第3話

 地面に倒れたまま動かなくなった男の体から血が流れ出した。農園の土に染みこんでいくどす黒い血はまるで汚泥のようだ。兄の血はもっと鮮やかな赤色だった。曹瑛はじっと男の体を眺めている。背中を穿った三つの銃弾がこの男の命を奪ったのだ。

 曹瑛は男の側にしゃがみ込んだ。その動きをスーツの男はじっと見つめている。


 曹瑛は男の腕に巻かれていた呂林杏のターコイズブルーのスカーフの結び目を解いた。スカーフが初夏の涼しい風になびいた。曹瑛はスカーフが風に掠われぬようぎゅっと握りしめる。端に赤黒い染みがついていた。呂林杏がどうなったのかを物語っている。曹瑛はそれを大切にポケットにしまった。その瞳は静かな夜の湖のように暗い色を湛えている。


 大柄の男に殴られ、首を締められながら闘志を剥き出しにして果敢に立ち向かった。いや、激しい怒りだったのかもしれない。そして今、男の死にも動揺することなく、平静を保っている。いや、心を殺しているのだ。

 ―こんな年端もいかぬガキが、こいつは逸材だ。

 スーツの男は踵を返し、農園を去って行った。曹瑛は瞼が熱くなるのを感じた。泣いても誰も助けてくれない。呂林杏はもういない。


 広大な畑に茂る葉を収穫する。それがこの時期の作業だった。曹瑛は他の子供たちに混じって収穫を始める。一部始終を見ていた子供たちは曹瑛と目を合わせないよう俯いた。

 管理小屋の方から男たちが足早に歩いてくる。

「お前、来い」

 そう言って曹瑛の腕を掴んで連れて行った。こうやって、行き先が決まれば突然姿を消す。次の順番は自分かもしれない。子供たちは怯えていた。ここよりもマシな暮らしがあるかもしれないし、地獄が待っているかもしれない。どちらにせよ、ここに戻ってくるものはいない。


 小屋の側には幌つきのトラックがエンジンをかけたまま停車している。黒い排気ガスがもうもうと立ち上り、ガソリンの匂いが鼻をついた。

 曹瑛は自分より年長の子供たち3人とともにトラックの前に集められた。先ほど農園で男を撃ち殺したスーツの男がいた。


「予定は3人だったが、こいつも気に入った」

 スーツの男が曹瑛を指さす。そして胸元から百元札の束を取り出し、タバコを吹かしている迷彩ズボンの男に放り投げた。

「金をもらえたらそれでいい」

 自分は金で売られたのだ、曹瑛は男たちのやりとりを無表情で眺めていた。年長の子供たちは押し黙っているが、これからどこに連れ去られるのか知らされておらず不安そうな顔で震えていた。


 不意に、背後から顔に黒い布を被せられた。この山岳要塞の場所を知られぬよう、目隠しをしておくのだ。首もとで紐が締められる。腕を荒縄で縛られ、背中を押された。体が持ち上げられ、他の子供たちと共に固い板の上に転がされる。トラックが動き出した。このままどこかへ連れていかれるようだ。

 トラックは舗装のない山道をガタガタと左右に揺れながら下っていく。


 一昼夜トラックの中にいただろうか。途中、被り物を外され、握り飯と水が配られた。真っ暗な夜の森で用を足す時間を与えられ、それからまたトラックに揺られていく。目的地に到着したのは、紺碧の空に星が瞬き始める頃だった。トラックから降りれば、そこは四方が切り立った崖に囲まれた地だった。


 崖を穿った大きな洞穴に連れて来られた。先導する男は大きな銃を背負っている。

「今日からここがお前たちの家だ」

 今日は休め、と背中を押された。洞穴の中には粗末な木の寝台が並び、曹瑛よりも年長の子供たちが眠っていた。新しく連れて来られた4人はどうしていいか分からず立ち尽くす。眠っている振りをしていた少年が目を開けるが、何も言わず目を閉じた。

 曹瑛は一人奥に進んでゆき、空いている寝台を探して横になった。3人は顔を見合わせて曹瑛の後に続き、そえぞれの寝床を確保し、不安のまま眠りについた。


 夜が明けて、空が白み始めた。崖に囲まれたこの地での新しい生活が始まった。早朝から厳しい鍛錬が始まる。まずは拳法の型、棒や模造刀などあらゆる武器を用いた組み手。ここには10歳から15歳までの子供が集められていた。曹瑛はまだ7歳、周りにいるのは皆体の大きな年長者だ。それでも手加減などしてもらえない。

 重量のある荷物を背負って森を行軍し、縄を伝って崖を登る。体力が無いものは脱落するが、誰も救いの手を伸ばすことはない。馴れ合いをすれば、教官の厳しい処罰が待っていた。


 食事は山岳要塞にいた頃よりもずっとまともなものが出された。ここの子供たちは体つきががっしりしている。厳しい鍛錬と高栄養な食事で強靱な肉体を作ることを目的としていた。そして、鍛錬の合間には学びもあった。人体の仕組み、そして人体を破壊する方法だ。ナイフの種類と攻撃方法、銃の仕組みと解体、実際に狙撃も学んだ。


 つまり、ここでは人を殺す方法を学ぶ。組織のために働く暗殺者や兵士を育てているのだ。曹瑛は幼くして適正を見抜かれ、ここへ連れて来られた。崖に囲まれた狭い世界で、誰も助けてくれる者はいない。誰もが自分が生き残るために必死で、無関心だった。

 信じられるのは自分だけ。これまでいた山岳要塞よりもさらに過酷な環境だった。しかし、ここにいれば強くなれる。強くなれば、兄を殺した男に復讐することができる。己の生き抜く道は自分で切り開くしかない。曹瑛の瞳に迷いは無かった。


 それから5年が経った。曹瑛は12歳になっていた。力をつけた者は外の世界へ連れて行かれ、変わりに新しい若年者が連れてこられる。時には厳しい鍛錬の中で命を落とすものもいた。友と呼べるものはいなかった。一人だけ曹瑛を慕うものがいた。

 王景和は曹瑛と四つ年嵩の少年で、ここに10歳の時に連れて来られた。


「父と母の元に帰りたい」

 景和は5歳で村の広場で遊んでいたところを黒服の男たちに誘拐されたのだという。夜中にそう言ってよく枕を濡らしていた。この地にいるのは場違いなほど気弱で、心の優しい少年だった。運動神経が良く、器用に鍛錬をこなした。


 曹瑛は口数が少なく誰ともつるむことは無かったが、誰にでも人当たりの良い景和とは時折会話を交わすことがあった。

「曹瑛は外の世界に出られたら何がしたい」

 景和は無邪気に訊ねる。昼でも暗い未開の森の中を、背中に十キロの重荷を背負って歩く。誰もが無言で足を進めている。そんな行軍中の会話だった。

「兄の仇を探す」

「そうか、俺は父と母に会いに行きたい」

 父の顔も母の顔も忘れた曹瑛には、景和の言葉が絵空事のように思えた。


「そして、小さな子供を誘拐するような悪い奴らを退治する」

 景和は唇をへの字にして真っ直ぐ前を見据えた。曹瑛は思わず景和の顔を見た。普段、気弱な笑みを浮かべている景和の表情が凜々しく思えた。兄の仇を討つ、その復讐心だけを胸に生きてきた曹瑛は、他人を助けるなど考えたことが無かった。

 それから景和に興味を持った。しかし、その1ヶ月後、彼はいなくなった。

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