問いかけたか分からない言葉をぶつける。彼女は驚いたように目を見開いたが、次にはもう普通の顔に戻っていた。
「ぺこぽぺ」
はっきりと聞き取れる。意味が分からないだけ。
「もういいから。そういうの」
強く腕を引くと抵抗した。腕に跡が残っても、腕が折れてもいい。そんな気持ちで引っ張り続けた。
「お前に親切で話しかけてたと思うのか? こんなことぐらいにしか役に立たないだろ」
体勢を崩した彼女を押さえつける。爪で引っ掻かれたり、体のあちこちをぶつけられたが、痛みは感じなかった。相手もまだ抵抗をやめない。
力任せに殴ったり蹴ったりしていると、段々と力が抜けていった。大人しくなった彼女の足を掴み、服を脱がせようとした。
そのとき背中に何かが噛み付いた。その衝撃で彼女を離してしまった。
「何だ今の……っ」
周りを見渡しても、何かがいる様子はない。
背中に手をやると、血がべったりと手のひらについた。それをじっと見つめていたら、彼女が離れたのに気づかなかった。
影が顔にかかった。振り返ると、赤い鉄骨がすぐ近くまで迫って──。
少女は放心したようにそれを見つめていたが、立ち上がるとスカートについた砂を払った。それから何かを持ち上げる仕草をして、そこを去っていく。
ぺこぽぺ ぱぽひか せぽやぺぷ ぱっぷまる
屋上に一つの影。少女はその不思議な歌を口ずさみながら、世界を見つめていた。
ぺこぽ ぱぷ ひぇか──もうすぐ この世界は 終わる
うさぎを抱えた少女は可愛らしいエプロンドレスを纏い、でこぼこになった道の上を歩く。軽やかに、可憐に。白いタイツ、黒いパンプス、ひび割れた道路。
「ねぇ、私達ってこれで良かったのかしら?」
うさぎが眉間にしわを寄せて振り返った。
「お前が不器用だから悪いんだ。へっ、それにしてもあいつの予言が当たったな。馬鹿なだけだと思ってたが、こんな予言を当てるとは」
「ぜーんぜん助けられなかったねー」
「絵が下手、笑顔がぶさいく。まぁ他にも大量に理由はあるが、問題はそこだな」
「ひどいーもう自分で歩いてっ!」
「お、おい。投げるなって!」
空中に放り投げられたうさぎはターンを決めながら、華麗に着地した。少女はスキップしながら街を踊り歩く。ふわりとスカートが揺れた。
「ま、私どうなるのかなって興味本位で来てみただけだしねー。ぶっちゃけ人類がどうなろうと、どうでも良かったし」
うさぎはあの男子生徒を噛んで、鉄骨を落とした時のことを思い出す。確かに人間なんて滅んで正解だったのかもしれない。
「でも一応、お前の元故郷じゃねーか」
「そんなこと言ったって言葉を忘れるほどよ。もう何も覚えてないわ。私が生まれたはずの家も、居たはずのお母さんやお父さんも、ぜーんぜん分かんないし」
「……そろそろ帰るか」
そうねと振り返った少女は、またうさぎを腕に抱いた。白い毛並みがくすぐったいのか、鼻を揺らす。
ぺこぽぺ、ぽっさーぴぽるぺ るぽか、さぺるぱ
うさぎを連れて行き着いた先は、森の中だった。一人と一匹であの歌を口ずさみながら、大きな木まで移動する。
少女は一度も振り返ることなく、穴の中へと落ちていった。
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