第九十話

 東大路ひがしおおち中央公園は、ショッピングモールから見て駅の向こう側に位置している。

 けい千恢ちひろは再び街の中を歩き、駅構内を通って公園の正面入り口前にやってきていた。


「着いた……あっ、ここからでもちょっと噴水見えるね」


 生い茂る木々の隙間から漏れる光を指差す千恢は、いくらか安堵した表情を浮かべていた。公園の周りは駅や商店街より人通りが少ないため、知人に出くわす不安や緊張感が少し和らいだのだろう。

 

 中に入って舗装された道を少し進むと、すぐに円形の広場に辿り着いた。

 その中央にはあの噴水がある。

 ちょうど七色の水飛沫を高々と噴き上げ、広場を照らしていた。


 ──思い出す気などなくても、勝手にあの日の光景が脳裏に浮かぶ。

 あの笑顔が偽りだったという事実に対して絶望感や悲しみは最早湧いてこないが、心の傷が元通りに癒えることはないのだろう。


「ねえ、馨!」


 不意に千恢は声を上げ、一瞬の隙に手を放して噴水の方へ駆け寄っていってしまった。

 そして噴水の前に着いて振り返ると、馨に向かって手を振る。


「写真撮って〜っ」

「あ、ああ」


 馨は我に返り、ポケットからスマートフォンを出してカメラを向けた。

 しかし噴水の照明で逆光になってしまい、千恢の表情が分からない。モードを切り替えても一向に上手くいかなかった。 


「あれ……ごめん、逆光で全然顔が見えない」

「そのままでいいよ! 撮って〜」


 あえてそういう雰囲気の写真を撮りたいのだろうか。

 馨はそんなことを考えながら、言われるがままシャッターを押した。


 撮れた写真を確認すると、やはりその姿はただのシルエットのようだった。かろうじて分かるのは、彼女が後ろで手を組んだポーズを取っているということだけだ。


「本当にこれでいいの?」


 馨は戸惑いながら画面を見せたが、彼女は気にする様子もなく微笑んで頷いた。

 そして今度は噴水の縁石を指差す。


「ここに座って、二人でも写真撮りたいな」

「えっ、ああ。うん」


 馨は促されるまま縁石に腰かけ、彼女が自分のスマートフォンを出すのを待った。

 その間少し落ち着かない気持ちになる。

 幼少期から母にしつこく写真を撮られすぎていたせいで、写真には苦手意識を抱いていたのだ。

 しかしだからと言って、千恢の提案を断るわけにもいかない。


「じゃあ撮るよぉ」


 そうこうしている内に彼女はスマートフォンを掲げ、インカメラの状態で二度シャッターを押した。

 それからすぐに写真を確認し、くすくすと笑い出す。


「馨ちゃんてば、可愛いけどちょっと仏頂面だよぅ」

「それはその……ごめんとしか言えない」

「あはは。まあ私達二人でここに来たって思い出だから、これで大満足なんだけどね」

「……」

 

 馨はその言葉を聞いて、彼女はあの時言った「思い出の上書き」をしようとしてくれているのだろうと感じた。

 ここで何があったのか、自分から無理に聞き出そうともせずに。


 振り返れば、彼女はいつもこうして自分のために尽くしてくれていた。あの日の夜からそれは少しも変わっていない。

 そんな優しさに、どうにかして感謝の気持ちを伝えなければと思った。


「綺麗〜。あっ、この色の組み合わせ可愛い!」


 彼女は噴水の中央に灯る淡い藤色とライトブルーの光を指差し、嬉しそうにはしゃいでいる。


 高く噴き上げられ、水面に落ちて音を立てる光の粒。


 馨は少しの間共にそれを眺めてから、彼女と少し距離を詰めた。


「千恢」

「ん? なあに?」

「今日……一緒に来られてよかった。ありがとう」

「えっ、そんな……こちらこそだよ」


 彼女はそう言って、ピンク色に染まった水面を人差し指で撫でた。その仕草は、少し照れているようにも見える。


「千恢がいなかったら多分、今頃こんなに楽しく過ごせてなかったと思う」

「そう、かな?」

「……うん。付き合う前からずっと千恢に助けてもらってばかりで、俺はまだ何も返せてないけど……これから返していくから」


 馨は自らの口を衝いて出てくる言葉に面映さを覚えた。

 だが、彼女を見ているとどうしても伝えずにはいられないのだ。なぜかとても強くそう思っていた。


「な……何も返せてないなんて、そんなことないよ」

「でも、全然足りないと思ってる。好きっていう気持ちもそうだし」

「えっ! 大丈夫だよ、ちゃんとしっかり伝わってるからっ。さっきだって、手繋いだりしたし? あれは、ちょっとびっくりしたけど……」


 そう言われて、馨は写真を撮るために手を放していたことを思い出す。

 スカートの上に置かれた彼女の右手を握ると、彼女はびくりと体を跳ねさせた。


「あっ! ちょっとっ、だめだよ、ここにも知り合いいるかもしれないのに……!」

「今日は言うこと聞かないって、さっきも言っただろ」

「で、でも、あそこのベンチに知ってる先輩がいたら? どうするのっ?」

「大丈夫。いないって」

「だってほらっ、暗くて見えづらいけど、けっこう人座ってるよ……!?」


 彼女があまりに慌てふためくので、馨は仕方なく広場を囲むように置かれたベンチを見回した。

 犬を連れて腰かけている人もいたが、大体は自分達と同じような二人組で座っている人が多い。


「ん……?」


 ふと、木の影に隠れている一つのベンチが目に留まる。


 よく見ると、若い女性が大柄な男性の向かい合うようにして座っていた。二人はかなり密着していて、時々女性が身動みじろいでいる。


 それに気がついた途端、馨は心拍数が上がっていくのを感じた。


 はっきりとは見えないが、この上なく睦み合っていることだけは間違いない。

 更には別のベンチからも女性の艶のある笑い声が聞こえてくる。どうやらそちらも、男性と抱き合っている様子だ。


 千恢を見ると、彼女もそのベンチにちらりと視線を向けていた。


「……ここって、結構そういう場所だったりする?」


 馨の質問に、彼女は何とも言えない表情で頷く。


「まあ、わりとそう、かな?」

「そっか。前来たときは気づかなかった」

「…………」

「…………」


 心なしか、小さな右手がまた熱くなったように感じた。彼女の視線は今やベンチにじっと釘付けで、柔らかな下唇は緊張気味に噛み締められている。


 そんな姿に、馨は自分まで邪念に駆られる気がした。


「千恢」

「な、なあに?」

「……ここでしたい? ああいうこと」


 馨が邪な好奇心に負けて訊ねると──彼女は悩ましく眉根を寄せた表情で馨を見上げた。


 潤んだその目に浮かんでいるのは、恥じらいではなく感情の昂りに見えた。

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