誰も見てはならぬ

織部泰助

第1話 凡そ信じがたい怪異

 その違和感に直面するまで、わたしは小さな後悔に拘っていた。

 まだ日が浅く、それゆえに脆く破れやすい関係だったからこそ、杏子が語って聞かせた奇妙な怪異について、いささか大袈裟に怖がってみせたのだが――。


 気怠い五月の尾をひいて、曇におおわれた不快な雨季をようやく過ぎた七月の初旬。湿気をのこして弥増す温度は、ぬかるんだ泥道をからりと干し上げたが、まだ水気が足りないとみえ、燦々と照らす夏の日差しをもって、わたしたち学生のやわ肌から、汗という汗を絞り取っていくようだった。

 ようやく着慣れた紺地のブレザーを脱ぎ去り、半袖の白いシャツが解禁されたのが昨日。それと同時に新しい友人に向けていた余所余所しさも捨て去りたいとおもうなかで、わたしは杏子からその奇怪、というより奇妙な体験を聞かされた。

「アタシも分かってるよ、変だって」

 若干遅れた相づちをつぶさに見て取り、杏子はあわてて言葉を継いだ。

「でもさ、ほんとうにそう思ったんだもん」

 語尾にあざとさをのこして、不満げに口をとがらせる。

 ともすれば不興を買うその仕草も、女子トイレの手洗い場のまえで、黒い不織布マスクを外して、振り返りざまにラメのはいった薄桃色のリップを右頬まであやまって重ねてしまう迂闊な仕草とまざりあうと、覚えるはずの反感を滑稽味で拭っていく。

 よく言えば愛嬌。

 悪くいってしまえば、何をやっても様にならない。優等生を気取っても、愛らしさを振りまこうとしても、どうしても抜けたところが露呈してしまう。

 容姿はまた格別で、明るめの髪をボブカットに切り揃え、大きすぎない丸顔に、奥二重の大きな目がのっている。髪や眉に気をつかい、見えないところにまで化粧を施すような美意識があり、物怖じしない社交性も備えている。わたしのような野暮ったい女子生徒と好んで行動を共にするのだから、やはり変わり者の誹りは免れないだろう。そして彼女の変人性の一端が、ときとして奇異な視線を向けられる恐れを妊みながらも、こらえきれず溢れ出してしまうときがあった。

 それが奇談怪談の話題だ。彼女はその手のオタクであり、ほかに追随を許さぬマニアでもあった。そのマニアックな嗜好の捌け口として、わたしは光栄にも彼女から選ばれたらしい。

「杏子の思い違いじゃなくて?」

 わたしは頭ごなしに否定せず、かといってわざとらしく彼女の奇談に飛びつかない。垂らした針先を、魚が疑り深く口先で突っついているのだ。まだ竿を巻き上げる時じゃない。

「七月とはいえ、まだ入学して三ヶ月じゃん」

「マジだって。ほんとうに居たんだよ。顔の知らない生徒が」

 杏子は思いなし目を細め、顔をひきしめて云った。

「どんな子だったの?」

「わかんない。見えたのは背中や襟足だけだったから」

「女子? 男子?」

「女子だとおもう。同じ女子用の制服だったから。髪はアタシのようなショートボブで黒」

「それは――」容姿に思い当たる節があったが、この奇妙な会話に水を差すのは少しばかり躊躇われて、杏子の言葉をうながした。「席は? どの辺りだった?」

「・・・・・・田口の席」

「まんま田口じゃん」

 何のひねりもなく、思い描いていた人物が登場して、わたしは軽く吹きだしてしまった。

「もしかして冗談?」

 田口の席に田口らしき容姿の女子生徒がいる。それに何の不思議があるというのか。

 すべてが想定内のうちにあって怪奇などないが、唯一予想の埒外だったのは殊勝なほど自分の非をみとめた杏子の反応だった。

「そう、思うよね。うん」

 彼女は独り言めいた口ぶりで、消沈した表情を鏡に映す。彼女の、理解者を得られず落ちこんだ反応に、友情の灯が吹き消える予感に襲われたわたしは、失態を取りつくろうべく、努めて誠実な聞き手として、彼女の言をうながすために言の穂をつぐ。

「つまりさ、田口の席にすわっている、田口のような容姿の、でも田口じゃない人が居たってこと? 『ゼイリブ』みたいな」

「それだよ、やっち!」

 杏子は現金なまでに機嫌をもどして、会心の笑みをうかべた。

『ゼイリブ』とは80年代のアメリカ映画で、流れ者の労働者が、とあるレジスタンスのアジトからサングラスを拾ったことで、上級国民に成り代わって社会に溶け込んでいるエイリアンたちが、メディアをつかって人を家畜のように洗脳していた事実を知るという資本主義を痛烈に批判したSFアクション映画である。わたしは家のリビングで仕方なく鑑賞したが、この映画に登場するエイリアンの面貌は、頬肉や眼窩のまわりがチーズの溶けたように爛れているために怪奇色もつよく、おどろおどろしく暴力的で、心の底から杏子と二人で観なくてよかったと安堵した。

 杏子の感じ得た怪異というのは、しかしそのエイリアンと同じく、田口の容姿をした、また別の生物が乗り変わっているものとはまた別だという。

「授業が終わって、すぐに田口の席にいったの。でもそのときは、なんの違和感もない、いつもの田口だった。授業中、そのあいだだけが何故だか、彼女が彼女でなかったの。まるでその――」

「憑き物みたい?」

 杏子はこくりと頷く。

「・・・・・・それ、ヤバくない?」

「ヤバいよ、ほんと」

 ヤバい、ヤバい――。わたしたちはそろって言い合う。これほど都合の良い言葉はない。相手の心中を推し量ることもなく、ただ他人に想像にまかせて妥協させる安易な語彙としての『ヤバい』。それに今、救われているのを実感していた。

 キーンコーン、カーンコーン――――。

 予鈴がなる。

 わたしたちは諸事をすませ、トイレから出ようとしたが、杏子は「そうだ」と立ち止まるとペンケースに偽装した化粧ポーチをひらいて、バッチサイズの小さな缶を差し出した。

 まるく扁平で、開けるとベビーパウダーが入っていた。

「つかって。マスクで肌が荒れるでしょ?」

「・・・・・・ありがと」

「あれ、もしかしていらなかった?」

 パフを手にしたまま、じっと彫像のように硬直したわたしをみて、杏子は小首をかしげてみせる。

「ううん。ただちょっと目眩がして」

「え、マジ? 保健室いく?」

「大丈夫。ちょっとしたら戻るよ。さき戻ってて」

 杏子は心配そうな顔をしながらも、その爪先は出口のほうを向いていた。このまま立ち去るには冷淡だろうかという逡巡が、彼女の足を止めているのだろう。

「直ぐ戻る。これ、ありがとう」

 そういって戯けたようにサムズアップすると、不安の霧が晴れた杏子は小走りで教室にもどっていく。その間、わたしはその足音が籠もるほど遠ざけるのを確認して、あらためて自分の顔と対峙した。美容系YouTuberの動画で見様見真似に手入れした眉、トリートメントをおぼえたての髪、唯一の自慢の二重まぶた――。

 わたしはマスクであれた肌や、汗の染みこんだ紐で汗蒸れした箇所を、てばやくパフではたき終える。そしてすぐにトイレから出ようとして、そのリノリウムの床の上に立ち止まった。

 トイレは廊下からのぞき見れないように、出口がL字に折れ曲がっている。そのちょうど曲がっている角、手洗い場からみて向かいの壁に、一枚の姿見がある。それに映った自分をながめて、わたしは一言だけ、呟いてみた。

「わたしはだあれ?」

 すぐに失笑して、トイレから出る。

 わたしは何者でもなく、わたしだ。じつに残念なことながら。


 そしてわたしも目撃した。

 杏子が語っていた奇怪な錯覚に襲われたのは四時限目。数学A安堂の授業中だった。

 教室は黒板に向かって五つの縦列でならび、ひとつの列に各六人の生徒がつらなる。

 比較的後方の廊下側から数えて五列目の四番目がわたしの席で、その頃私は集中力が切れる昼食前の時間に、うつらうつら眠りの水面で舟を漕いでいた。

 翌年に定年をむける安堂教諭は、夏というのに薄手のベストを着込み、時折、袖を肘までまくりあげた細い腕を頭にまわし、枯木のような指先で白い髪を掻き上げながら、抑揚のない低音で二次関数の解法を教える。子守歌のように起伏のない声は、言葉の意味がほどけて心地よい環境音となり、眠気を誘う波長に変じる。

 小気味よい板書の音がひびく。小声で私語が漏れるほかに、いたって静謐な教室でまどろんでいたわたしは、いまだ夢うつつのような気持ちだったために、その些細な違和感にきづくまで時間を要した。

(――あれ?)

 腕をまくらに顔をふせかけたとき、ひとりの生徒の横顔に目を留め、熟視しているうちに痙攣めいた驚きをおぼえた。それは横顔というには、やや斜め後ろで、顎のラインと掻き分けた長い黒髪からのぞく耳たぶの裏側がみえる程度にすぎず、席もやや遠く、列にして廊下側ちかくの二番席だったが、それでも尚、五感に訴えかけるような異物感が、瞬く間に眠気をさらっていった。

(あんな子、いたっけ?)

 わたしは目があえば友人と豪語する杏子とちがい、なけなしの協調性を振るわなければ友人ひとりすら作れない人間だったが、それを自覚している故に、せめて同性のクラスメイトの顔と名前ぐらいは一致するように心掛けていた。

(あの席、柳田さんだよね)

 某野球選手とおなじく『田』の読みが濁らない、と自己紹介のときに述べたのを覚えている。髪はながく黒で、面長の顔に、黒フレームのふとい眼鏡をかけている子だった。何度かとりとめのない会話をしたとき、彼女は緊張で声を細めるような、陰気ではないにしても物静かな人物で、まちがっても誰かと席を交換して、暑気を吹き飛ばすサプライズを提供するようなキャラクタじゃなかった。

 わたしの目はすぐに杏子を探し求めた。彼女は自分の列の二番目に座っており、丸まった背中は、彼女もまた眠気の虜になっていることを明示していた。

(・・・・・・本当だったんだ)

 それから授業が終わるまで、わたしは柳田さんの後背を熟視しながら、ときに振り向いて、その貌がわたしを睨むのではないかという妄想が、反発する磁力のように視線をおよがせた。頭にあったのは『ゼイリブ』のワンシーンだ。主人公が露天のマガジンラックでサングラスをかけて、となりの紳士がエイリアンだと分かるシーン。そのエイリアンの不気味さもさることながら、自分の正体に勘づいた主人公を、何度も何度も疑わしげな視線で睨む印象的なシーンがある。

 わたしの妄想のなかでは、柳田さんがその硫酸で皮膚が溶かされた人体模型のような貌を、なんかの拍子にザッと振り返りはしないかと思い、その授業中、映画の主人公のごとく怯え惑っていた。

 それでも授業を終わらせるチャイムが鳴り、しわぶきが反響するような静けさが、椅子をたつ喧騒に乱されると、わたしを椅子に縫い付けていた恐怖心もなりをひそめて、柳田さんの顔を確認しようという意思が生まれた。

 泥濘を踏みしめるような重い足取りで、まだ席を立たずに教科書を抽斗におさめている彼女の背中のほうから、悟られないようにそっと顔をみやった。

「・・・・・・どうか、しました?」

 まじまじと見ていたからだろう。柳田さんは動揺して瞳をピンボールのように跳ねさせていたが、その顔貌は灼け爛れた外星人などではなく、白いマスクに黒い瓶底眼鏡をしたクラスメイトだった。

 わたしはゆっくり窓際の席、――杏子のほうを見やった。

 彼女もまたわたしのほうを凝っと見据えて、視線が合うとこくりと頷いた。

 こうしてわたしたちは、奇妙な怪異の目撃者となった。

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