第9話  想響庵②

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「ティルス、ねえティルスってば私の話聞いてる?」


 俺は湖のほとりに座っていた。目の前には何か話しかけてくる長い髪の女の背が見える、その者が振り返って歩み寄って来た。


 親しげな仕草と共に俺の顔を覗き込んで来る顔は白光りしてぼやけている。顔の輪郭だけはわかる程度で目や口といったものは見えない。その女と俺の距離は唇と唇を重ねられるほどに近いものになっていた。


「いつかこういう所で一緒に暮らしたいね」


 女は俺に抱き着くと肩にもたれかかりながらそう囁いた。


「小さくてもいい、湖の傍らにある家でのんびり洗濯してお茶でもして今日の夕飯を何にしようかと考えながら過ごす。そこへ魚釣りに失敗したティルスが申し訳なさそうな顔で帰って来るの」


 そう言うと女の顔は俺の顔に覆い被さってきた。口の辺りが温かく心地よいのだがこの女が誰なのか一向に思い至る事はなかった。


「それが私のささやかな夢よ。じゃあ、何回も聞いているけどティルスの夢を改めて教えて?」


 静かに顔を上げて少し乱れた長い髪をかき上げながら女は俺の瞳を見つめてきた。問われて夢の事を考えたが何一つ思い浮かばなかった。


「俺に夢なんてないんだよ」


 俺の意思を無視して口が勝手にそう答えていた。


「あなた急にどうしたの!?」


 口を動かして否定しようと試みたが無駄だった。それどころか女に向けて心をえぐる様な言葉を次々と突き刺していた。心の中でその行いを止める様に念じたがやはり無駄だった。


 ぼやけた女の顔から何かがこぼれ落ちてきて俺の頬を濡らしていた。それが首の周りを伝わりうなじの辺りから滴になって落ちて行く。やがて女の顔から滝の様に涙が噴き出し俺は息苦しさに悶えていた。


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「ティルスさん! 大丈夫ですか!? しっかりして下さい」


 気が付くと目の前にリデルのあどけない顔があった。つい少し前まで見ていた光景と重なりどこか気恥ずかしくなった。その様子を見られまいと頭痛を装い手の平を当てて表情を隠した。それにしてもあれは何だったのだろうか……。


 頭の中を探ってみたがそれらしき物は見つからなかった。思い出した事と言えば俺の意識が飛ぶ直前に起きた現象だった。ハメルンがフルートを吹き始めた時から覚えた妙な感覚、リデルが魔奏ではないか?と感じた音を耳にし意識を失っていた事だ。


「リデルは大丈夫か?」


「はい、この通りです」


 見れば確かにリデルは何一つ変わらないけろっとした様子だ。再び弐式が映し出す様子に目をやると、そこには俺とリデルの後ろ姿があった。振り返ると実に退屈そうな表情でヴァレットがあくびをしながら背伸びをしていた。



 ルデット侯爵の屋敷に戻り食卓を囲んだ。3人がそれぞれ感じたものをまとめるとハメルンと呼ばれていた占い師が何らかの方法で少女達をさらったと考えて良さそうだった。


「私にはただの演奏にしか聞こえなかったけどあれが怪しいってわけね?」


 ヴァレットは手でつかんだパンを放り上げると落ちて来るところを口で受け止めてほうばった。爺や、侍従長ロレッソの咳ばらいを気に留める様子もない。


「うん。魔奏とはちょっと違うのだけど何か魔力が込められていたのは間違いないよ」


「でも、まさか演奏で何かを仕掛けてくるとは考えていなかったな~~。弐式の聴覚だけ切ればよかったか」


「私達は何ともなかったけど、一番危ない目に遭いそうだったのはティルスさんです。もう大丈夫ですか?」


「ああ……」


 ハメルンのフルートを聴かされ意識が飛んだ時に見た光景がよぎったもののそこに現れた女の顔はやはりぼやけていた。


「あいつは少女しか狙ってないはずなのにね~~。それにしてもティルスの夢って何だろうね?」


「やっぱりキドラを手にするでしょうか?」


「……」


 厚切りの牛肉をパンとパンの間に挟んでかぶりつきながらのヴァレットとお茶をすすりながらのリデルが俺の方を見ながら何かを言っているのはわかったがすぐに耳から抜けていく様な感覚があった。


 ずっと、ぼやけた女の顔のぼやけた部分だけを吹き飛ばそうと意識を集中させ続けていたが叶わなかった。これを追っても仕方あるまいと踏ん切りをつけて2人に向き直った。


「とにかくあの怪しい演奏を3人とも耳にしてしまったのは確かだ。少女たちが消えたのは自宅の寝室だったの考えると夜に何が起きるかわからない、まだ油断はしない方がいいだろう」


 リデルとヴァレットには寝室を共にしてもらう事にした。



 結局何も起こらなかった。その様な日が数日間続き、怪し気な『想響庵』を訪ねた時の記憶も薄れ始めた頃の真夜中。


「ティルス殿、夜分に失礼致します。よろしいでしょうか?」


 それは爺や、ルデット侯爵家の侍従長ロレッソの声だった。彼に何か命じたのはヴァレットに違いない、妙な時刻の急用とあれば嫌な予感しかしなかった。


 すぐさま横になっていただけのベッドから跳ね起き扉を開ける事で返事に代えた。ロレッソに先導され2人の寝室ヘと駆けた。


 扉の前に立った時、部屋の奥から何やら微かな音が聞こえてきた。どこかで聞き覚えのあるもの、不快な気分にさせられた覚えのあるものだった。


「このメロディは……、あの時のフルートのと同じか!?」


「リデル! しっかりして!!」


 次いで部屋の奥からヴァレットの叫び声が聞こえた。『想響庵』という占い館にいたハメルンがリデルを掴んでどこかへ連れて行く、そんな光景が頭の中に浮かんだ瞬間。俺は押し破るに近い勢いで扉を開けていた。

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