第4話
浪漫がいつもの散歩から店に帰ってくると、店内は珈琲の香しい匂いで包まれており、カウンター内で何やらゴリゴリと音を立てている佐助がいるのが見えた。
「お、浪漫さんお帰り」
佐助が帰ってきた浪漫を見つけて声をかける。
「うむ、戻ったぞ」
「あれ?浪漫さん随分素敵な姿じゃない、どうしたのそれ?」
佐助が言うように浪漫は毛がぼさぼさになるまで撫でまわされていた。浪漫はぐしぐしと毛の手入れをしながら言った。
「吾輩は人気者なのでな、特に子供達は容赦がない」
「それはお辛い、人気者の宿命ですな」
佐助はそう言ってまた作業に戻る。その様子を見て浪漫が佐助に問うた。
「その作業は何をしているのだ?店の匂いも今日は何だか香しいな」
手元で作業していたコーヒーミルを机の上に置いて、佐助は今挽いた珈琲豆を浪漫に見せた。
「これは焙煎した珈琲豆をこの道具で粉状に挽いたんだ。これを使って珈琲を淹れるんだよ、俺はいつもインスタントしか飲まないから、こんなに本格的な物は初めてだな」
「こいつが今回の品物という事か?」
「まあ大体当たってる、今からこの粉を使って珈琲を淹れるよ」
浪漫は聞くだけ聞いて興味なさげに椅子の上で丸くなった。かちゃかちゃと食器や器具が鳴り、珈琲の香りが漂う今だけ、月来香は喫茶店のような雰囲気だった。どこから持ち出したのか分からないが、佐助はレコードプレイヤーを出して、ジャズのレコードで音楽まで奏で始めた。
「おい、何だか今回は随分と気合が入っていないか?」
浪漫は手間のかけ様が普段と違うので佐助に聞いた。
「今回の品物は珈琲だけじゃなくて、この店の雰囲気も含めて全部がそうなんだ。一体どんなお客さんが来るんだろうね」
佐助と浪漫がそんな会話をしながら待っていると、店の扉が開かれる音が聞こえてきた。
「ようこそ月来香へ、お客様こちらへどうぞ」
入ってきたのは高校生程の女の子だった。店の様子を見て、驚いたような表情を見せている。
「どうしました?」
佐助に声をかけられて、女の子はおずおずと聞いてきた。
「あの、ここはどういうお店ですか?喫茶店ですか?」
「あー、まあその辺のご説明もさせていただきますから、取りあえずお席に座りませんか?」
女の子はそう言われて、カウンター前の席に座った。それを待って浪漫が口を開く。
「娘よ、名を何と言う」
突然喋りだした猫に女の子は驚いて飛びのく、その様子を見て浪漫は楽しそうにけらけらと笑った。
「ごめんなさいね、こいつお客さんをからかう事しか趣味がなくって、喋る猫のぬいぐるみだとでも思ってください」
「失敬だな佐助、吾輩は実に多趣味だぞ。散歩に日向ぼっこにアイドル活動に、それはもう誰もが羨む生活だ」
喋る猫と平然と会話する男に女の子は目をぱちぱちとさせて驚いていた。そして佐助が出してきた物を見てもっと驚いた。
「どうぞ、こちらがあなたの品物です」
そのコーヒーカップにも、淹れられた珈琲の香りや周りの雰囲気にも、そのすべてに女の子は覚えがあった。
「これ、この珈琲もカップも流れている音楽も雰囲気も全部全部、これは亡くなったお父さんのお店その物です!どうしてですか!?」
女の子は席から身を乗り出して佐助に詰め寄った。
「まあ取りあえず一杯どうですか?」
佐助に言われて、女の子はもう一度席に着いてカップを手に取った。そして一口珈琲を飲み込むと、その味に思わず笑い出した。
「あははは、味まで一緒!美味しくない!」
美味しくないと言われて逆に驚かされたのは佐助だった。目を丸くして、浪漫と顔を見合わせる。女の子はその様子にもお構いなしにけらけらと笑い続けた。
一頻り笑った後、目の涙を拭いて女の子は話し始めた。
「いやー突然すみませんでした。
そう言って前川はカップの縁を愛おしげに指でなぞる。
「あの、珈琲不味かったですか?」
佐助が申し訳なさそうに言うので、前川はそれを笑って否定した。
「不味いけど、それが駄目って事じゃあないんです。またお父さんの珈琲が飲めるとは思わなかったから、こんな味だったなって思ったら可笑しくて」
前川は店を見渡して、それを懐かしむように深呼吸をした。珈琲の香りにレコードの音、これで客がもっと居れば本当にそのままに思えた。
「最初の質問に戻るんですけど、ここはどんなお店なんですか?喫茶店って事じゃあないんですよね?」
佐助はその問いに頷いてから答える。
「ここは訪れたお客さんに、今一番必要な品物を提供する場所です。ルールは一つで一見さん以外お断りのお店です」
「一見さん以外お断り?じゃあ一度来たらもう来れないって事?」
前川の問いに今度は浪漫が答える。
「左様、この店を訪れる事が出来るのは人生で一度きり、そして品物の代価は、その物に纏わる話を吾輩や佐助に聞かせる事である」
浪漫が喋る様子をまじまじと見つめて、前川は不思議そうに聞く。
「やっぱり君は喋れるんだね、一体何者なの?」
「吾輩は誇り高き妖怪の猫又、名を浪漫と申す。遥か長い時を過ごす賢猫なるぞ」
浪漫は自慢げに尻尾を振りながら自己紹介をする。佐助はそんな様子を呆れ顔で見ていた。
「まあ浪漫さんの事は置いておいて、今回の品物は、この珈琲を含めて店内で過ごす時間が品物となっています。先ほど浪漫さんが言ったように、お代は品物に纏わる話をお聞かせください」
前川は少しだけ考え込んで、何かを思いついた表情をして言った。
「キッチン借りていいかな?私、珈琲を淹れながら話すよ」
前川に、カウンター内のキッチンとエプロンを貸す。手首に付けていたヘアゴムで髪を後ろに結んで、慣れた手つきで作業を始める。
「私のお父さん喫茶店のマスターをやってたの、元々サラリーマンしてたんだけど、どうしても喫茶店のマスターが夢だったんだって」
話しながらでも前川の手は止まらない、流れるような作業をこなしつつ会話を続ける。
「小さいお店だったけど繁盛してた。私には分からなかったけど、お父さんこだわりのレトロな雰囲気が好きだって通うお客さんが多かったの。あと、お父さんは喋りと料理が上手だったから、それ目当てで来る人もいたかな。ただね…」
珍しくカウンター内ではなく、カウンター席に座っている佐助が首を傾げて聞く。
「ただ何ですか?」
「お父さんこだわりの珈琲だけは不味かったんだよね、不味いと言うより、美味しくないって感じかな」
「それは喫茶店として致命的ではないのか?」
浪漫がそう言うと、前川は笑って言う。
「私もそう思うんだけど、何故かその珈琲が常連さんには人気でね。お父さんも美味いって言わせたいから沢山勉強して試行錯誤して、そんな様子も人気だったの。今日のは昨日よりは美味しいだとか、一昨日飲んだ時の方が良かったとか、そんな事言いながら皆笑ってた」
「お客さんに愛されていたんですね」
佐助がそう言うと、前川は笑みを浮かべてお礼を述べた。
「ありがとう、私もそう思う。お母さんも私も手が空いた時はお店を手伝ってたけど、とても素敵な空間だった」
そこまで言うと、淀みない手つきで作業していた前川の手が止まる。
「でも、お父さん病気で死んじゃったの、どうしようもない事だけど、悲しかった。お父さんが最期まで言っていたのは私達の心配とお店の事だった。お父さんの宝物だったから」
止めていた手を再び動かし始めて、前川は話を続けた。
「お店は続けられなかった。お母さんにも仕事があったし、お父さんあってのお店だったからね、常連さん達は残念がってたけど仕方ないよね」
「お主はそれで納得したのか?」
浪漫が聞くと、前川は黙って頷いた。
「私もそれでいいと思った。あのお店はお父さんの夢だから」
話している内に、何とも香ばしく良い匂いが漂ってきた。前川が淹れた珈琲を佐助の前に差し出す。
「どうぞ、飲んでみて」
「いただきます」
佐助はカップを手に取る、そしてすぐに気が付いた。まず匂いが違う、良い香りというだけでなく、鼻腔をくすぐるそれは、珈琲のあらゆる風味を頭に想起させた。香りを楽しんだ後珈琲を口にすると、自分が淹れた物とは別の飲み物だと思った。苦味はある、ただそれだけでなく、酸味や甘み、深い味わいを感じて、喉を通ると爽やかな後味で余韻に浸る事が出来る。
「美味しいです。別の飲み物の様だ」
「ありがとう、実は私珈琲淹れるの得意なの。お父さんのお店の常連客に珈琲に詳しい人がいて、こっそり教わってたの。いつかお父さんをびっくりさせてあげようと思って、色々勉強と練習したんだ」
「この味わいは、確かに努力を感じさせます。素晴らしい珈琲です」
佐助は素直に感心していた。本当に別の飲み物かと思うくらい、この珈琲の味は全く違っていた。
「いつかお父さんのお店を本格的に手伝う時が来たら、私が珈琲を淹れて、お父さんが料理やお客さんの相手をする。そんな未来があったのかな」
「お主、何を悩んでいた?」
「え?」
浪漫の突然の問いかけに前川は困惑の声を上げる。
「この店に辿りつく者はな、皆迷い悩んでいることがある。お主は何に迷っている?」
「そ、それは…」
佐助は困っている前川に助け舟を出す。
「浪漫さん、そんな追い詰めるように聞かない事。前川さん、珈琲とても美味しかったです。この味は一度覚えたからといって出せる物じゃあない、今もまだ珈琲について勉強も練習もしているんじゃないですか?」
佐助の指摘に、前川は短くため息を吐いて答える。
「そうです。実はもっと珈琲について専門的に学びたくて、進路について悩んでいます。本当にこの道に進んでもいいのかって、お母さんには何て言おうとか、将来はどうするとか、頭の中でぐちゃぐちゃになってしまって」
「なら私から言える事を一つだけ、この珈琲とても美味しかったです。あなたとお父様の絆も確かに感じさせてくれました」
「絆?」
「ええ、あなたの珈琲とお父様の珈琲、後味がそっくりです」
そう言われて、最初に出された珈琲と、自分が淹れた珈琲を前川は飲み比べる。味は全く別物だが、飲んだ後の爽やかさだけは全く一緒の物だった。
「ふふ、あははは!そうか、思い出しました。私もお父さんの淹れる珈琲が好きだったんです。美味しくないのに、何故だか好きな味。私の中にちゃんと残っていたんですね」
佐助は笑顔で頷く、前川の顔は決意に満ちた表情に変わっていた。
前川を見送った後、浪漫が珈琲をちろりと舐める。
「うぇぇ苦い!それに不味い!」
「おいおい浪漫さん、猫は珈琲飲んじゃ駄目なんだぞ」
「吾輩は妖怪猫又である、珈琲程度でどうにかなるか。それにしても苦い、よくこんな物を美味しいと言って飲めるものだ」
浪漫は口直しをするために水飲み皿の所へ急ぐ、佐助は店内を片づける為にレコードの音楽を止めた。
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