ある晴れた日の事件


 春の陽気。


「良いお天気で、最高ですわー!」


 心地よいそよ風を受けながら、フィリアナは青空を見上げて満面の笑み。

 その横でザカリアスはたったっと彼女について歩いていた。

 今日はいつも手伝いをしている教会に頼まれて、フィリアナはお使いに出ていた。もうじき開催される王都の百年祭の準備で、どこもかしこも忙しい。

 すっかりフィリアナのドジを心配する役になっているザカリアスは、今日もお目付役として彼女についてきている。


(まったく、人間の小娘風情に我も付き合いのいいものだニャ……)


 心の中だけでそう自嘲するザカリアス。

 今日は寝坊して、いつものごとくグロリアに置いていかれただけなのは言うまでもない。


 こんな暮らしが続いてしばらくが過ぎた。

 ザカリアスにとって、ちょっぴり屈辱的なことが積み重なる毎日だったが、それも以前ほどあまり気にならない。

 その原因は、恐らく、ザカリアスの横にいる。


「商店街に着いたら、私のお小遣いでマオちゃんのおやつを買ってあげますわっ」


(おやつ!)


 その言葉を頭に思い浮かべた途端、じゅわりと生唾が溢れそうになる。


(ふ、フン……悪くにゃい判断なのニャ)


 心の中では格好つけても、待ち遠しくて尻尾がぶんぶん揺れるのは隠せない。

 春のうららな空気の中、フィリアナとご機嫌に歩いていると、ふと視界の向こうで騒ぐ子どもたちの姿が見えた。


「あら……教会にもよく来ている子たちですわ」


 彼らは王都のあちこちで見られる小さな橋を見下ろして、何か言い合っている。

 喧嘩だったらよくないとフィリアナは様子を聞いてみた。


「あなたたち、どうしましたの?」

「あっ、貴族のおねーちゃん」

「実は、川に仔猫が捨てられてて……」


 仔猫が! と目を大きくして驚き、そして心配するフィリアナ。

 だが、さらに話を聞こうとすると、子どもたちの顔は曇り、不穏な雰囲気を纏い始めた。

 

「そ、それがさ……仔猫たち、入ったバスケットごと、橋の下にすーって消えちゃったんだ!

魔法みたいでなんか気味悪くってさ……」


 勇気を出した少年がそう告げる。

 フィリアナは瞬きを何度もして、話を整理した。


「何もないのに消えていった………??」

「仔猫が心配だから見に行こうって言うのに、こいつは魔物の仕業だとかうそぶいて引き留めてくるんだ!」

「王都に魔物なんかいないもん!」

「じゃあどうして猫は消えたんだよっ!」


 意見の分かれる子どもたちはだんだん険悪なムードと化し、言い合いに発展してしまう。

 フィリアナはきっぱりと彼らを制する。


「いけませんわよ、こういうときは冷静におなりなさいな! それに魔物でなくても、橋の下を子供だけで見に行こうなんて危険ですもの」

「今日はメイドのおねーちゃんはいないの?」

「そうですわねえ、グロリアなら……今日は早めに帰ると言っていましたけれど……」


 フィリアナが考え込む横で、ザカリアスは思い至る。

 この小さな身体なら、偵察にうってつけではないか、と。

 今は猫の身だからって、仔猫がどうと言われても特別に情が動くわけではないが、フィリアナのことだから、自分で橋の裏を見に行こうとも言いかねない。そして、川に落ちてずぶ濡れになっているのがお約束だろう。

 フィリアナの足元を抜けて、川縁を進む。

 ザカリアスの行動に気付いたフィリアナが「マオちゃん! 危ないですわよっ!」と心配してくるが、ザカリアスは少ない足場を器用に辿って、もう橋の裏を覗き込んでいた。

 王都じゅうの河川は水路で整備されており、ここも洩れなく水路に繋がっている。

 暗がりを覗き込むと、ザカリアスは自分の足場にぬるつく粘液のような何かがついていることに気がついた。


(このぬるぬるは……?)


 どこかで――。

 そう思った途端、ザカリアスは目の前に透明な水状の腕のようなものがのたうつのを見た。

 水路から伸びてくるその腕は、ザカリアスを呑み込んで、透明なボディの中に閉じ込めてしまう。


「ふぎゃーーーっ!!」


 必死でもがき、暴れるザカリアスは叫んだ。声は水の中でこもり、消えていく。

 だが、ピンチの中でザカリアスは悟った。

 これは、スライムの腕だ――! 透明に近い身体の色で油断を誘い、身体から伸びた触手でエサを捕食する、魔物オブ魔物のスライム!

 その腕はザカリアスを捕らえたままゆっくりと水路に戻っていこうとする。


「――お待ちなさい! マオちゃんを離して!」


 ジェリー状の身体の中に閉じ込められ、くぐもった響きにしか聞こえないが、ザカリアスは確かにその声を聞いた。

 スライムに捕まった悲鳴を、彼女は聞き逃すことなどなかったのだろう。

 ドレスの裾を川の水に濡らし、猫とは違って不器用にここまでやってきたフィリアナは、未知なる魔物に対して毅然と言う。


「マオちゃんは私の大事な家族です! あなたには差し上げられませんわ!!」


 そう言ってフィリアナは臆さずスライムの腕に両手を伸ばし、ザカリアスを引き剥がそうと奮戦。

 顔が真っ赤になるほど力を込め、スライムの腕からザカリアスを取り返そうとする。

 少女の気迫に圧されたのか、スライムは腕だけを切り離して、フィリアナを振り切った。

 離れた勢いで川の浅瀬に倒れ込んだフィリアナは、胸にスライムの身体から脱したザカリアスを抱き締め、ほっと安堵したような表情を浮かべる。

 だが、スライムの腕は一本ではなかった。

 何本もの腕が水路から伸びてくると、今度はフィリアナの身体を捕らえた。


「マオちゃんっ、逃げて……!!!」


 危機を察したフィリアナは痛切な声でそう告げる。

 取り残されたザカリアスは、逃げることもできず、水路の中へ消えていくフィリアナを見た。


(クソッ、我の油断が誘った事態だニャ……! どうする、どうするのニャ!?)


 考えがまとまるより前に、ザカリアスはスライムの粘液に濡れた身体で飛び出し、水路に潜った。

 水に身体が濡れる感覚がこのうえなく不快だが、今はそんなことどうでもいい。

 あの娘を助けるのだ。

 自分を救った、あの娘を……!

 水路を進み、突き当たりに迫ると、そこにスライムの本体は待ち構えていた。

 その巨大な身体の中には、溺れて気を失ったフィリアナが。

 猶予はない。

 ザカリアスは威嚇の声をあげ、スライムに向かっていった。

 迎え撃とうと、スライムは何本もの腕を立ち上げる。

 そこにザカリアスは叫んだ。


「《灯明ライティング》!」


 ぱっと明るい火の玉のようなものが飛び立ち、水路の天井に固定される。

 一気に明るく照らし出される水路。

 スライムはとっさの魔法に怯んでいてすぐには攻撃してこない。

 その隙を狙い、ザカリアスは「ハァッ!」と気合いを込めてまた叫ぶ。

 すると背後の壁に影で映し出された邪竜の姿が現れた。

 スライムは、それを見てあきらかに動揺する。


「我は魔王――魔王ザカリアス!」


「……ま、魔王陛下ぁぁぁぁ!!」


 ふるふると震えた声が、尊敬を込めてそう叫ぶ。

 叫んだ拍子に、ずるり、とスライムの身体からフィリアナが吐き出された。


「本物の魔王陛下!? 陛下なんですかぁぁ!? 百年前にお隠れになって以来、誰もお姿を見ていないとのことでしたけど……本当に生きていらっしゃるのでしたら最高ですぅぅぅ! ボク、雑魚も雑魚の部隊でしたけど、魔王軍にいたもんでぇぇぇ至高のお姿をこの目に入れられて感激ですぅぅぅ」


 うむ。予想通り。

 過去、ザカリアスは下っ端の下っ端まで魔物の顔ぶれを把握していた。

 魔王軍に尽くすのは自分に尽くしてくれる者たちと同じだからだ。


「今はわけあってこの姿だが、我が意思が伝わって嬉しいニャ。さすが臣下というべきだニャ」

「うるうるうる……嬉しいですぅぅ魔王様から直接お言葉を頂くなんてぇぇぇ魔王軍時代には思ってもなかったですぅぅぅ」


「それにしても……お前なぜ我らを襲ったニャ?」


「そっ、それがぁぁぁこないだまで住処にしてた沼地を追われちゃってぇぇぇ水路から王都に入り込んじゃったんですけど出方がわからなくてぇぇ切羽詰まってるところに驚いてさっきはちょっと暴走しちゃいましたぁぁすみませぇぇん」


 ザカリアスが事情を聞くいてると、水路を走る足音が。

 「お嬢様!」と声をあげてやってくるのは、白黒のメイド服。


「お屋敷に帰る途中、子供たちが私を呼びに来ました……! お嬢様は、っ!?」


 倒れたフィリアナと一緒に大きなスライムを見つけ、グロリアはとっさに短剣を抜こうとする。


「こいつはひとまず無害だニャ! それより娘を………!」


 だが、ザカリアスがそれを制した。

 様子を伺いながらも、ザカリアスの言葉を信じて短剣を戻したグロリアは、フィリアナのもとに。

 グロリアは動かないフィリアナを抱き上げると、水路の足場に彼女を乗せ、胸に自分の耳を押し当てる。

 そして心臓の音を確認するや否や、グロリアはフィリアナの唇に自分の唇を合わせた。


(どぅわッ!!)


 人工呼吸とはいえ大胆なシーンを目撃して、魔王はドキマギする。

 ふたりの仲が良いことは十分承知だったが、こういうシーンを目撃したことはなかったからだ。

 グロリアはフィリアナに何度か呼吸を送り込んだ。だが、一向に息が返ってこないことに焦りを滲ませる。

 必死そのものな彼女の横で、意を決したザカリアスは、フィリアナの腹部に思いっきり飛び乗った。


 どん!


「っ、けぽ………!」


 はずみに、フィリアナの喉から透明なゲルのかけらが飛び出す。

 そのまま、はぁはぁ、と呼吸を重ねて、フィリアナは意識を取り戻した。

 膝の上に乗ったフィリアナの頭を抱え、グロリアは必死に訴えかける。


「お嬢様! お嬢様っ、大丈夫ですか……!」

「けほ……マオちゃん、は」

「無事です!」

「仔猫、たちは……」


 仔猫たち。

 はっとなってザカリアスがあたりを見回すと、スライムは触手を使ってその方向を指した。


「すみませぇぇん……衰弱がひどくって、なのにミィミィ鳴くもんですから哀れになって水路まで引っ張ってきたんですけどぉぉ………」


 悲しげに告げる声。

 グロリアとザカリアスはその方角に置いてあったバスケットの中を覗き込む。

 動かない小さな身体が四つ、その中には横たわっていた。


「そんな………」


 水辺に近いところに捨てられて、体温を奪われたのだろう。

 そんなときに好意とはいえスライムに触れられたのなら。


 ザカリアスはただ呆然となっていた。

 そして、心をひどく掻き乱される。

 仔猫たちは生まれてからそれほど経っていない。母猫が死んだか、面倒になった飼い主に捨てられたのだろう。

 まだこの世界のことが何もわからない状態で捨てられ、ただ弱る一方だったのだ。

 怒りに似た感情がザカリアスの内を沸々と燃やす。

 理屈ではない何かがそこにはあった。

 やりきれなさで仔猫たちから目を逸らすグロリアの横で、ザカリアスは仔猫たちのバスケットに乗り上がる。

 突き動かされるような動きだった。


 ――まだやれることがあるだろう。


 今のザカリアスは猫だ。

 猫には猫にしかしてやれないことがある。

 そして、仔猫の身体を一生懸命舐め回し始めた。

 突然の行動にグロリアが目を瞬かせているうちに、ザカリアスは次々と仔猫たちを、頭からつま先まで舐めていく。

 やがて……。


「みぃ………」


 か細い声をあげて、ふるふると小さな身体を震わせる仔猫たち。

 

 奇跡を体現したような光景にグロリアは目を瞠った。

 そしてフィリアナに大きな声で報告する。


「お嬢様、仔猫は皆無事です! マオちゃんが……マオちゃんが助けてくれました!」


 手を握り、揺さぶりながら、グロリアはフィリアナの身体を起こしてやる。

 二人でやった視線の先には、たくさんの仔猫に纏わりつかれているザカリアスがいた。


『ままぁ』

『ママー』

『ままー』

『おっ、お前ら勘違いするでにゃい! 我はお前らのママではにゃくてっ……そ、そんなこと吸っても何もでにゃいニャ!! やめろニャアアア!!』


 にゃーにゃー鳴きながら仔猫と戯れる姿に、フィリアナは嬉しげに目を細めた。


「マオちゃん……天使みたいですわ」


 そう言うフィリアナの瞳は涙に濡れ、きらきらと輝いていた。

 その表情に胸を締めつけられながらも、フィリアナの喜ぶさまにグロリアは心から満たされた。


「ええ、本当です。お嬢様――」


 二人でずっと、その光景を見ていたいと、そう思いながら。

 グロリアはフィリアナのまだ力ない指先をそっと握った。

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