第八十三話

 東大路通ひがしおおちどおり駅の北口から出て、目の前のスクランブル交差点を渡った先に「東大路センター街」と呼ばれる商店街がある。

 飲食店やアミューズメント施設など様々な業種の店舗が所狭しと立ち並んでいて、夕方でも実に多くの人で賑わっている場所だ。


 その一画にある居酒屋「きんかご」の2階にて、四人の会は時間どおりに開かれていた。

 完全個室になっている小上がり席の奥側には淀名和よどなわ鉈落なたおち、手前にけい千恢ちひろが座っている。

 室内はあまり広くないが、テーブルの下が掘りごたつになっていてさほど窮屈には感じない。


「それは面白いっ! 曲によって皆のパートを変えればる側も楽しいし、観る側も飽きないなっ!」


 淀名和が興奮気味に声を上げる。


 会が始まってから数十分。彼女が今小さな手で握り締めるレモンサワーは2杯目だった。


 普段よりテンションが高いだけで言動に大きな変化はないようだが、馨は彼女の酒の減り具合を見ながら会話していた。当然、あまりにもペースが速ければ止めさせるためだ。

 千恢も鉈落も同じ考えだったように思える。


「ですよねぇ、特に先輩と一花いちはなくんはどのパートもできるからすごく楽しいと思うんです。ほら、庵乃あんの 百舌もずがメインボーカルやってるAudicaオーディカ Emergencyエマージェンシーみたいでかっこいいですよね?」


 千恢がにこやかにそう応える。

 やはり、基本的に淀名和を落ち着かせるのは彼女の役目だった。

 油断をすればいつでも飛んでいきそうなのは変わらないが、千恢のお陰で上手く回っていた。

 ──この時までは。


「そうだっ! Audicaオーディカ Emergencyエマージェンシーと言えばっ!」


 淀名和が何か思いついたように大きな声を上げる。

 そして、ひときわ目を輝かせて千恢の方を見た。


「彼らは最近ミニアルバムを出したよなっ! ほら、ちょうどメンバー全員がそれぞれボーカルを担当した曲を収録したやつだ!」

「あ、そういえばそうですねぇ」

「それにならって──私や一花だけじゃなく、も鉈落も歌えばいいんじゃないかっ?」

「えっ……」


 千恢は来たばかりのカシスソーダを飲もうとしていた手を止める。


「扱えるバンドの幅も広がるぞっ! な? そう思わないか!?」

「おお、良いですね。百花さん、歌ったら皆の注目集めちゃうんじゃないかな」


 鉈落がうっかりその言葉に同意した火に油を注いだせいで、淀名和は更にエキサイトする。


「そう! まさに私もそう思ったんだ! 柔らかい声質で聴き心地も良さそうだからなっ! 私と二人でボーカルをやってもいいなっ! なっ!」

「えっいや、私はいいです、目立つの好きじゃないからぁ〜」


 千恢は狼狽うろたえた様子で目を逸らす。

 淀名和と鉈落も、まさか千恢の歌が壊滅的に下手だとは夢にも思っていないのだろう。

 

「試しに今ちょっと歌ってみてくれないか!?」

「いえ、あの先輩、私はほんと楽器だけでいいですからぁ」

「それぞれ色んなパートをやろうと言ったのは君だろう!? だったらまずは、君の歌声をチェックしないとな!」

「な、なんでそうなるのっ?」

「いいからいいからっ!」


 淀名和は跳ねるように立ち上がると、鉈落の後ろを通って千恢の隣までやってきた。


「恥ずかしいなら私だけに聴かせてくれてもいいんだぞ? ほら、こっちに来てくれ!」

「あ……あのっ! 私別に歌いたい願望もないし、ていうかほら、あんまり騒いだら迷惑ですから、ね?」


 しどろもどろな千恢を見ている内に、馨は段々とそれが可愛らしく見えてきてしまった。

 二人きりのとき、彼女は大抵いつも悠然としているので、こういう姿を目にする機会がほとんどないのだ。


 ──助け舟を出すよりも、眺めていたい。

 自分も酔い始めているのだろうか。

 

 そんな風に思って見つめていると、千恢は突然ぱっと馨の方を向いた。


「ちょ、ちょっと一花くん、鉈落くん、黙って見てないで助けてよっ!」


 無邪気に纏わりつく淀名和に力負けしている姿や、恥ずかしいのか赤くなった頬や八の字に下がった眉がどこか悩ましくも見える。

 馨は罪悪感で少し目を逸らして言った。

 

「ワンフレーズくらい、先輩に聴かせてあげたら」

「なっ……!」


 彼女は言葉を失って目をみはった。裏切られるとは思っていなかったらしい。

 馨の胸には後悔もよぎったが、どちらにせよ今の淀名和を鎮めるのは困難だった。


「ほらなっ! 皆こう言ってるんだから早く聴かせてくれっ!」

「や──あっちょっと、せんぱ……待ってくださいっ、嫌ですーっ!」


 彼女は抵抗も虚しく、淀名和によって部屋の隅に引き摺られていった。

 

 歌を聴いた淀名和の評価は馨の予想どおりだった。

 千恢はついでに、その場で淀名和から直々にボイストレーニングを受けることとなった。


 ◇


 それから少し経った頃。

 淀名和よどなわはテーブルに突っ伏して寝息を立てていた。


 先ほどまでは散々三人を巻き込んで騒いでいたのだが、徐々に静かになって今の状態に落ち着いたのだ。


「先輩……完全に寝ちゃってるかな?」


 話の合間に、少し疲れた様子の千恢ちひろがふとそう言う。

 淀名和の隣に座っていた鉈落なたおちは肩を竦め、彼女の顔を覗き込んで言った。


「淀名和先輩? おーい、起きてますか?」


 しかし、反応は全くない。


「全然起きないわ。目も開かないし」

「そっか……まあでも、それならもう少し寝ててくれていいかなぁ? お陰でスムーズに話し合いできてるし。話した内容は、解散した後に先輩にMINEしておけばいいよね……」


 千恢はそう呟きながらフードメニューを開く。


「まだ何か食べんの?」


 馨が尋ねると、彼女はじっと恨めしげな眼差しで馨を見据えた。


「誰かさん達が助けてくれなかったせいで、私しばらくボイトレ受けてたのでー」

「……悪かったって」

「まあいいですけどっ。先輩は楽しかったみたいだし……あっ! ねえねえ、見てよこれ」


 千恢はフードメニューを二人に見せ、とある箇所を指差した。

 そこには黒の太字で「当店オススメ」と書いてあり、すぐ下に「たこ焼き」の欄があった。どうやらトッピングの種類がいくつかあるようで、親切なことにそれぞれの写真まで載っている。


「もち明太チーズはさすがに無いのな」

「ね! でもこの『ねぎラー油たぬき』すごく美味しそうじゃない? の上に天かす乗ってるんだって──」


 千恢が楽しげにそう言った瞬間。


「はっ……!」


 完全に静止していたはずの淀名和が、再び目を覚ました。

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