第八十七話

「……寧々ねね


けいくん、お疲れ様! 今ちょうど馨くんに話したいことがあって、会いたいなって思ってたところだったの! 強く念じすぎちゃってたかなっ」


 寧々は頬を染めて嬉しそうに言った。

 その表情や声音は、相変わらず純真無垢そのものである。

 馨は内心焦りを覚えた。

 彼女が何を話そうとしているのか予測できていないせいもあったが、何より今の状況を千恢ちひろに見せたくなかった。

 もうすぐ彼女もここに来てしまうだろう。


「……は、話したいことって?」

「うん! 曲の練習のことなんだけどね!」


 思わず気が急いて先を促してしまったが、寧々は気に留めていない様子だった。

 

「夏休みライブの歌の練習、本格的に始めたいなって思ったの。それでね、馨くん……今日この後って、空いてるかなっ?」


 つぶらな焦げ茶色の瞳にじっと見つめられる。

 馨はさりげなく目を逸らし、首を横に振った。


「ごめん。今日はこれから予定があって」

「そ、そっか。友達と遊ぶのっ?」

「いや……うん。まあ、そんなところ」


 友達ではなく恋人だと口走りそうになったが、何とか踏み留まる。

 きっと全てを明かせば、寧々も気を引こうとするのは金輪際止めるのだろう。だが、そのためだけに千恢との約束を破りたくないとも思っていた。


「じゃあ、土日は空いてる? スタジオとか借りて、練習してもいいかなって思ったんだけどっ」

「……土日も用事があるから、難しいかな」

「そう、なんだ。残念だけど仕方ないねっ」


 寧々は気を落としたのか苦笑いでそう言った。


「ごめん。……じゃあ、俺もうそろそろ行かなきゃ」

「あっ、う、うん」

「週明けにでも、また改めて予定合わせよう」


 今ここで彼女と言葉を交わし続けても、良いことは一つも起きないだろう。

 千恢にも待ち合わせ場所を変えると連絡を入れなければ。

 そう思って馨が早々に踵を返した途端、


「ま、待ってっ」


 寧々の慌てたような声が背中にかかった。

 どきりとしながら振り返ると、彼女は躊躇いがちに口を開いた。


「ねえ、馨くんっ。私、どうしても馨くんに聞いておきたいことがあるんだけど──」

 

 そのあとに続く言葉を、馨は聞きたくなかった。

 しかし、無理にでも遮ってしまいたいと思った矢先、寧々はふと寂しげに微笑んだ。


「ご、ごめんなさい……やっぱり何でもないっ。またねっ」

 

 そして、馨に小さく手を振る。

 なぜかその瞳は涙で潤んでいるように見えた。


 だが、それも気を惹こうとする作戦なのかもしれないのだ。絆されるわけにはいかない。

 馨は目を合わせず彼女に軽く手を振ると、足早にホールから外へと向かった。


 ◇


 ──外に出てすぐに携帯を取り出す。

 MINEアプリを開くとちょうど千恢から連絡が来ていた。


〈お疲れ様〜! 遅れてごめんね。今向かってるから♡〉


 馨は中庭を横切りながら急いでそれに返信をした。


〈お疲れ様。待ち合わせ場所、チャペル入り口に変更で〉

〈は〜い❀ そのまま結婚式でもしちゃおっか♡〉


 彼女らしい暢気な返事が来て、少し安堵する。


 チャペルはB棟と図書館の間の奥まった位置に建っている。昼の礼拝の時間以外は人の出入りがないため、もう誰かに出くわすこともないだろうと思ったのが選んだ理由だった。


 程なくして、その入り口に辿り着く。

 馨は閉ざされた扉の前で一息ついて、チャペルを見上げた。

 十字架の掲げられた質素な建物は、日の落ち始めた空を背景にその清純な白を際立たせている。


 そこでふと、先ほど千恢から送られてきたメッセージが頭をよぎった。

 このチャペルでは礼拝やイベントだけでなく、実際に結婚式も行われているのだ。


 馨はオープンキャンパスで見せられたスライドショーに、去年行われたという式の写真があったのを思い出した。新婦が新郎を見て幸せそうに微笑んでいる姿を、後ろから撮ったものだったと記憶している。


 その姿を、何となく千恢を重ねてみる。

 当然未来のことなど誰にも分からない。自分の中に具体的な展望があるわけでもない。

 しかし《訪れるかもしれない》幸せな未来に、馨は漠然とした憧憬を抱かずにいられなかった。


 ◇


「いたいたっ。馨ちゃーん」

 

 それから数分後、千恢が息を切らしてやってきた。

 

「は〜、やっと会えたぁ。待たせてごめんね」

「い、いや……別に」


 たった今まで彼女のことを考えていたせいで気恥ずかしくなり、馨は愛想のない返答をしてしまった。

 すると彼女は、馨の目をじっと見つめながら傍に近寄ってくる。


「な、何だよ。どうした?」


 もしや今しがたの妄想を見破られたのだろうか。

 一抹の不安を覚えてどぎまぎしていると、彼女は不思議そうな顔をして言った。


「ねえ、馨。何か嫌なことでもあった?」

「……え?」

「別に落ち込んでるように見えたわけではないんだけど〜、何となーくそんな気がして」


 馨はそう指摘されてすぐに、先ほど寧々と会ったことを思い出した。

 しかし、千恢にこの話をするつもりはない。

 せっかくこれから楽しい時間を過ごすというのに、それで全てが台無しになってしまっては困るからだ。


「別に、何もない」

「ほんと〜? 私には何でも話してよ?」

「本当だって。ほら、もう行くぞ」

「……うーん」


 彼女は納得いかない様子で唸りながらついてくる。

 念のため人通りの多い中庭ではなく、講義棟の裏にあるグラウンド横の通路を通って行くことにした。

 

「話したくないならまあいいけどね。はい、千恢ちゃんを見て元気出して?」


 彼女はそう言って馨より一歩前に進み出て、服を摘んでみせた。

 今日の彼女はいつもと少し雰囲気が違う。

 短いショートパンツやノースリーブのニットではなく、空色の可愛らしいシャツワンピースを身につけていた。

 膝より僅かに上くらいの丈で、ウエストを同じ色のベルトで絞ってはいたが、普段の危うい際どさは全くない爽やかな格好である。


「ねえねえ、この服どうかな?」

「そ、その話は朝しただろ」


 今朝は彼女と同じタイミングで家を出ているので、当然馨は既にこの姿を目にしていた。そしてその時に感想も十分伝えていた。


「デートなんだから、何回でも褒めてよぅ」

「……もう散々褒めたって」

「え〜っ。せっかく君と街を歩くから『うんと可愛くしなきゃ』と思って、頑張ったのになぁ」


 彼女は肩を落とし、寂しげな声で言った。

 そしてとぼとぼ歩きながらアスファルトを蹴る。


 その仕草は間違いなく演技のはずだった。

 朝も同じような手口で何度も彼女を褒めることになったのだから、それは間違いないはずなのだ。

 しかし、


「……ああもう」


 彼女がどこかで本当に切ない気持ちになっていたら、と考えると放って置けなかった。


「か、可愛いって。普段もそうだけど……今日も、可愛い。すごく」


 胸の中に仕舞ってあった気持ちを無理やり言葉にする。

 するとそれを聞いた彼女は、振り返って満足そうな笑みを浮かべた。


「えへ、ありがと〜。馨ちゃん大好き」

「! ば、馬鹿。誰か聞いてたらどうすんだよ」

「大丈夫だよ、あの人達には聞こえてないだろうし♡」


 千恢はグラウンドを走っているラクロス部の部員達を指して言うと、馨の傍にそっと寄り添ってきた。


「私、こうして君と居られてすごく幸せだよ。……今夜は、忘れられない時間にしようね」


 いつもの甘い囁き声。

 それが頭の中に響き渡ると、寧々と話して抱いていた後味の悪さは間もなく溶けて失くなっていった。

 

 

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