燃焼
彼方セカイ
第1話
蝶が死んでいた。
殺したのは俺だった。飛びたつことができないほど弱って地面に横たわっていたところをトレッキングシューズで踏んだのだ。
しかしその失われた命を確認したのはほんのわずかな時間だった。俺は次の瞬間には日没までに野営場所につくことを考えはじめ、靴底に残るみずみずしい果実が弾けるような感触を気持ち悪いとすら思って、砂利や朽ちた落ち葉にそれを擦りつけるように歩いた。
あたりは針葉樹が生い茂っていた。木々の隙間から木漏れ日が縦断して眩しい。柔らかな光に触れると温かかった。杉の木が多く、風が吹くと秘湯の湯気のようなものが大量に飛んでいくのが見えた。
花粉症ではなくてよかったと心の底から思いながら、デタラメな斜面を登っていく。舗装された道路とは違い、地面は均一ではない。様々な地形が入り組んで複雑な傾斜を生んでいる。木の幹に蹴躓きそうになりながら登りは大胆に、下りは体重を後ろに床滑りに気をつけながら慎重に歩いて行く。以前来たときとは違う、見慣れない景色が流れていく。
山に来たのは二ヶ月ぶりのことだった。
以前は二月の後半で、ちょうどロシアがクリミア半島を起点にウクライナに進行したころだった。その時の山は雪がなくても凍てついていて、ほとんど光が当たらない場所は常緑樹をのぞいて生命の気配がまったく感じられなかった。
ところがまだ日陰は肌寒いものの、五月にもなると山はどこから湧いて出てきたのか夏にむかって命が静かに叫び始めていた。
新緑の黄色がかった柔らかな緑がそこら中に繁り、山野草の花がワラビやタケノコなどの山菜と一緒に咲いている。温かい場所では羽虫が飛び回り、何十年もかけて降り積もった落ち葉が朽ちてできたふかふかの地面をよく見ると同じ色になった蛙やシマヘビがみえる。様々な野鳥の鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。そのなかでも一際目立つウグイスの鳴き声は上品だ。
俺はそれらすべてを感じたくて大きく息を吸い込んだ。
彼らに向かって自分の存在を証明したいと思う。踏みしめる度に微妙に変わる足音とウィンドブレーカーの擦れる音は彼らに認識されているだろうか。俺はここにいる。大きな声で叫んでみようという気になるが、寸前のところで踏みとどまった。
土曜の朝は目覚めが悪い。疲れて昼ぐらいまで寝ているからだ。
今朝は六時きっかりに目が覚めた。平日は七時になっても起きられる気がしないのに、いったい何故だろうか。
何故山を登っているのかも分からなかった。貴重な週末の休日に、いったい何故一人で山登りなんかしなくてはいけないのか。
でもいざ行動してみると身体は自然に動いたし、後悔するほど山に魅力がないわけではなかった。
日常から逸脱した場所に一人でいたい。
数年前にSNSで知り合いの幸せそうな写真を見ているときにそう思ってから、俺はたまに山に登るようになった。
社会人になってから運動する習慣がなくなっていたので最初は少し歩いただけで息切れするほどだったし、平面ではない地形を上り下りすると、こんなところも使っていたのかというほど全身の筋肉が痛くなった。
しかし何度か繰り返しているうちに筋肉がついていき、体力もついてきた。おかげで椅子に座っている時間が長くなったし、身体の調子もよくなって夜はぐっすりと眠れるようになった。
どんな理由を並べても自然のうつくしさに勝るものはなかった。山は季節ごとにその姿を変え、普段まがい物ばかり見ている俺の目を保養し、飽きさせなかった。
山に出入りするもので自然にできた道を歩いていると赤い花が見えた。近づいてみるとツツジがクリスマスツリーのように真っ赤な花を携えていた。温かくなったのでいろいろな花が咲いていたが、そのツツジの花は一際目立っていた。匂いを嗅ぐと鼻の奥がくすぐったかった。
しばらく行くとはじめてのことが起こった。
俺は足を止めて振り返った。けたたましい叫び声が背後で聞こえたからだ。
何事かと思って二十メートルほど引き返す。つい先ほど自分が通った道に羽が散らばっていた。触ってみると温かい。辺りを見回したが誰もいなかった。
羽は山道から斜面の上に向かって飛散していた。おそらくキジが狐かなにかに襲われたのだろう。口紅を一筆沿わしたくらいの少量の血痕が、木漏れ日を反射する紺と緑の羽にべったりと擦れている。
自分が通り過ぎてすぐを背後にいるなんてどちらもいったいどこに潜んでいたのだろうか。そこは草が多い茂っているわけではなく視界が開けていたので隠れる場所なんてなかったはずだ。狐が斜面を駆け上がっていく想像をしながら、俺は頭のなかで何度も繰り返される顔も知らない鳥の断末魔を反芻していた。
自分はこれまでの人生であんなに必死に叫んだことがあるだろうか? 想像すると鳥が可哀想に思えてきた。しかし自分が何も思わずに踏み潰した蝶も必死に生きていたことに気づいてそれ以上考えるのをやめた。
命のやりとりがあったというのにその生々しさを感じさせないほど山は静かで変わらなかった。
和で平穏にみえる自然のなかだが、それはせめて自然のなかだけはそうであってほしいという、人間たちの願望なのだと思った。
彼らも必死で生きているが、俺も必死で生きていた。不平等な労働時間と名ばかりの役職の上司によって心身ともに疲弊しているなか、貴重な休日の時間にこうして必死に山を登っている。ご飯を口に運ぶだけでも面倒なこともあったのに大したものだ。
3キロほど歩いたので休息することにした。ちょうどいい倒木があったのでそこに座る。リュックサックを下ろすと、思い出したように全身から汗が噴き出してきた。
水筒を取り出して出た分の水分を補給する。氷がたくさん入った冷たい水が喉を下るのが気持ちいい。
肩に食い込んでいた緊張がとけて血流がよくなったからか、肩が軽くなった気がする。今回もテントなどのキャンプ用品に加えて、フライパンと水を3リットル持ってきたのでなかなかの重さだ。ベーコンとパスタも持ってきた。自然のなかで食べる料理はおいしいので楽しみだ。
アウトドアは虫がいないので冬のほうが好きだ。O型はよく蚊にさされる。別の血液型の人と夏祭りや花火を見に行くと自分だけ十カ所以上刺されたことがある。しかしネットでビタミンCを多く摂取していると蚊には刺され辛いという情報を知ってからあまり刺されなくなった。今回も例の如くビタミンのサプリを飲みまくっているのであの目障りな羽音が耳元で聞こえることも、身体が痒いこともない。刺してくるのは雌だけで、羽音は雄しかしないというのは本当だろうか。
そんなことを考えながら目的地に向かって再び歩き出した。
目的地と言っても大層な山ではない。重装備で高山病に怯える必要もないし、ここは知り合いが持っている固定資産税だけかかってしょうがない金にならない山だ。特に険しいわけでもないし道中も鍛えていればいい感じに息が切れる程度だ。
しばらく進むと沢に当たった。
透明の水が自分の身長ほどの幅を流れている。空気が重くなり、水から離れた場所の草木でも湿り気を帯びて表面で光沢を放っている。
なんとなく水に手を突っ込んでみる。予想より遙かに冷たい水に辟易する。
勢いよく流れていく水が指の隙間を通り抜けていく。それらはまるで俺のきまぐれをあざ笑うかのように弄ぶ。
手は水に浸かっていたところが綺麗に赤くなっていた。
沢を渡って道なりにいくと山の端に出た。切り立った崖のような道が山の側面を沿うようにして続いている。足下に気をつけながら山側を歩く。
定期的な崖崩れで山側の岩肌がえぐれている。地層の階調がキャラメルのアイスクリームのようだ。
首を伸ばして崖下を見下ろすと寒気がした。人が上ることができない急斜面が続いている。木々の陰になって底がみえない。まるで人の介入を拒まれているように感じて心が震える。
しばらく進むと木々が突然なくなっている場所があった。日を遮るものがないためそこだけ乾いている。風が汗に濡れた身体を撫でていく。
そこからは自分が住んでいる街が見渡せた。微かに車のようなものが細い線を沿っているような気がする。自然と自分の住んでいる場所を追っていまう。こうして目で見るとずいぶんと遠くに来てしまったと実感する。
空はよく晴れていた。くっきりとした青を背に入道雲がものすごい早さで動いている。なんとなくスマホで写真を撮ってからまた歩き出した。
写真を撮ろうと思って携帯を取り出す。画面上に尻込みするほど通知が溜まっている。呼んでもいないのに仕事や友人や彼女や企業から一方的に送られてきた言葉がUIの通知部分に重なっている。
近くに電波塔が建っているのか電波が来ていた。驚いたことにこんなに町から離れているのに4G回線を電波は四本たち微動だにもしない。人を避けてももし緊急事態が起こったら誰かに助けを求めることができるというわけだ。こちらから一方的に。
俺は一括で通知を削除して再び人の手の及ばない自然の奥深くを目指して進んでいった。撮影した景色は自分が視ている景色とはまったく異なっていた。
近くに乾いた枯れ木があった。拾い上げて持ってみるとしっかりと中身が詰まっていて堅い。周囲に栗の木が数本生えているのでおそらくその枯れ枝も栗の木だった。
目的地は丘のようになった開けた場所だった。この辺りは木々がなく茅が繁っているだけだ。
俺は当たりをつけて両手に持っていた枝をぶちまけた。リュックサックを置き、折りたたみ椅子を取り出す。少しだけ座ってから立ち上がった。
石や枯れ木や草などをどけてからなるべく平面な場所を作る。そこにリュックサックから取り出した骨組みを組み立ててローブを被せる。近くにあった堅そうな石を使って杭を四隅に打ち付けて固定する。中に断熱シートを敷けば簡易テント設営完了だ。
俺は荷物をなかに置いて木々の覆い繁る方に歩いて行った。
ガスコンロを持ってきていたが夜は寒そうなので暖をとるために薪がほしかった。道中拾った栗の枯れ枝では足りないためもう少し必要だった。
残念ながら乾いた枯れ木は見つからなかった。きっと数日前に雨が降ったのだ。
少しくらい濡れていてもいいからできれば栗かクヌギの木がほしかった。栗やクヌギの材質は堅く密で、燃焼時間が長く、火力も強すぎず煙も少ないためキャンプ用品では同じような材質の木が使われている。その代わり少しでも濡れていたらよほどの火力がない限りまず火はつかないのだが、すでにゲットした木を燃やしている間に乾かそうと思っていた。
しかし辺りはうんざりするほど杉の木で埋め尽くされていた。戦後の植林計画で大量に杉を植えまくった結果多くの日本人が花粉に苦しまされているのだから笑えてくる。それに杉の木は成長が早いだけで材木としての価値が低い。
どうしてもたき火がしたかった。
子供の頃から火が好きだった。火を見ていると何故か心が躍ったし、安心した。
たき火をしても誰にも文句を言われないのでキャンプに来たら必ず火を熾していた。山を焼いてしまわない限り誰にも迷惑をかけるわけではないし、法律的に問題があってもバレなければ問題ない。
もしかしたら俺は何かに反抗しているのかもしれない。
クヌギの枯れ木を見つけたときは十五時を過ぎた頃だった。大量に汗をかいて暑かったので幸運にも親のクヌギは日当たりのいい場所にあったため枯れ木はそこまで濡れていなかった。
手の甲に痛みが走った。見るとヤブ蚊が飛び立って行くところだった。次第に痛みは痒みに変わっていく箇所をかきむしりながら俺は焦れていた。
テントの場所まで帰ろうとしたところで辺りが黄色く光った。数秒後に空襲でもあったのかと思うほど地面が揺れるような大きな音がなった。
大粒の雫が木々の葉を打ち始めた。その間隔は瞬く間に早くなっていき激しさを増していった。圧倒的な自然の力を目の当たりにして萎縮する身体を奮い立たせて踵を返した。
一秒でも行動をしなければ自然は刻一刻と移り変わっていく。濡れた枯れ葉で滑ってしまわないように気をつけて体重移動する。濡れた前髪が鬱陶しくて腕を額にこすりつけるように掻き上げる。脳裏では、山の天気は変わりやすいという言葉が巡っていた。
テントの前に枯れ木をぶちまけて他の枯れ木も一緒に一カ所に集める。リュックサックから予備のタープを取り出して覆う。
身体が燃え上がるように熱かった。汗でウィンドブレーカーのなかが蒸れて気持ち悪い。上着を脱いでテントのなかに放り込み長袖一枚になる。しかしそれでも不快感が拭えず結局長袖も脱いで裸になった。
鈍色の雲に覆われた空を仰いだ。
眼球に雨粒が当たって痛かったので目を閉じると、周囲の現象が身体の一部かのように感じられた。
山を強く打ち付けている大粒の雨がそららと等しく直接自らの肌を打ち、伝い、垂れていく。それは冷たい天然のシャワーで、身体の熱を奪いながら汗とともにそれまでに溜まっていたやり場のない苛立ちを洗い流した。
雨は通り雨だった。さっきまでの光景が嘘だったかのように快晴に戻った空は少し焼けていた。
お腹がすいていた。俺は濡れた椅子に座ってカロリーメイトを食べた。
本当は火を熾して料理をしたかった。しかし確実に火がつく保証はないし、そもそもお腹が空きすぎて悠長にパスタができるのを待っていられなかった。風情がないと思ったが、四角い棒はここ数週間で食べたもののなかで一番うまかった。
落雷の振動がまだ身体に残っていた。骨に染みるその音は踵で反響するように響いていたし、一瞬で視界を蛍光色のような黄色にした閃光が、カメラのフラッシュを焚くようにして眼球の裏側に映る。身体は生きるために自然の力を記憶していた。
あのとき自分は死を身近なものに感じた。落雷が自分に直撃したら――落雷で倒れた木の下敷きになったら――濡れて悪くなった足場を滑らせ転倒して岩に頭部をぶつけたら―― 短い時間で普段の何十倍も思考が走った。結果自分は落雷で死ぬことはなかったけれど、そうなってもまったくおかしくなかった。少なくとも0ではない、人に測ることのできない可能性はそこらじゅうに転がっている石ころにように点在していた。
知識や叡智の蓄積によって今の人々は知っているけれど、あれを神と言われたら信じる人がいてもなんらおかしくないと思った。むしろ疑いもしないのではないだろうか。もし何かわからないとてつもない力や不安に直面したときに人はありのままでいることはできないのかもしれない。
身体が冷えていた。雨が止んでから新しい長袖に着替えてウィンドブレーカーのファスナーをめいいっぱい締めていたがそれでも寒かった。
俺はタープを剥いで、その中で一番濡れている木を選んで十字に土を掘った。地面よりも少し深さが出たところでなるべく乾いている枯れ木を厳選し、踵を使って折ったり割いたりして大きいものと小さいものに分けたものを縦に立体的になるように組んだ。枯れ木を踵に打ち付ける衝撃が落雷の衝撃を上書きしているみたいだった。
リュックから新聞紙を取り出してぐしゃぐしゃにする。テニスボールくらいの丸まった新聞紙をいくつか作り組み木の下に添える。ライターで火をつけるとインクの油に反応して勇ましく燃え上がった。しかしその火が枯れ木に着火する前に新聞紙の燃焼は終わってしまう。
声にならない息を吐いた。着火するには枯れ木が濡れすぎている。雨に濡れさえしなければ今頃火に当たっていただろう。
テントのなかに入って寝ようと思った。いつの間にか辺りは暗く、足下もろくに見えなくなっていた。寝袋のなかに入って蓑虫のようになって手だけを出す。携帯ライトを取り出し本を読もうと思ったが点かない。充電できてないのかと思い携帯充電器をリュックのなかから取りだそうするが、見つからない。思い腰をあげてリュックのなかをひっくり返して分かったのが、おそらく家のコンセントに繋がったまま忘れているということだった。
声にならない息が出る。
テントのなかは真っ暗で、その外がどうなっているかも見当がつかない。あまりの暗闇に方角どころか平衡感覚も失ってしまいそうになる。目を閉じると落雷が落ちる瞬間の光景が瞼の裏に映し出されるが、開けるとみえるのは漆黒の黒だけだ。俺は手の甲に加えて首元をかきむしった。
目はみえないがその代わり耳は敏感になっていた。瞼のように耳も閉じてしまいたかったが、嫌でも周囲の音が頭のなかに入ってくる。
誰かに会いたい。不意にそう思った。
手を伸ばしてリュックのそばに置いた携帯を取る。彼女は今なにをしているだろうか。お風呂に入ってテレビでも見ているだろうか? 指紋認証して画面を見ると、またしても溜まっている通知の上部に電源に視線がいった。相変わらず電波は4本立っているのに、電源は24%だった。
一応携帯を非常用モードにして寝袋のなかに両腕をおさめた。通知を消してそれ以上携帯を触る気になれなかった。彼女に連絡しようと思ったが、一人になりたくて山に来たのに都合よく連絡するのはなんだか違うような気がした。
まったくあほらしい週末だった。ただ山に登ってたき火をするだけなのに、そんな簡単なことすら上手くいかない。
不本意だが今回はおとなしく寝ようと思った。朝起きて明るくなったらすぐに山から降りよう。しかしこういうときに限ってなかなか寝付けなかった。
スマホを取り出して時間を確認すると〇時を過ぎたところだった。光が目に染みて眩しい。暗闇に目が慣れているので非常用モードの弱い光でも眩しい。日曜日と表示されているのを見て、妙に身体が強ばる。月曜日が嫌なものだと身体が認識しているのも人体が生きるために獲得した慣れだろうか。
バッテリーが20%になり赤くなっていたので電源を落とした。同じ機種を五年も使っていたのでバッテリーが弱っている。帰ったらさすがに買い換えようと思った。
これから朝までの予定を想像してみる。このまま目を閉じ、なんとか再び眠りについて朝起き、不完全燃焼で山を降りるところを想像する。そんなことを許容していいのだろうか。
俺は決心して起き上がった。勢いよくテントのファスナーを開けて外に飛び出る。どうせ寝られないのなら何かをしていたいと思った。
外は漆黒の闇に包まれていた。一寸先は闇で、一歩踏みだすのすら憚られた。
夜の帳が降りた静けさのなかに、生命が躍動する音が聞こえる。虫がさざめき、蛙が喉を鳴らす。木々が風で揺れて枝葉が擦れる。どこかでミミズクが鳴いたので辺りを見回したが方向が分からなかった。
何もみえない。
目のやり場がなくて空を見上げると、大げさなほど星が広がっていた。その煌めきがこちらに届くまでにどれくらい途方のない時間がかかっているか考えると宇宙の広大さを意識する。一番強く光っている星を見つけた。その星はやたらエネルギーをだして煌めいていたが、その命の燃焼がおわり、もうなくなってしまっているかもしれないと考えるとロマンチックな気持ちになる。
それでも今この瞬間、どこかで争いが起こり、いくつもの星のように燃焼を終え、命の灯火が消えていっているなんて思えなかった。俺はそれを情報として知っているだけで、その知識の量はバターの上澄みをなぞるよりも浅い。本当にそれを実感できるのはそこに近い存在だけだろう。
外はテント内よりもいくらか明るかった。
星明かりに照らされた暗闇に目が慣れてくると落ち葉を踏みしだく足の先くらいは見えるようになった。神経を研ぎ澄ませ、近くの杉の木の元まで歩きながらテントの方向を意識する。
ここは宇宙だ。自分は一人で、助けてくれる人はいない。不意に足を踏み出した先が崖かもしれないし、底なしの井戸かもしれない。あらゆる可能性が点在している。もしテントの方向が分からなくなれば、宇宙に投げ出されたようにもうその場所には戻ってこられないかもしれない。
そう思うと身体の奥が急に熱くなった。
手探りで垂れ下がっていた杉の枝を細いところからむしり取った。自分の身をもぎ取られて怒ったように杉の木が撓る。遠くで鹿の鳴き声が聞こえた瞬間、途端に不気味な気持ちになった。
何者かに一方的に自分の存在を知られたようで心地が悪い。この地方には熊は分布していないが、暗闇が想像力を膨らませて不安になる。
テントの前で杉の枝を振り回して水分を飛ばしてから、土に埋もれて斜めに沈んだような気がする折りたたみ椅子に座った。火を熾すためにくみ上げた枯れ木の下に杉を添える。
新聞紙に火をつけると暗闇で炎が揺らいだ。その燃焼が終わる前に杉の枝に着火した。パチパチと音を立てて火力が増していく。
杉の木は豊富に油分を含んでいるため生木であっても燃えやすい。その代わり燃焼が早く、大げさに煙を出すのであまり普段使いには向いていないのだが、今いくら煙が出たところでそれに気づく人はいない。昼間なら騒ぎになる可能性すらあるが、むしろ今は誰かに気がついてほしいとすら思った。
やけに自分の元に流れてくる煙にむせながら、俺は組み木に火が移るのを待った。
十字に掘った穴から空気が上に流れ、何もしなくても組み木が燃えだした。手をかざすと温い。ジメジメとした感触の衣服や濡れた靴と、少し湿っていた髪が乾いていく。しかし距離を見誤ると手先に痛みが走る。使い方を誤ればそれは自身をも燃やしてしまうんだ。
偉大な自然のエネルギーに敬服を抱きながら、俺はその炎を完璧にコントロールし、安定するまで面倒を見た。
火を見ていると何故だが安心する。それは単に不安のなか苦労してようやく火を熾したからではない。
おそらく自分の祖先たちも夜は火の前で星空を見上げていたからだと思う。そのときの幸福感が遺伝子の記憶に刻まれている。
杉とは違って栗とクヌギは静かに燃焼し、円上に周囲を夕日のように照らした。
俺は小説を読んだ。たき火の光量では読みにくかったが、何故だがいつもより読み進めるのが早かった。それに小説の主人公も夜は火を使っていたので普段とは違う感覚だった。冒頭のゆでキャベツと古くさいマットの匂いのせいかもしれなかった。
小説では徹底して管理された社会で主人公が思考警察の尾行に怯えながらも禁止されている日記という記録をやめられないでいた。生きているものが絶対に抑えることのできない好奇心という自然な意思が、体制へ湧き上がる怒りとなって止めどなくあふれ出てくる。それは誰にも止められないものだと思う。いま俺がこうしているように。
空は綺麗だった。この当たり前をいつも俺は忘れてしまう。そういうものを思い出すために俺は山に来たのだと思う。
お腹が空いていた。
俺は思い出したようにそれを満たすためにテントに戻った。生きよう。当たり前のことだけれど、そう思った。まだ俺は燃焼しきっていないはずだ。
燃焼 彼方セカイ @anatasekai
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