第八十九話
「多分今から公園まで歩いていけば、噴水のライトアップもちょうど始まってそうだけど〜……少しぶらついてからでも良いよね」
煌びやかな明かりがひときわ
馨はずっとその華奢な手から視線を外せなかった。
先ほど、店で「そろそろ出よっか」と言って伝票を見ながら財布を出した彼女の手を、馨は制するように押さえた。
それ自体は彼女に食事代を出させないがために取った行動だったが──たったそれだけの接触でも、彼女は驚いたような顔をして無意識に手を引っ込めていた。
彼女の中で「人前では触れ合わない」という決まり事は、かなり厳格なものなのだろう。馨は空気感でそう悟った。
しかし、だからと言って引き下がるつもりもなかった。
彼女の意思を無視したいわけではない。ただ二人きりでいる時のように触れたいだけなのだ。
これまでは心のどこかで彼女に夢中になるのを恐れ、感情や欲を表に出すのも躊躇っていたが、今はどうしても自分に正直になりたいと思っていた。
「私ちょっとモールにも行きたいし、寄り道しつつ公園の方に向かおっか」
千恢がふとそう言う。
「うん」
馨はその言葉に頷いて手を伸ばし──
彼女の右手を握った。
「ん? ……あ、あれ? え、ちょっとっ」
彼女は目を
そして見る間に顔を赤く染めて、咄嗟に手を解こうとする。
だが馨はしっかりと握って放さなかった。
「えっ、待って、馨。手はだめだよ、待ってっ」
その状態で歩き出すと、彼女は慌てた声を上げる。
馨は羞恥心を呑み込んで振り返り、彼女を見やった。
「お前が言ったんだろ。好きなことしていいって」
「え、あっ……! でっ、でもだめ、一回放してっ」
「嫌だ。もう繋がせてくれないかもしれないし」
「! ……」
彼女は目を丸くしたあと、耳まで赤くして泣きそうな顔をした。
そして周りをきょろきょろと見回し、数メートル先にある路地裏に目を留めると、馨をそちらの方にぐいぐいと引っ張り始めた。
「ちょっと、一回こっちに来てっ……!」
人目のつかない場所で説得でもするつもりなのだろうか。
そんなことをしても無意味なのに、と思いながら馨は仕方がなく付いていった。
路地裏は表通りの明かりにほんのり照らされているだけで、人通りもなく薄暗かった。立ち並ぶ建物の煤けた壁には、派手な落書きが施されている。
千恢は中ほどまで行くと立ち止まり、困ったように眉根を寄せて馨を見上げた。
「ね、ねえ、馨。他には何してもいいから、手を繋ぐのだけは、また今度にしよ?」
「嫌だ。俺は今日繋ぎたい」
「えぇっ……! だ、だめっ。放して、ね?」
彼女は再び腕を後ろに引いて逃げようとする。
しかし馨がさほど力を入れなくても、非力な彼女の脱出が成功する気配は微塵もなかった。
小さな手はいつの間にか熱くなっている。
その火照りが直に伝わってきて、馨は胸の鼓動が速まるのを感じた。
「は、放してっ。お願いっ」
「俺だって、
「こ、困るよっ。だってもし誰かに見られたら……っ」
彼女は取り乱している様子だったが、その瞳が扇情的に潤んでいるせいで馨は遠慮する気持ちになれなかった。
「好きで付き合ってるんだから、別にバレたっていいだろ」
「……だ、だめっ。ねえ、急にどうしちゃったのっ? い、いつもの君じゃないみたいだよ」
「どうもしてない。お前が知らなかっただけで……これも俺だから。ちゃんと覚えておいて」
恥ずかしさから無愛想にそう言うと、彼女は目を丸くしたまま黙り込んだ。
小さな唇がネオンの光で艶めいている。
一瞬無言で見つめ合ったが、彼女の方が先に視線を逸らして俯いてしまった。
「……どっ、どうしよ。絶対、だめなのに、そんな風に言われたら私っ……」
頬を染めながら、困惑した声音で呟く。
そんな姿を見て馨は思い至っていた。自分が素直な感情を向けたとき、彼女はいつも何かしらを躊躇っていると。
一体何がそうさせるのかも、彼女の本音がどこにあるのかも、未だに分かってはいない。
しかしどちらにせよ、馨にできるのは自分なりに意思表示をすることだけだった。
大学の中庭で、改めて想いを伝えたあの日のように。
「……千恢」
握り直した手を引き、表通りの方向へと促す。
彼女はまだ僅かに抵抗して踏み留まろうとするが、あともう一押しだ。
馨は意を決し、身を屈めてその唇に口付けをした。
彼女から小さく艶のある声が漏れる。
数秒も経たない内に唇を離すと、彼女は呆気に取られて惚けた顔をしていた。
──我ながら狡い方法を取ってしまった。
馨は脇に押しやった恥じらいが戻ってくる前に、表通りの方へ向き直った。
「行きたいところあるんだろ。早く行くぞ」
「え、ぁ…………は、はいっ……」
力の抜けたような返事が聞こえる。
再びその手を引くと、彼女はもう抵抗することもなく静かに後ろを付いてきた。
◇
──そのあとは手を繋いだまま街を歩き、千恢が行きたがっていた
冷房が効いていて外よりも涼しいはずなのに、千恢の右手は相変わらず熱かった。彼女自身もずっと頬を赤らめていて、目当ての店では雑貨を見ながら手で顔を扇いでいた。
なかなか目を合わせてくれなかったが、馨は彼女ばかり見ていた。
「えっと……これ食べたら、公園行く?」
ショッピングモールの中に入っているアイスクリーム屋にて、彼女はジェラートを食べながら馨に尋ねてきた。
今は当然手が離れているからか、一時的に少し彼女の中に余裕が戻っているようだ。
「ああ、うん」
彼女の問いに頷いたとき、馨はそこが自分にとって複雑な記憶が残る場所であることを思い出した。
誕生日に、
あのときのアロマライトはまだ、自室ベッドの頭側のボードに置いてある。しかしあのライブの日の夜を境に、スイッチは入れなくなっていた。
今となっては何の感情も湧かなくても、かつてあった恋心と失恋した瞬間の光景を思い出すのは苦しかったからだ。
『私が思い出を上書きしてあげるから、二人で行こうよ』
千恢が言った言葉がふと脳裏に蘇り、馨は顔を上げた。
いつの間にか彼女はジェラートを食べ終えていた。
「食べ終わったなら、そろそろ行くか」
馨が席を立って手を差し出すと、
「あっ……うん。そうだね」
彼女はまた少し躊躇った後、恥ずかしそうにその手を取って頷いた。
────────
❀補足❀
最後に馨が思い出した千恢の台詞は【第七十九話】、
馨が
誕生日のプレゼントを貰った回は【第二十二話】参照。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます