第三章 松井柊子

第一話 木馬の修理

 柊子の元に家具修理の依頼メールが届いた。依頼人は女性だった。記載のあった携帯の番号に連絡を入れた。

『はい』

「この度はお問い合わせありがとうございます。三柴木工店、担当の松井と申します。こちら、勝原梓様の携帯でよろしかったでしょうか」

 少しの間のあと、相手の女性が再度はいと答えた。

「遊具の修理をされたいとのことで。木馬についてお問い合わせでしたね」

『そうなんです。うちで使っていたもので、こどもはもう大きくなって遊ばなくなったんです。いいものなので、思い出もあるし、捨てるのは忍びなくて、保管していたんです。最近、従兄弟に男の子が産まれて、ちょっと綺麗にして贈ることができたらいいなと思ったんです。特に故障とかはないとは思うんですけど、その点検も兼ねて、綺麗にしてもらえるならって』

 打ち合わせのあと、勝原の家の近くにある喫茶店で待ち合わせることになった。写真を撮って持参しますと彼女は言った。

 電話を終え柊子は卓朗に、依頼がきたので外出をする話をした。偶然にも、卓朗もその日の昼は出掛け、出先で昼も食べてくると言った。

「それより、いきなり相手に会うんだな。大丈夫なのか?」

「うん。貴久さんか久司さんのどちらかが必ず一緒に行ってくれるのよ」

「え、でも、俺のときは」

 柊子は笑った。

「だって、卓朗さんは初対面じゃなかったし、それに卓朗さんだったから」

 卓朗は口を結んで、黙った。この表情は、照れを見せないようにしているのかしらと柊子はなんとなく思った。自信はない。


 先週卓朗は柊子がいないとき、無理が重なったのか熱を出した。彼は病気になっても柊子に戻れと言わなかった。押しかけたように戻って、世話をできるだけしたつもりだったが、彼は迷惑そうなそぶりを見せた。

 自分がしてもらって嬉しかったことを返したい。自分の好意を受け取ってほしい、そう思うようになったのも、贅沢である気がしてきた。会った当時は、話ができただけで光栄だった。

 今は、あのときよりさらに深く彼を愛しているのに、なのに、それを見せることが難しい。

 身の置き所がない。

 最近は特に帰りたいと思うようになっていた。この帰りたいという感情は、中学を卒業し実家を出てから常に抱いていた。それが決して今の実家でなかったと気付いたのはいつだったか。

 なのにそれでもずっと帰りたいと思っていた。結婚して、新生活が新鮮で、その思いをしばらくは感じなくなっていたのに。


 柊子が依頼で出掛ける日、つまり卓朗も約束がある日、彼は朝から緊張しているようだった。柊子の存在に気を使うことができない空気は、彼や叔母が仕事に集中したいときのそれに似ていた。

 柊子は卓朗より先に家を出た。途中で貴久と合流し、依頼主の勝原の指定した喫茶店に入った。彼女は先に待っていた。

 梓の言う目印の、ブランドの鞄が目に付くところに置いてあった。柊子がそこに足を進める前に、梓が立ち上がって柊子と貴久に会釈した。何故、名乗る前に分かったのかと違和感があった。

「初めまして。勝原です」

「初めまして。三柴木工店の三柴です。こちらが修理を担当する松井です」

 貴久がそのように仕切ってくれたが、彼も戸惑っているようだった。

「よろしくお願いします」

 三人は腰掛けた。梓は携帯電話の操作をし、柊子たちに木馬の写真を見せてくれた。

「かわいい」

「本当だ。たてがみのところとか、素晴らしい細工ですね」

 柊子と貴久の感想に、梓が顔を綻ばせた。

「弟が、一番最初のこどもに贈ってくれたものなんです。一人目も、二人目の子もよく乗って遊びました」

「みたいですね。取っ手の部分とか、相当使い込んでますね」

「その辺りとか、綺麗にしてもらえればって思ってます」

「実際に、現物を確認しないとはっきりとしたこともお伝えできないんですけど、修理費はだいたいこの辺りになると思います」

 柊子は用意していた価格表を示した。梓はうなずき、夫と相談しますと言い、用紙を鞄にしまった。それから梓は姿勢を正し柊子に向かい合い、頭を深く下げた。

「謝らなければならないことがあります」

 謝罪の意味が分からず、柊子と貴久は黙って依頼主の次の言葉を待った。

「木馬の修理のことも本当です。従兄弟のこどもに贈りたいので、修理してもらえればと思っていますが、できないようでしたらこの後で断って下さい」

「どういうことですか?」

 何も言えない柊子より先に貴久が口を開いた。警戒した口調を隠していない。

「私の旧姓は松井です。松井梓でした。私の弟というのは、松井卓朗です」

 柊子も貴久も目を見開き、テーブルを介して対面に座っている女性を見た。

「柊子さんにお伝えしたいことがあります。弟を仲介しても会わせてもらえないと思いまして、騙すようなことをしました。申し訳ないです。ですが、私の話を聞いてもらいたいんです」

 梓は貴久に顔を向けた。

「失礼を承知でのお伺いなのですが、席を外して頂くことは可能でしょうか」

「え、で、でも」

「身内の話になります。できれば聞いてほしくないのです」

 貴久は逡巡していた。

「三柴さん、大丈夫だから。何かあったら連絡します。先に帰ってもらってても大丈夫です」

「分かった。ではこれで私は失礼します」

 貴久の背を見送り、それから二人は向かい合った。

「卓朗から、私の話は聞きました?」

 単刀直入に問われ、柊子は戸惑いながらもうなずいた。

「お姉様をはじめ、ご両親は二人とも健在だけれど、仲違いをしていて連絡を取っていないとは、卓朗さんから聞いています」

「仲違い」

 梓は苦笑した。

「あ、の、仲違いは、私がそうかなと思って言っただけで」

「でしょうね」

 でもそれは、今はいいんですと梓は表情を消した。

「柊子さん、あなた……」

 言いかけ、梓も大きく迷っているように言い淀んだ。

「あなたの、昔の噂のことなんですけど」


 うわさ


 梓の言葉を聞いたとき、柊子の息が詰まった。目の前が暗くなり、全身にしびれが走っていく。

 名を呼ばれた気がしたが、耳まで響く心臓の音に邪魔をされ、それから音さえ聞こえなくなった。



◇◇◇



 卓朗は、昔に家族で数回来たことのある寿司屋の、少し奥まった半個室にて母親と向かい合っていた。

 母、喜美花はずっと話をしていた。自分の話ばかりだった。時々、卓朗の甥と姪の話も聞けたが、期待したような内容ではなかった。

 この人は、自分の孫さえ、自分の歪んだ自尊心を満たす道具でしかないのだなと改めて実感した。

「美味しかったわ。代替わりしてたけど、味は落ちてないわね」

「そうですね。では出ましょうか」

「そうね、続きは私の家で話しましょう」

「いいえ。俺はもう帰ります。時間がありませんので」

 喜美花は眉をひそめた。我が母ながら、美しい所作だと思った。そういうところも、本当に変わっていない。

「あなたの奥さんのお話をしていないじゃない」

「忘れたんだと思っていました。覚えておられたんですね」

「当たり前じゃないの。聞きたいでしょう?」

「そうでもないです。すぐにお話されないところを見ると、大した内容じゃないようなので、俺はもう満足しました」

 卓朗は呼び鈴に手を伸ばした。喜美花は待ちなさいと言って息子の手を払った。

「大事なお話なの。こんな、誰が聞いているか分からないところで話せない」

 言いながら、声を上げた。周りにいる人間に聞いてほしいかのように。

「俺は構いません」

「後悔するわよ」

「しませんよ」

 挑発のように軽く言った。

「警告はしましたからね」

 喜美花はふふんと鼻で笑った。

「あなたの奥さん、中学二年のときに婦人系のご病気をされて、入院されたそうね」

「らしいですね」

 卓朗は詳細を柊子からだけでなく、毬菜と美晴にも聞いた。当時の彼女自身が幼かったのもあり、より詳しく事情を知っていそうだった二人にも話をしてもらった。

「あれは表向きなの。探偵を使って調べたんですけど、あのひと、とんでもない女だったわよ」

 そこで喜美花は黙った。卓朗も黙って待った。

 周りの空気がしんとなった気がした。もしかしたら隣の席では、俺たちの話の内容を固唾を呑んで聞いているのかと思うと、笑いそうになった。

「お茶のおかわりが必要ですか」

「……知りたくないの?」

「母さんの息が切れたのかなって思って。お茶で一息入れますか」

「バカにしないで。あなたの奥さん、乱交で、誰とも知れない男のこどもを身ごもって、堕胎に失敗してこどもを産めなくなったんですって」

 卓朗は眉を上げた。

 喜美花は晴れ晴れしい顔をしていた。他人の、大切にしているものを踏みにじることができたと満足している。それが彼女の快楽であり生きていく糧なのだ。

 他人が、自分以外を、ものであろうがなんであろうが己でないものを慈しんでいる姿を見るのが許せない。だからこうして踏みにじる。そして言うのだ。

「卓朗、可哀想ね。ひどい女にひっかかったのね」

 目移りするあなたが悪いの、あなたは、私だけを見て私だけを大切にすればいいの。

「でもまだ遅くないわ。離婚しなさい。お母さんがあなたに相応しい奥さんを選んであげる。そして私に、あなたの孫を抱かせてちょうだい」

 あなたが、私を崇めないから悪いの。あなたを踏みにじるのは、あなたが悪いからなの。許しを請うて私を満足させなさい。あなたのこどもも私に与えなさい。あなたの父のように。

 冗談じゃない。

「いくつのとき?」

「なんですって?」

「その話、俺の妻がいくつのときだって?」

 卓朗は言いながら、両手を後ろについた。行儀の悪い動作を見て喜美花は顔に怒りを浮かべた。

「だから、中学二年よ」

「そのあとは?」

「そのあと?」

「探偵に使って調べてもらったんだろ? そのあと。中学のあとで、俺の妻はどういう経歴だった?」

「覚えていないわ。そんなこと」

「じゃあ、特に大きな問題はなかったってことか」

「いいえ、きっと隠れてなにかやってます。それに卓朗、そういう人はね、いくら貞淑な姿を装っても、いずれボロが必ず出るものよ」

「いずれっていつ」

「……そんなの分かるわけないでしょう」

「へえ。時期は分からないのに必ず出るんだ」

「へりくつは言わないで」

 卓朗は首を伸ばすように左右に傾けた。

「自分の心配はしなくてもいいのかな、母さんは」

「何が言いたいの?」

「他者への偏見は自分の鏡っていうから。まあ、でもこれはいいか」

 卓朗は上体を戻し、姿勢を正して母親に向かった。

「教えて下さって感謝します」

 喜美花は喜びと、しかし戸惑いも顔に浮かべて卓朗を見た。

「母さんのお陰で確信できた。来てよかった」

「……確信ですって?」

「俺もね、少し自信がなかった。でも母さんの話を聞いて、俺の中で彼女の印象は変わらなくて、大丈夫だと確信できた。感謝するよ。母さん」

「何を言っているの、卓朗。あなたの奥さんは、過去にとんでもないことをした女よ」

「たとえそれが本当だとしても、今は、俺の妻は普通のひとだよ」

「でも、いずれは……」

「将来何かが起きても、俺は彼女と一緒に乗り越える。俺たちは」

 あなたたちとは違う。言いかけ、卓朗は言葉を飲んだ。

 言わなくてもいいことだ。

 父もある意味犠牲者だった。父も、母の仮面に虜になり、二人は一緒になった。しかし父は母の悪性に耐えられず、一人で愛人の元へ逃げた。

 こども二人を生贄にして。

「あ、そうか」

「卓朗?」

「俺が三十四歳になったのもあったのか」

 喜美花の顔が強ばった。

「父さんが出ていった歳か」

 ざっと音を立てて、喜美花が立ち上がった。彼女は話にならないわと言い捨て、靴を履いて出ていった。

 巧く対処できたのか、卓朗には分からない。卓朗が十年前、甥の世話をしておたふく風邪にかかってしまったあと、姉の夫、義理の兄は事情を察してくれたのか、カウンセリングの手配をしてくれた。

 そこで学んだことを正しく発揮できたのだろうか分からない。だが、卓朗の気分は悪くなかった。

 こどもの頃、母と対峙したときに常にあった、自分が悪いのだという罪悪感を覚えることはなくなった。

 会計で、女将は何事もなかったかのように淡々と相手をしてくれた。それは当たり前なのかもしれないが、いい店だと思った。実家に近くでさえなければ柊子も連れてきたかった。

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