第39話 「頼む、飲んでくれ」(エリアス視点)

「マリアンヌっ!」


 胸元を抑えていた手が緩み、俺は必死に呼びかけた。が、もう返事は返ってこない。


 それでも時折、咳き込む姿を見て、マリアンヌが生きていることに安堵する。


 苦しく歪んだ表情。段々青くなる顔色。血に染まる服。どの場所を見ても、胸が苦しくなる思いだった。


 いや、苦しいのはマリアンヌだ。


 俺は懐からビンを取り出して、マリアンヌの口元に寄せる。明朝みょうちょう、ケヴィンから受け取った解毒剤だ。


 オレリアが狙うとしたら、マリアンヌの純潔じゃない。

 命だと思った俺は、解毒剤を手配するよう、昨夜ケヴィンに頼んだのだ。純潔を狙ったとしても、オレリアに、いやアドリアンに何の得がある。それなら、マリアンヌの命の方が分かり易い。


 そう俺は判断したのだが、まさか的中するとは思わなかった。しかも、そんな予想もせずに使用するバカがいたことも。


「頼む、飲んでくれ」


 赤く染まった口は、息をするだけで精一杯の様子だった。なら、仕方がない。俺は解毒剤を口に入れて、マリアンヌの唇に押し当てた。


「……んっ……」


 吐かないように、ちゃんと飲んだことを確認してから口を離す。しかし、マリアンヌの顔色に変化はなかった。


 それもそうだ。何の毒を飲んだかも分からないのに、解毒剤を飲ませたんだから。病気でもそうだが、適した薬というものがある。


 これじゃダメなのか。そう思っていると、歪んだ表情が、少しずつ穏やかになり、呼吸もやわらいでいった。


 良かった。強く抱き締めたい衝動に駆られたが、今はそれどころじゃない。さっき、ユーグに旦那様を呼びに行かせたから、そろそろ来る頃だ。


 俺はマリアンヌを抱き上げると、呆然としているリュカの姿が目に入った。


「っ!」

「うわぁ!」


 両手が塞がっているからといっても、できることはある。俺は勢いよくリュカの腹をめがけて蹴った。それでも気が収まらない。


「バカだとは思っていたが、ここまでバカだったとはな。……これで済むと思うなよ」


 立ち上がることも、反論もしないリュカを尻目に、俺は部屋を出た。


「エリアス、マリアンヌは!?」


 そこへちょうど旦那様が現れた。すぐ傍にはユーグがいる。顔が似ているせいか、実の親子のように見えた。


「持っていた解毒剤を飲ませたんですが、合っていなかったみたいで、まだ予断が許さない状態です」

「そうか。すぐに医者を呼ぶから、エリアスはマリアンヌを部屋に連れて行きなさい」

「ありがとうございます」


 頭を下げる代わりに、行動で感謝を示した。今はマリアンヌが最優先事項だ。後方で、旦那様がユーグに何か指示している声が聞こえた。


「ユーグはリュカを逃がさないように見張ること。できるね?」

「はい。できます」



 ***



 ベッドの中にいるマリアンヌの手を握りながら、今朝から繰り広げられていた、一連の出来事を思い浮かべた。


 マリアンヌを旦那様の執務室に送り届けた後、見送りの準備を手伝いに行った。一昨日、執事のポールから、オレリアの見送りに出るよう強く言われたのだ。


 オレリアが強く希望したから、という理由だったが、それすらも吐き気がする。ユーグからの手紙で事情を知ってから、当たり障りのない程度、拒否していたんだが、尚も諦めてくれないとは。


「朝、待っていたんだけど、結局来てくれなかったのね。折角、素敵なプレゼントを用意していたのに、残念だわ。だから代わりに、別のプレゼントを用意したの。是非受け取ってね」


 馬車に乗るオレリアをエスコートした際、耳元で囁かれた。背筋がゾッとした。


“別の”プレゼント? まさか! いや、旦那様がいるから、大丈夫だ。


 それでも不安はぬぐい切れず、俺は見送りが済むと、急いで旦那様の執務室へと向かう。すると、部屋の前にはなぜかポールが立っていた。


 いや、旦那様の執事なのだからおかしくはない。


「お嬢様なら部屋に戻った、と旦那様が仰られていた」

「っ! そうですか。ありがとうございます」


 本当は旦那様と話したいことがあったのだが、ポールは扉の前から退く気はないらしい。その時の俺は、マリアンヌの安否を重視していたため、すぐにその場を離れた。


「エリアス、ちょっと」


 マリアンヌの部屋を目指して廊下を歩いていると、ユーグに話しかけられた。周りに人がいないことを確認した後、ユーグは俺に駆け寄る。

 心配そうな顔で、しかも焦っているように見える姿に、俺は嫌な予感がした。


「マリアンヌは部屋にいないよ。向こうの方に歩いて行くのを見かけたんだ」


 ユーグが指した方は、使用人の寮がある場所。そういえば、オレリアの傍にリュカの姿がなかった。見送りにも。


「ありがとう。教えてくれて。実はオレリアが意味ありげなことを言っていたんだ」

「姉様が……それじゃ、急いだ方がいいかもね。僕も行くよ」


 俺たちは頷き合って、足早に屋敷の中を移動した。その間、オレリアの言葉をユーグに伝えた。驚いた様子がないのは、さすがとしか言いようがない。


「姉様がそう言ったんだったら、エリアスはマリアンヌのことだけを考えて行動した方がいいよ。サポートは僕がするから」

「頼む。……恐らく、旦那様を呼びに行くことになると思う」

「……うん。心得とくよ」


 ユーグと話すのは、実はこれが二回目だった。初めて会った後はずっと、手紙でしかやり取りをしていない。それでも互いの立場は貴族令息と使用人だ。


 マリアンヌもそうだが、あまり気にしないのは、カルヴェ伯爵家の特徴なのだろうか。いや、旦那様やアドリアンを見ていると違うような気がした。


「やっぱり、リュカのところかな」


 敢えて口には出さなかったが、俺も予想していた。ニナさんの部屋は別の建物だから。


 リュカの部屋のある廊下に出た途端、物音が聞こえた。


 響き渡る、二つの音。


 何かが割れる音と物が落ちたような音が同時に聞こえた。俺はもう何も考えられず、リュカの部屋の前へ行き、扉を思いっきり蹴り飛ばした。



 ***



 マリアンヌはその後、医者の診察を受け、毒を飲んだことが分かった。勿論、マリアンヌが自主的に飲んだわけじゃない。盛られたのだ、リュカに。


「即死するような強い毒ではなく、苦痛を与えた後、死に至らしめる毒のようですね。完全に解毒できるわけではありませんが、一般に使用される解毒剤で応急措置ができたのは幸いでした。一歩でも遅れれば、危なかったでしょう」


 その後、医者が処方した解毒剤をマリアンヌに飲ませた。勿論、俺じゃなくて医者が道具を使って。


 お陰でマリアンヌは今、穏やかに眠っている。心配になるほど。


 時々、脈をとったり、口元に耳を寄せたりと、生きていることを確かめる。その度に安堵しては、また同じことをしてしまう。


 ようやく想いを聞けて、これからっていう時だった。


 なかなか言ってくれない理由に、もうヤキモキする心配はない。


 マリアンヌは年下なのに、甘えられると弱いところがあった。だから度々、リュカの要求を飲んでしまう。


 多分、今回も……それで……。


 俺はリュカほど甘えるのが得意じゃないから、いつか取られるんじゃないかと焦っていた。甘えた末に、マリアンヌから好きという言葉を引き出してしまうんじゃないかって。


 怖かった。いや、今だって怖い。だから、俺の傍にいてくれ。


 頼むから。早く目を覚ましてくれ、マリアンヌ……!

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