→∞→
孫上
damn
いつもは気にも留めない発車メロディが地下鉄駅構内に鳴り響く。
僕の視界にはいつにも増してぐらぐらと揺れている階段。
革靴の踵をすり減らし、猛スピードで階段を降っていく。
「駆け込み乗車はご遠慮ください」
駅員のテンプレを片耳に、先頭車両へと駆け込む
額に流れる汗と加齢臭が電車内に充満している。
だが、不穏な時間はここまでだ。
この時間、この電車内にいる間は。
そう思うと同時に僕は扉の窓ガラスに息を吐きかけ、こう綴る。
「damn」と。
nの柔らかな山を描き終えると同時に僕の中に音楽が流れ込む。
邪気を祓うかのように、彼は深く息を吐き出し、後方車両にターゲットを定めるかの様に振り向き、リズムに乗る。
指を鳴らし、始める。
この時間、この瞬間、この音楽が私の中を巡っている時は、第三者という概念などない。同車している乗客など僕の視界は愚か、脳内すらも認識しようとしない。無論、僕が営業5年目にしてリストラ候補に入っている事実など存在しない。
この世界での王家は間違いなく僕なんだ。言い聞かせるわけでもなく、体は脳からの指令も受けず、リズムに乗り、そして踊り出す。ヒットの強さには自信がある。軽やかで、滑らかな足捌きと指先は電車の進行方向とは逆に進み始める。少しずつ、一歩ずつ。そして、騒々しく。23世紀のマイケルは僕で決まりなのか。そのことを確信させるかの様に、周りは羨望な眼差しで僕をみている。そうに違いない。しょうがない。ここらで一発ファンサービスとやらをかますとするか。視界の中に入り込む一人の男性。僕は薔薇の造花の花束を持っている60代の老父に向け濃厚な投げキスをする。反応には興味ない。そして見もしない。見なくてもわかるからだ。5秒後。僕は振り向かないまま、そして私の一挙手一頭足を逃さぬ様見ているだろう背後にいる老父に対し、アクションを投げかける。軽やかさを増した足取りは2号車へと向かう。
電車は進み続ける。
目の前が真っ暗だ。
一瞬の出来事だ。
ミオクロヌースが私のふくらはぎに触れる。
視界の鮮明さを取り戻すのに1秒間。私は自己と環境を理解する。
どうやらうたた寝をしていたようだ。隣に座っていたサラリーマンは知らぬ間に若い女子高生へと変わっていた。もうあと2駅までの距離に来たのか。携帯には数え切れないほどの不在着信。こんなはずしゃなかった。
隣の女子高生に興味が向こうにも向けない。一目見るだけで終わってしまう。
視界が微かにぼやける。泣いて解決するなら、僕はいつでもどこでも泣くつもりだ。それと同時に僕の心は枯渇するだろう。
脳内メーカーには余白がほぼなく、ラスト一文字しか記載スペースがないようだ。最後の1文字が埋められてしまう。最後の一文字を100ページの広辞苑から抜粋しようとするとともに、一人の奇人に目が移る。私は広辞苑を閉じざるを得なかった。
今宵がラストダンスなのか。男は醜さを纏った動きから察するに、自分の世界に心酔しきっている。彼は自分の事を腫れ物だとわかっていないのか。冷ややかな視線に気づいていないのか。
悔しい事に私は、隣の女子高生よりもシワまみれのカッターシャツをまとった彼に何度も視線を向けてしまう。
乗り換えのため、東京駅で下車。そして男も、下車をする。彼は踊り続けている。彼は私と住む世界が違うんだ。彼の背中を見ればわかる。俺にはやらなければいけない事がある。計画もある。過程もある。やらなければいけない義務がある。それが理想郷だと。そう認識してきた。お前とは違う。
お前より俺のカッターシャツの方がよっぽど綺麗だと。そうに違いない。彼の軽やかな足捌きと、私の重苦しい足取りは何故か距離は遠ざかる事なく、一定に保ちながら歩みを進める。
なぜだろう。私は何も間違っていない。周りも彼を嘲笑っている。大丈夫だ。私だけではない。私は間違っていない。間違っていないのに、何故こうも彼の背中のシワが、私の足を進めるのだろう。
私のすぐ横を老父が駆け抜ける。おぼつかない足取りだ。見窄らしいという言葉は老父を形容するのに一番適している。だが、それと同時に彼のほおにあるシワの深さも一層、私の進行方向を惑わすものだった。彼ら二人の後ろ姿がやけに眩しく感じ、私の生き方をまるで否定するかのようだった。
時計の針は私が下車してから20分を過ぎる。いつからだろう。私は路線図の前に佇む。その表情はまるで、大学進学を機に上京してき、乗り継ぎの困難さに途方に迷った様だった。12年も前の話なのにだ。
いつもより京葉線を示すワインレッドがくすんで見える。まるで廃線を予告するかの様な見え方に私は少なからず心当たりがある。この線に沿らなければ、理想郷には辿り着けない。終着できないと思っていた。
いや、くすんでいるんじゃない。周りの色がいつにも増して映えているんだ。ワインレッドだけじゃない。赤色も青色も緑色でも。たくさんあるんだ。私は、久しぶりに東京というもの壮大さに気づけた。人差し指を路線図に突き刺し、これからの行き先を確認するようじっくりと撫で、私は歯を見せる。
カッターシャッツはより黄ばみを増すだろう。皺も増すだろう。街ゆく人々はより私に注視するだろう。
勢いよく通り抜けた馴染みのない改札の残高は「→∞→」と表示。
足取りが軽くなったこの視界は私の馴染みないもの。
その高揚感から大雨という事を気にも留めず、駆け抜ける。
水溜りがあっても、駆け抜ける。雨に打ち付けられても歩き続ける。東京駅丸の内中央口には私だけではない。同姿を持った老若男女。
革靴は水浸しになりいつにも増して重かったが、重さは重要じゃない。衣服もずぶ濡れだ。明日は風邪かな。それとも熱かな。それも悪くないかな。同じ雨に打たれた少年少女は、異なる色に染まってゆく衣服を纏い、それぞれの場所へと、歩いて、走って向かう。
→∞→ 孫上 @ajr20220107
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