第八十二話

「──おーい、けいちゃん。起きて〜」


 不意に優しい声が頭の中に響いてきて、馨は目を覚ました。

 間接照明の灯った寝室。

 目の前で顔を覗き込んでいたのは千恢ちひろだった。いつの間にかアルバイトから帰っていたらしい。

 

 馨はそこでやっと、考え事をしているうちに眠ってしまったことに気がついた。しかし結局、天満屋敷てんまやしきに知らされた事実と自分を取り巻く謎は少しも繋がらないままだった。

 

「……お帰り、お疲れ様」

「ただいま〜。ごめんね? 起こしちゃって」

「全然。寝るつもりじゃなかったし」

「そうなの? 少し疲れてたのかな」

「いや、まあ……」


 馨は曖昧な返事をした。こんな妙な話を千恢に話しても仕方がないと思ったからだ。


「……ていうかお前、今俺のこと何て呼んだ?」

「ん? 別に普通に呼んだけど?」

「嘘つくな。ちゃん付けしたろ」

「あ、バレてた〜? いいじゃん、ちょっと違う呼び方してみたかっただけ。だからと言って誰かさんみたいに、『馨くん』とは呼びたくなかったし」


 千恢は軽く笑ってそう言うと、ベッドから降りてリビングの方へ向かった。馨はその後ろをついていく。


「あ、そういえば君、今日のお昼淀名和よどなわ先輩に会った?」

「……会った。いつもどおり会話は成り立たなかった」

「でも先輩、顔合わせの話はしてたでしょ?」

「うん、まあ。明日だよな」

「そーそー。大学終わりに中央棟1階、掲示板前に集合」


 キッチンに行って冷蔵庫を開けながら、千恢は振り返った。

 いつものように悪戯っぽく微笑んでいる。


「楽しみだねぇ。先輩も心待ちにしてるみたいだったよ? 明日すごくはしゃいでるかも」

「……それは勘弁してほしいわ」

「ふふ──あ、そうだ。念のためもう一度言っておくけど……私達二人のこと、バレないように気をつけてね?」


 冷蔵庫の中から作り置きのおかずを取り出し、彼女はそう言った。


「先輩は全然脅威じゃないとして、鉈落なたおちくんは勘が良さそうだから。まあ、君は基本的に淡泊だから大丈夫だと思うけど……《普段の距離感》っていうのは、ついうっかり出ちゃうものだからね」

「……うん」


 馨は頷いたものの、果たしてそこまで慎重になる必要があるだろうかと疑問に思った。

 もちろん、周囲にやかましく囃し立てられるよりは静かな方がいい。しかし知られてしまってもそれはそれで構わない、という気持ちも抱き始めていた。

 彼女と共にいることは、馨にとって決して後ろめたいことではないからだ。


「周りにバレても……俺は、気にしないけど」


 そんな言葉が思わず口を衝いて出る。

 千恢は一瞬驚いたような顔をしたが、またすぐに笑みを浮かべた。

 そして後ろで手を組んで近づいてくる。


「ん〜? そうなの? どうしてかな」

「ど、どうしてって、そもそも隠す必要ないだろ……こっちは、好きで付き合ってんだから」

「へえ〜、そっかぁ♡ 君ってば、皆に自慢したいくらい千恢ちゃんが好きなんだ? 可愛いね」

「なっ……そ、そこまで言ってねえだろ」


 触れられそうな距離まで接近してきて、彼女は蠱惑的に目を細めた。


「思ったこと素直に話してくれて嬉しいよ。でもね……私はまだ秘密にしてたいんだ。君のことは、『皆の知らないところで』愛したいから」

「? な、何それ」

「秘密にしてた方が、ドキドキしない? 皆と一緒にいるときも『この人を隅々まで知ってるのは自分だけだし、その事実すら誰も知らない』って思うと……私はすっごく興奮するんだ」

「……理解できそうで、できないような」


 千恢は本当に心の底からそう考えているのだろう。

 彼女の上気した頬が、その昂りをはっきりと物語っている。

 しかし──馨はそれでもなぜか気がした。

 まるで甘い言葉で籠絡しようとしているように見えて仕方がなかった。


「もちろん前に言ったように『皆にバレて面倒事が増えたら困る』って理由もあるよ? だから……君にはもう少し、我慢しててほしいの。だめかな?」

「……そこまで言うなら、別にいいけど」

「よかった。ありがとう」

「でも、本当にそれだけなのかよ。他にも理由あるんじゃないの」


 試しに馨はそう尋ねたが、彼女はゆっくりと首を傾げて不思議そうにした。


「ないよ? どうしてそう思ったの?」

「いや、何となく」

「言っておくけど、君のこと自慢できない彼氏だと思ってるわけじゃないからね?」

「別に、そこを心配して言ったわけじゃないけど」

「そう? ならよかった。これからも心配しなくていいよ♡」


 千恢は嬉しそうな笑顔を浮かべて抱きついてくる。

 馨は真意を探ろうと彼女を見つめたが、その薄茶色の瞳からは何も読み取れなかった。



 ◇◇



 翌日の午後6時。

 講義を終えた学生達で混み合う、中央棟1階掲示板の前。


「皆、待たせたな!!」


 先に待っていた馨と千恢と鉈落の元に、意気揚々と淀名和が現れた。

 シンプルなデザインのチェストバッグを斜め掛けにしているが、そこにテキストやノートが入っているとは思えない。


「お疲れ様です、先輩」


 今日も講義を受けなかったのだろうか、と推察しながらも馨は特に突っ込みを入れなかった。

 どうせ指摘しても白を切られるだけである。

 

「さあ、皆行くぞっ! 夏休みのライブに向けて、今日はたくさん話し合おう!」


 その淀名和が張り切って音頭を取り、四人は大学を出た。


 向かう先は東大路通ひがしおおちどおりにある居酒屋だった。

 千恢いわくファミリーレストランも候補にあったそうだが、個室の設けられた居酒屋の方が適していると判断したらしい。当然、多少騒いでも問題ないからだ。


 帰宅ラッシュで混み合う地下鉄をクリアして、東大路通駅に降り立つ。


 地上に向かって駅構内を歩きながら、馨は前を歩く千恢と淀名和に目をやった。

 千恢の横で、淀名和は予想どおりはしゃいでいる。

 まるで幼子のようで、いつ突拍子もない行動を取ってもおかしくない様子だった。


「淀名和先輩、めっちゃ元気だな。危なっかしいくらい」


 鉈落も苦笑いでそう零す。

 それには同感だが、馨は唯一この中で淀名和に気圧されていない千恢に希望を抱いていた。


 彼女は今にも飛んでいきそうな淀名和に時折呼びかけたり話を逸らしたりして、巧みにクールダウンさせているのだ。

 それこそ子供に接するかのように。

 彼女がいれば案外スムーズに話も進み、妙なハプニングも起きないかもしれない──

 馨はそんな期待を胸に、居酒屋へと歩を進めた。

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