第四十八話
同日、午後1時を過ぎた頃。
北海道の実家に自転車を置いてきたことを後悔したが、地下鉄を利用するような距離でもない。
マップに従って住宅街を歩くと、やがてそれらしき公園に辿り着いた。
街の中心部にあるようなものと違って敷地面積はさほど大きくない。
しかし、緑鮮やかな木々は丁寧に剪定されており、遊具の塗装も真新しく小綺麗なものだった。
園内には長閑に遊ぶ子供達の姿もある。
約束の時間よりも少し早い。
そう思った矢先に、馨は公園の奥──木陰の下にあるベンチに彼女が座っているのを見つけた。
そこはかとない緊張を覚える。
象牙色をしたコンクリートの通路を進んで近づいていくと、彼女も馨に気がついて手を振った。
「やあ。早いねぇ一花くん」
「……お前こそ」
「それはだって、呼んでおいて待たせるわけにはいかないし。ほら、ここ座って」
あっけらかんとした彼女の様子に気後れしながら、馨は少し距離を取ってベンチに腰かける。
彼女はワインカラーの半袖シャツに淡いピンクのショートパンツという出立ちで、そこから覗く生白い足が馨にとっては今まで以上に悩ましかった。
小さなバッグの上にカーディガンが置いてあるが、膝に掛けたりする気はないようだ。
「せっかくの日曜日に呼び出してごめんね?」
「別に……どうせ暇だったし」
「そう? 朝すごーく迷惑そうだったけど」
「……それは、親と間違えただけ。一人暮らし始めてから、朝しょっちゅう電話
「なるほど。実家、北海道だっけ? 遠いから心配なんじゃない?」
「どうだか。俺にとってはただの嫌がらせでしかないけど……って、んなことどうでもいいわ。用があるなら、早く話せよ」
「ああ、確かにそうだね。ごめんごめん」
百花は可笑しそうに笑い、体ごと馨の方を向いた。
「一昨日の夜から少し経って、君も状況をより整理できたと思うんだけど……どう? 新たに何か悩んでたりはしてない?」
「何かって、何だよ」
「んー。例えば、やっぱり寧々ちゃんを諦められない、とか」
「……また蒸し返すのかよ、それ。お前だって忘れろって言ってただろうが」
馨は彼女を
しかし彼女は怯まずに軽い調子で肩を竦める。
「そんなに怒らないでよ。勿論そう言ったけど、そのためにはまだ色々考えなくちゃいけないと思うんだ。だって君、もう100%あの子を忘れる決心ついた?」
「……それは」
「即答できないよね。つまりまだ君の中に何か思うことがあるっていう証拠だと思うんだけど、違うかな」
返す言葉がなく馨は押し黙った。
指摘されたとおり未だ迷いがあり、決心が揺るがないとは言い切れなかったからだ。
「でも安心して? 私が友達として、そのぐちゃぐちゃに絡まった気持ちを
「は……?」
「ほら、自分が本当はどう思ってるのか、人と話して整理がつくこともあるし。ね? お互い今日は暇なんだし、ゆっくり話そうよ」
「……」
彼女の言うことを素直に受け入れるにはまだ抵抗があったが、それでも馨は妙に納得してしまった。
彼女はその心を見透かすように、目を細めて微笑む。
「まず最初に、ちょっと質問してもいい? 正直に答えてくれるかな?」
「……今更、嘘なんかつかねえよ」
「よかった。じゃあ……私がこんなこと聞くのも変だけど、君、寧々ちゃんを彼氏から略奪したいとは思わないの?」
「え……」
『略奪』。
馨には縁遠く、口にしたこともない単語だった。
辞書的な意味を知っていても、実際にどう振る舞えば達成できるのかは心得ていない。
しかしどの道、今の馨に寧々を恋人から奪う気はなかった。寧々にとってはそれもただの浮気にしかならないと、あの録音で知ってしまったからだ。
「……分かんねえ。あの録音がなかったら『告白すればいずれ俺の方を見てくれるかもしれない』って思ってたかも」
「ふむ。そっか」
「でもあれを聞いた以上、もし仮に恋人を捨てて俺のところに来たとしても……もう、寧々を信用できない。いつか俺も捨てるんだろうなって、考えずにはいられない」
「そう? もしかしたら君に心の底から惚れて、ずっと一緒にいてくれるかもよ?」
百花はなぜか希望を持たせるようなことを
「だけど寧々は実際、恋人を裏切ってるだろ。それなのに、信用なんてできるかよ」
「本気で惚れさせれば? そうしたらあの子も浮気しな──」
「そもそも俺は、そんな奴と一緒にいたくない。……俺にだって、許容できないことくらいある」
思わず馨が台詞を遮って語気を強めると、百花は目を瞬かせた。
やがて何度か頷いて口を開く。
「なるほど、そっか。……好きな子なのに許せないのは辛いよね」
「……」
「嫌なこと言わせてごめんね。でも、ちょっと分かったよ。今の時点での君の考えが」
「? ……どういう意味だよ」
百花は馨から視線を逸らし、遊具の周りで走る子供達に目を向けた。
「君は今、浮気するような人間はやだって言ったけど……また明日あの子に会ったら、思うはずだよ。『やっぱり好きだ』って」
「は……? そ、そんなこと、分かんねえだろ」
「分かるよ。あの子は今までどおり君に接してくるからね。打ち上げでこっそり私に話した彼氏のことをばらされてるとは、夢にも思わないだろうし」
再び百花は馨の方をじっと見つめ、少し距離を詰めた。
「あの悪魔は早く君と過ちを犯して、それを美しい思い出にしたいんだよ? 気を引くためなら何だってするはず。そうしたら君はやっぱり、迷っちゃうと思うよ。すごく好きだったんだから」
「……じゃあ、どうしろってんだよ」
馨はサークルやバンドを辞める他に寧々を避ける方法を思いつかなかった。
しかし、漸く誰にも咎められることなく趣味を楽しめる環境なのだ。こんなことで諦めたくはない、という思いもあった。
「うん、君が好きなことから離れる必要はないよ」
またもや思考を見透かしたように彼女は言う。
「ここからは、ただの根性論になっちゃうけど。君はどれだけ苦しくても逃げないで、ひたすら恋心を忘れようとするしかないと思う」
「……何か案があるわけじゃねえのかよ」
「ん? あれれ……もしかして君、
彼女の微笑みが見慣れた蠱惑的なものに変わる。
馨は無意識に身構えた。
「いや……そういうわけじゃ」
「そんなに言うなら一つ提案しちゃおうかな〜?」
「いいって」
「遠慮しないで♡ 実はその話もしようと思ってたから」
「……」
そして何やら指で操作して馨の方へ画面を見せた。
そこに映っているのは一人の女性。
アッシュグレーの長い髪に眠たげな眼差し、小振りな両耳には派手なピアスが並んでいる。
馨はその女性に見覚えがあった。
「? この人……サークルの先輩、だよな」
「そう! 2年の
そのため馨はほとんど話したことがなく、人柄も把握していない。
「ねえ一花くん」
百花は期待の篭った眼差しで馨を見つめた。
「この人誘って、新しく一緒にバンド組もうよ」
「え? な、なんでそうなった」
「バンドを掛け持ちして、サークルの中で楽しめる場所をもっと増やせば、あの子のことなんてきっと忘れられるでしょ? そう思わない?」
「……いや、まあ」
「当然、口で言うほど簡単じゃないけどね。とにかく、君はこのまま死んでちゃ勿体ないから」
「勿体ない……」
いまいち釈然とせず馨は首を傾げる。
しかし百花はそれに答えることなく言葉を続けた。
「恋心を忘れるのも重要だけど、せっかくならあの子が後悔するくらい自由に、好きなこと楽しんでいかないと。ね?」
「それは、そうかもしれないけど」
「でしょっ。だからやってみようよ」
「……」
百花の提案には確かに惹かれるものがあった。
彼女をまだ全面的に信頼したとは言えないが、かと言っても最早さほど警戒しているわけでもない。
誘いを受ける価値は十二分にあると思ったのだ。
馨は思案したあと、躊躇いながらも頷いた。
「うん……分かった」
「よしっ、決まりだね。じゃあ、
彼女はベンチから立ち上がり、薄茶色の目を細めた。
「明日からのこと、応援してる。私も助けてあげるけど、全ては君次第だから。頑張ってね」
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