キミの体が覚えてる ~十八回目の蝉の声~

語辺 カタリ

第一話 夏と初恋と蝉

 7月1日の月曜日


 青年の通う高校の周りの木々には蝉の声が一つ二つと鳴り響き、夏に入ったことを彷彿とさせてくる。こんなにも暑くても蝉はひたすらに鳴き続ける。それは何かの信念なのか、それとも本能なのか、学生たちはそんなことも気にもせずに山の上の高校へ登ってくる。


 その光景を一足先に登校していた青年、渡来わたらい ケイはボーと眺めていた。それは彼にとっては日課のようなもので、何か特別な感情が湧いてくるわけでもない。今、ケイの居る教室では4、5人の女子生徒による談笑が蝉の鳴き声に負けないくらいの声で行われていた。聞き耳を立てていたわけではないが、自然とガールズトークが耳に入ってくることがケイに居心地の悪さを感じさせた。


 現在時刻8時12分。ホームルームが始まるのは8時40分の為、ケイは暇をつぶすために廊下へ出た。今思えば、こんなにも暑い日にクーラーで冷えた教室からなぜ出たのかはケイ自身よく分かっていない。ケイは廊下を徘徊していく中で友達が所属する他のクラスへと顔を出していくが、見知った顔の人間の1人すらも現れない。高校1年生の頃は喋り相手の生徒が1、2人この時間に登校していたものの、2年生に上がってからはボチボチとその回数も減ってきていた。個々に生活の変化があったのだろうが、少し切ない気持ちになる。


 フラフラと廊下を歩いていると、端の階段までたどり着いてしまった。いつも通りの日常だというのに、その時は何だか一段と悲しい気持ちに浸った。こんな気持ちのままで、先程の教室に戻るのは今のケイにとって耐え難かった。


 そんなケイの足は自然と階段を上がっていた。突きつけられた現実から目を背ける為、上へ上へと登って行く。


 だが、いくら登ったところで、2年生が学校生活を送るフロアから3年が生活するフロアに逃げただけで、部活動に所属しないケイには知り合いの一人もいない。状況は変わらないどころか悪化していた。


 教室を転々としても、もちろん顔も名前も知らない人間ばかり。


 でも一人だけ、ケイの目を引く女性がそこには居た。その女性はロングの黒髪を風になびかせながら、手に持った本を1ページ、1ページとめくってゆく。綺麗な顔立ちと座って居ても分かるスタイルの良さ。


 彼女を見ていると、先程までの悲しい気持ちが夏の暑さに溶けていく。周りの蝉の声すらも、その瞬間には聞こえなくなるほどに没入していた。


 ボーと廊下から覗くケイの視線に気づいたのか、彼女はゆっくりと近寄って来る。


「キミ、どうかしたのかい?」


 一瞬自分に対する声掛けとも気づかず周りをぐるりと見渡した。当然、誰かが居るはずもない。前を見ると自分よりも背の高い彼女が笑っていた。


「キミのことだよー …どうしたの?誰かに用事?」


 ケイは目線を彼女から逸らしながら、悪い事をしたわけでもないのに言い訳を考え始めていた。


「あれ?緊張してるのかな。キミ名前はなんていうの?」


 夏の太陽よりも眩しい視線がケイを貫いた。


 その時の優しい彼女の質問を普通に返せばいいだけだったのに、ケイは夏の暑さと今までに感じたことのない感情に何処かおかしくなった。


「一目惚れしました!!!付き合ってくださ………いって何言ってるんだオレは!?」


 これまでに経験したことのないくらいケイの顔は赤々と火照っていた。だが、告白をされた当の本人は茫然としている。それもそのはずで、名前の知らない見ず知らず男から告白をされたのだから当然である。


「えっと……まず、君の名前を私に教えてもらっていいかな」


「ワ…ワタライ ケ…ケ…ケイって言います!」


 緊張で呂律も回らずカタコトになったこともケイにとっては今どうでも良かった。大切なのは答え。彼女の返す答え。


「じゃあ渡来くん。キミは放課後暇?」


「暇です!!」


「良かった。じゃあ、放課後に校門前で待ってて」


「わかりましたー!!」


 返事をするや否や羞恥心が限界を迎え、その後の彼女の言葉を聞かずにケイは自分の所属する教室に向かって走ってしまった。少し前までは居心地の悪かった場所も、今ではどんな場所でもケイにとってはみやこであった。


 それからの授業の内容なんてどうでもよかった。ただ名も知れぬ彼女の答えを待ちわびていた。


 その時も蝉の声はうるさい。

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