第八十五話

 けい千恢ちひろの腕を引き寄せ、性急に口付けをした。

 すぐそこで眠っている淀名和よどなわはいつ起きてもおかしくないし、鉈落なたおちがいつ戻ってくるかも分からないからだ。


 しかし、唇が重なっただけでも身体の奥底から熱がじわりと込み上げてくる。

 早くやめなければいけないのに、離れたくないと思ってしまう。

 いつもそうだ。

 彼女に触れたりその瞳を見つめたりしただけで、理性が溶けて失くなっていくのだ。そして彼女も決してそれを拒みも蔑みもしないため、互いに満たされるまで我に返ることもない。


 魔法が使えるのは彼女の方なのではないだろうか?


 そんな馬鹿げたことを考えながら唇を重ねていると、テーブルの向こう側で何かがずり落ちるような音がした。


 慌てて彼女から離れて確認する。

 壁に寄りかかっていた淀名和が、いつの間にかテーブルに突っ伏していた。規則的な寝息を立てていて、目覚めた様子はない。

 それでも馨が淀名和から目を離せずにいると──千恢の両腕が首元に回された。


「もっとしてよ、馨……まだ足りない」

「でも、これ以上はまずいって」

「大丈夫……バレないから、ね?」

 

 くすぐるような囁き声が思考を侵食していく。

 馨はサマーニットに包まれた彼女の胸元と短いスカートから覗く太腿を一瞬見やり、目を逸らした。


「つ、続きは家に帰ったらするから、今はもう……」

「絶対? でもそれまで私、我慢できるかなぁ」

「……我慢して」


 数秒、彼女とじっと見つめ合う。

 薄茶色の双眸に再び吸い込まれそうになったが──その後、彼女はふっとため息をついて馨から離れた。


「仕方ないなぁ……でも、今夜寝かせてあげないからね」


 その妖しい台詞に再び身体がざわつく。

 しかし馨が何か返事をする前に、戸の向こうから足音がして鉈落が戻ってきた。



「なあ、馨。さっきの話だけどさぁ」


 居酒屋「きんかご」を出た後、駅に向かって歩いていると鉈落なたおちが口を開いた。


 彼はその背に、未だに目を覚まさない淀名和を背負っている。軽々と運ばれる彼女の姿は本当の子供のようだった。

 鉈落と彼女は最寄駅が同じらしく、そこを出たらすぐタクシーに載せると言っていた。


「馨が何らかの体質で人を惑わせてるなんて、やっぱり気のせいだと思うよ」 


 先ほど居酒屋で、馨は手洗いから戻ってきた鉈落にかいつまんで《自分が纏っているらしい何か》について話した。当然、話の発端である千恢ちひろの名前は出さないようにして、だ。


 初めは鉈落も困惑していた。中学や高校の時のエピソードを話した際に至っては「それ、ただの自慢だったりする?」と苦笑いで訊いてきたくらいだ。

 しかし馨が必死に訴えたため、最終的にはどうにか親身に話を聞いてくれたのだ。


「俺も勿論、馨のことは普通に人として好きなんだけど……そんな逐一ちくいち行動が気になったりはしないし、寝ても覚めても頭から離れない、なんてことも全然ないもの」

「うーん……そっか」

「第一、それなら悠大はどうなる? 中学から一緒なんだよね? もしその性質ってのが本当なら、ずっと一緒にいるあいつはとっくに《そういう意味で》馨に惚れててもおかしくないよな?」

「……あぁ」


 馨は肝心の彼を忘れていたことに気がつき、間の抜けた声を出した。

 確かに彼とは長い付き合いだ。何をするにも一緒だったが、そんなそぶりは一度も見たことがない。


「だからさ、結論、たまたまめちゃくちゃモテてるだけだよ。同性の纐纈はなふさ先輩が馨を気にするのも……まああの人の恋愛対象が人より幅広くて、馨が好みのタイプだったからなんじゃない?」

「そういうこと、なのかな」

「きっとそうだよ。あーあ……同性はともかく、女の子にモテるのは素直に羨ましいなぁ」


 鉈落は軽く笑ってそう言うと、馨を挟んで反対側を歩いていた千恢を見やった。


「ちなみに百花さんは、馨のことどう思う?」


 馨は内心どきりとした。しかし、聞かれた本人は狼狽うろたえることもなく穏やかに微笑んだ。


一花いちはなくん? そうだなぁ……あんまり自分の話をしない人って感じがするから、興味は湧いてる〜♡」


 好意的にも受け取れてしまう言葉だったが、同時に当たり障りなくも聞こえた。絶妙なはぐらかし方だった。

 鉈落も特に引っかかっている様子もなく頷く。


「あ、それ分かる。だから俺も、今度また飲みに行って色々聞き出さなきゃなぁと思ってたところ。──ってことだから、よろしく。馨」

「えっ? ああうん、いいよ。俺はそんな、面白みのある人間じゃないけど……」

「なーに言ってんだよ。面白そうじゃなかったらわざわざ仲良くしてないよ」


 鉈落がそう言うと、千恢がくすくすと笑った。


「ふふ。恋愛感情抜きにしても一花くんが人気者なのには変わりないねぇ」

「確かにそうかも。何だろう、ちょっと謎に包まれてるのが良いのかな。俺もミステリアスに振る舞ったらモテるだろうか?」

「そうだねぇ、形から入るの大事だと思う〜」


 鉈落の推察は《真っ当》だった。彼はつまるところ「何も気にするような現象ではない」と言いたかったのだろう。


 しかし、馨はどこか腑に落ちなかった。考えすぎだったと軽くあしらって終わりにしたいのに、頭の中のもやが一向に晴れない。

 和やかに談笑する二人の会話を聞きながら、しばし物思いをせずにいられなかった。



 家に着いたあと、馨はベッドに座ってスマートフォンを見ていた。鉈落から「無事に先輩を送り届けた」というメッセージが来ていた。


 ──飲み会は平和なまま終わったのに、心の中には嫌な予感が芽生えている。

 そしてその予感は、明後日の帰省に対する不安ともぼんやり繋がり始めていた。


「馨、すごく難しい顔してるね」


 寝室に入ってきた千恢が静かにそう尋ねる。

 

「いや──」


 馨は何か答えようとしたが、近寄ってきた彼女にゆっくりと肩を押されてベッドに倒された。


「今は何も話さなくていいよ。明後日までは憂鬱なこと考えなくて済むようにいっぱい構ってあげるねって、私言ったでしょ」

「まあ、そう……だけど」

「それにほら、さっきの続きしてくれるんだよね? 考え事なんてしてる暇ないよ」


 そっと抱き締められると、確かに不思議とうれい事よりも触れ合いに対する期待が勝る。

 欲を煽るような言動も、実は彼女なりの優しさなのかもしれない──と馨は思った。

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