第三話

 夕食を摂り、風呂に入ったあと、けい悠大ゆうだいはリビングで待ちに待ったテレビゲームをしていた。

 とはいえ実際にコントローラを握っているのは悠大で、馨は横になって画面を眺めているだけだった。


 二人は来客用の布団の上にいて、その周りにはつまみや菓子の袋、缶チューハイの空き缶が乱立している。

 酒のほとんどは悠大が空けたものだが、彼は平気な顔でテレビ画面を見ている。

 時刻はすでに深夜2時すぎで、酒に弱い馨は懸命に酔いと睡魔と戦っていた。


「悠大……まだやんの? 俺もう大分しんどいわ……」

「バカタレ! 徹夜オールっつったろ!」


 ばしっと頭をはたかれて眼鏡がずれる。

 コンタクトは、目がとうに限界を迎えたので外していた。


てぇ……叩くなよ」

「マヌケ面しやがって。酒弱すぎだろ、雑魚!」

「な、何だとコラ。コンセント抜いてやる」

「あ!? やめろ!」


 コードに手を伸ばすと、悠大が後ろから掴みかかってきた。

 一番近いセーブポイントまで距離がある上に、このゲームにはオートセーブもない。

 消されるのはわりと本気で困るのだろう。

 悠大は馨の首を羽交い締めにし、布団の上に引き倒してきた。


「ちょ、悠大。嘘、冗談だって」


 酔いも相まって大した抵抗もできないので、馨は素直に音を上げる。

 しかし悠大は拘束を解かず、おまけに含み笑いまで聞こえた。


「おいほんとに、酔ってるから、死ぬから──」


 笑いながらそう言い返したとき、馨はこの家で笑い声がするのがとても久しぶりなことに気づいた。

 

 恋人の私物と共に段ボールに詰めたはずの思い出が、また性懲りもなく溢れ出してくる。

 

「あれ、馨、どしたよ。絞めすぎたか!?」


 悠大がふと拘束を解いて顔を覗き込んできた。

 馨は何とか気を取り直して首を振る。

 感傷的なのは恐らく酔っているせいだろう。

 酒を飲むとろくなことがない、とつくづく思った。


「いや、大丈夫……何でもない。頭痛いから、もう寝るかな……」

「え、マジかよ正気? ストーリー激オモロすぎてやめらんねえっしょ! 今作はエナが主人公ってだけでも胸熱なのに」

「んー。でも、睡眠には敵わねえわ……」


 この約1週間の間は満足に眠れていなかったため、やっと開放された寝室のベッドが恋しかった。

 

「じゃあな、悠大。お前も程々にしとけよ」

「はあ〜、マジか! じゃあな下戸、お休み!」

「うるせえ」


 振り向かずに悪態づき、寝室に入ってドアを閉めた。

 数日閉ざされていたこの部屋は、嗅いだことのない不可解な匂いが微かにしていたが、馨は気にせずにベッドに倒れ込んだ。


 ◇◇


 翌日昼前。


「今から帰ってちょい仮眠すれば、バイト中死なないべ」


 悠大は馨の部屋の玄関で靴を履きながらそう言う。

 飲酒のせいで頭痛や倦怠感に苛まれていた馨は、元気そうな彼を恨めしく思いながら口を開いた。


「寝過ぎて遅刻したりしてな」

「馬鹿、不吉なこと言うなよ! お前を元気づけるために徹夜オールしたのに!」

「いや、ゲームするためじゃん……」

「うっせ! 俺様が直々に慰めてやったんだから、早いとこ立ち直ってサークルにも顔出せよ! 後輩達も寂しがってるから!」

「……」


 馨と悠大は、同じサークルに入っている。

 いなくなった彼女も同様だ。

 馨を振って以来彼女は部室に来ていないらしいが、それでも顔を出す気になれていなかった。


「まあ、気が向いたら行くわ……」

「おうよ! あーあと、昨日話してた合コン、なる早で予定組むからな!」

「まだ言ってる……」


 馨は深く溜め息を吐いて肩を落とした。

 昨日夕食の時にしつこく言われたのを思い出す。


「早く吹っ切れてほしいんだよ! お前と話したいって言ってた経済学科の子も来るから! ほんと可愛いんだぞ!?」

「いや……気進まねえって」


 顔を合わせたことすらない相手に会いたいと言われても、馨は受け入れる気になれなかった。


「一度話したら気持ち変わるかもしんねえだろ? 何事もチャレンジ! その子も会いたがってるんだし!」

「そういうの、別に求めてない」

「意外と楽しいかもしんねえじゃん?」


 彼はそう言って立ち上がり、手を上げた。


「まーいいや! そゆことで、また月曜な!」

「ああ、はいはい……」

「もうあんま落ち込むなよ? お前いないと大学も楽しさ、5分の1くらい減だから!」

「少ねえな」


 随分と適当で酷い言葉だと思った。しかし、元気づけられているような気もして少し顔が緩む。


「……悠大。部屋、一緒に片してくれてありがとな」

「おおっ? 何だよ改まって! そんじゃな!」


 照れ臭そうにはにかみ、彼は今度こそ手を振って帰って行った。


 ドアが閉まり、部屋の中に静寂が訪れる。

 途端に孤独がにじり寄ってきたが、乗り越えられるかもしれない、と馨は思い始めていた。

 悠大が容易たやすく開けてしまった寝室の入り口に立つ。

 恋人の物は全て片付けられて、余計に質素な部屋になっていた。


「?」


 ふと、蓋をしたはずの段ボールから小さな小物入れが転がり出ているのに気がついた。

 近寄って拾い上げ、開けてみると中にはネックレスが入っていた。


 これは彼女が馨に、自分と色違いのペアで買ってくれたものだ。

 まめに手入れしていたからか、輝きは店で目にした時と変わらない。


 じっと見つめていれば、どうしたら彼女が去らないでいてくれたのかをまた考え始めてしまう。

 考えて必ず行き着くのは、不甲斐ない自分への苛立ち、そしてへの憎しみ。



「ア」



 ──不意に。

 背後で、か細い声がした。

 瞬間、全身に激しい悪寒が走る。


 ほとんど反射的に後ろを振り返り、驚愕で刹那、息が詰まった。


 先日遭遇したが、リビングの床に。

 這いつくばっていた。


 黒くよどんだ色の、もつれた長い髪。

 血の気の失われた白い顔をして、剥いた目で馨を見つめている。

 左右にゆっくり首をかしげて、小さな赤い口で、ぼそぼそと何かを言っている。


「うわぁあ……っ!!」


 馨は押し出された叫びと共に立ち上がって距離を取ろうとしたが、足元のゴミ袋に躓いて転倒する。

 慌てて入り口に目を向けると、異形はすでに寝室の中に入ってきていた。

 生白なまじろい手で床を掻いて這ってくる。


「ア、ぇ」


 呟きの合間に、苦しげな声を発している。

 馨は体を戦慄わななかせ、後退あとずさりするのもままならないまま叫んだ。


「く、来るな、来るなッ……!」


 しかし異形は意に介することなく馨の足元まで迫り、足首をぐっと掴んできた。

 割れた鋭い爪が服越しに肉に食い込む。

 痛みを感じる。

 これは幻覚などではない。

 そう思い知らされた恐怖で体に力が入らない。

 振り払って逃げることもできない。


「は、放せっ……! 俺が、な、何したって言うんだよ……ッ」


 這い上がってきた手に、膝の辺りを強く掴まれる。

 絶望感。死の予感。

 涙が勝手に溢れてくるのに、その姿だけが滲まない。

 異形は自らの矮躯わいくを腕の力だけで引き寄せ、馨の体に伸しかかる。

 

 そしてやがて、ぐぐっと緩慢な動きで顔を上げた。

 

「いっ、嫌だ……、っやめ……」


 馨を見つめる生気のない瞳は、濁った海のよう。

 白い手が伸びてきて、首にかけられる。

 

「ィ」


 赤い口が弧を描く。

 笑っている。

 恐ろしさで見開かれた馨の目から一筋、助けを乞うように涙がこぼれた。

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