第七話 欲したのは

 柊子は、また洗濯物をたたみ始めた。卓朗に顔を合わせず淡々と作業をしている。

「これを片付けて、あなたの夜と朝のご飯を作ったら出て行くから、もう少し待って」

「誰が君に出て行けなんて言った」

 卓朗は怒鳴りたいのを我慢し、空の器を睨み、ひとつ息を飲んだ。

「俺は、俺にかまうなとは言ったけど、この家から出て行けなんて一言も言わなかった。勝手に解釈して出て行ったのは君だ」

「ごめんなさい」

 目を合わせられなかった。拗ねている自覚がある。齟齬があったと知ったとき、帰ってほしいと言わなかった。誤解させたままにしていた。

「卓朗さんが、家を出ろと言ったのではないと私も分かっていたのよ。けれど、イライラしている人の傍にいるのは嫌だったの」

 卓朗は顔を上げた。思いもしなかった返事をされて柊子を見た。

「叔母に対してもそうだけど、我が儘を聞いているんじゃないわ。私が嫌なだけ。でも卓朗さんもそれでよかったんでしょ?」

「俺がなんだ」

「私がいなくても問題がないから、ここに戻ってほしいって言わなかったんでしょう」

 目眩がした。

「俺を試したのか?」

「お互い様よね。何も言わなくても私が帰ってくるかどうか、卓朗さんも試したのよね?」

「そんなつもりはない」

 嘘だ。卓朗は自分を内心でなじった。よくそんなホラを、正々堂々と吐けたもんだ。後ろ暗さというのはとんでもない瞬発力を生む。

 柊子は言葉を詰まらせてから息を吐いた。

「ならいいです。ごめんなさい。これをたたんで、ご飯を作ったら出て行きます」

 そして柊子は、悲しくなるほどに正直だった。

 卑怯だ。俺は。

「だから、出て行く必要はないって言っているだろう」

「どうして。必要ないじゃない」

 柊子は下を向いたままだ。

「あなたは一人でも大丈夫なんでしょう? どうして私がここにいないといけないの?」

「……何を言ってる?」

「熱を出したのに、帰ってきてとも言わなくて。帰ってきても、すごく迷惑そうで……あなたは私が酔って倒れたときに看病してくれたのに、私はそれさえもさせてもらえないのよ。どうして私がいなければいけないのよ」

 ようやく、柊子も怒っているのだと卓朗にも気が付いた。

「あなたの従兄弟の、田所さんから連絡が来たのよ。返事がないから気になるって。……あなたのそばにいないのが、田所さんにも分かってしまって、気まずい上に、あなたは病気で。なのにいてほしいとも言わない」

 柊子は立ち上がり、自分の部屋に戻ろうとした。卓朗はその背を追い、柊子が部屋に入ってしまう前に彼女の腕を掴んだ。柊子はいやがるようなそぶりを見せたが、卓朗は構わず柊子の両肩を掴む。

「ごめんなさい……、帰るから」

「帰るって、どこにだ。君の家はここだ」

「でも、ごめんなさ……」

 柊子は顔を伏せたまま、卓朗の手を離させようと、やんわりと手を取った。

 冷たい手だった。

「ごめんなさい。無理させて、落ち着いて」

「行くな」

 柊子に逃げられないように、恥じている顔を見られないように、卓朗は彼女を抱きしめた。

 柊子は力を抜いた。抵抗はなくなったが、寄り添うこともしない。ただ、棒のように立っている。卓朗は柊子をさらに引き寄せた。薄い寝間着を介し、柊子の体温がじわりと伝わってくる。

 愛おしいという思いもさらに湧いて出てきた。

「仕事は一段落した。でも昨日の夜、ここに戻ったときにはもう何もする気が起きなくて」

「……疲れが、出たんじゃないかしら」

「うん。そう。そうだ」

 相変わらず、柊子は動こうとしなかった。抵抗はされない。

 甘えるようなこともない。

 悪酔いして倒れてしまったときや、貧血を起こしたときや。

 そして、初めて抱いたあとのように。

「あなたは、もう一度眠った方がいいわ」

「出て行かないか?」

 卓朗の声の中に必死さがあった。それを嗅ぎ取ったのか、柊子は卓朗の腕のなかで、「行かない」と囁いた。卓朗が手を緩めると、柊子はさっと距離を取った。逃げられると思い反射で再度、卓朗は柊子の手を取ってしまった。

「柊子」

「行かない。ここにいるから、離して。あなたはもう、横になって」

 病気の人間の我が儘を、仕方なく聞いているような態度に見えた。そうさせたのは自分だ。

 彼女が取ったのは妥協なのだと思うと、やるせなくなった。卓朗はうつむき、手を離して自室に戻った。

 目前のベッドに呼ばれるようにそこに潜り込むと、体が楽だと感じた。無理をしていたのだ。


 物音がして目を開けると、部屋は薄暗かった。柊子が卓朗を覗き込んでいた。

「ごめんなさい。起こしてしまったわ」

「いや、もう多分起きかけだったんだと思う。今、何時?」

「夕方の七時」

 ベッドサイドにまたポカリスエットが置いてあった。

「飲む? それともごはんにする?」

「飯がいい」

 夜には鮭雑炊と切り干し大根が出た。卓朗はさらっと平らげた。腹は膨れたが物足りない感じがした。

「なんか肉が食いたい」

 卓朗のぼやきを聞いた柊子は、はじめ驚いた顔をしたが、次に気を抜いたように微笑んだ。

「元気になってきたのね。よかった」

 呆れられるか、無反応か、どちらかの顔をされるとばかり思っていた。柊子が親しみのある顔をしてくれ、卓朗もまた肩の力を抜いた。

「ごめん。柊子が用意してくれた飯がどうってことじゃなくて」

「分かってるわよ」

 なおくすくす笑っている彼女の、その笑顔を見たのも久しぶりだった。

 泣きたくなり、そんなに疲れていたのかと、卓朗は改めて自分の状態を顧みた。

「今回のことも悪かった。俺は、仕事のことになると、こうして自分本位になる」

「前もそうだったわね。お見合いのとき」

 柊子は、嫌味というより懐かしがっているニュアンスの返答をした。

「桐島先生がそうだって言っていた」

「うん。叔母さんはね。ものを作るって辛いって言うの。私は、出来上がったものを見るだけで十分で、作ろうって思わないから、辛さが分からないの。傍から見てたら楽しそうだなって思うのに。作ることができるだけでもすごいなって思うのに、本人からしたらそれだけで済まないそうね。一度手応えを感じたら、次はもっとって思ってしまうって」

 一節の歌のように綴られた言葉の、ひとつひとつが心に沁みるようだった。

 弱みを見せるのが怖い。それは付け入れられる隙を相手に与える。そうして操られ、傷付けられてきた。

 誰といても、本音を見せることはできなかった。

 怖かった。

 なのに、今は恐ろしさより寂しさが勝った。慰められたかった。

 そこにいるだけで心が安らぐ相手の、もっと傍で、その存在と心を感じながら、辛いことを共有してほしい。

 一人では生きていけない弱い人間だと知ってほしい。

「新しい仕事が入ったんだ。メインの設計は福海さんのはずだった。けれど、クライアントが、メインを俺にしてくれって言ってきた。大野賞のことがあって、俺がいいって。福海さんは俺の先輩で、才能も力もある人で、俺も何度も助けてもらった人なんだ。俺は福海さんを差し置いて自分がメイン設計士になんてなるなんて駄目だと言いながら、この仕事をしたいとも言ってしまった」

 卓朗は額に手を置いた。

「川口巌夫記念館のことも、館長の稔さんが、懇意にして下さったことがあったからできたんだ。それにあのときも、福海さんがいろいろ助言もしてくれた。俺は、いつもいろんな人に助けてもらっているのに、恩を返すどころか」

 言葉が出てこなかった。

 目の前に座っている柊子にさえ、安らぎと自信をもらっているのに、何も返せない。

 彼女が何を欲しているのか分からない。

 姉が、何を考えていたのかさえ分からなかった。味方だと思い込んでいた。

「辛いわよね」

 分かるわ、と続く言葉を、卓朗は耳にしていない。だがそう聞こえた気がした。

 顔を上げ、卓朗ははっとする。柊子は涙を滲ませていた。

「とうこ」

 彼女は目を伏せ、落ちそうになっていた涙を指で拭った。

 溺れたくなった。

 セイレーンのような女を抱き、彼女に抱かれ、何もかも忘れたくなった。

 渇望していた、真摯な同情をくれる彼女を愛したい。愛している女に慰められたい。

 今までそばにいられなかった辛さも、忘れさせてほしい。

 卓朗は嗤った。

 いくら何でも虫がよすぎる。

「なに?」

「いや、なんでもない。……もう一眠りする」

 柊子はうなずいた。

「無理しないで」

「うん。ありがとう」

 卓朗が部屋に向かったその背で、柊子が食器を下げている音がした。


 昼間は吸い込まれるように入ったベッドだったが、今は独り寝をするのかと思うと一切の魅力を感じなかった。とはいえ他に何をする気もなく、仕方なく横になる。だが卓朗は意思とはうらはらにまたすぐ寝入った。途中で柊子が中を覗い、点きっぱなしだった電気を消したことにも気が付かなかった。

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