第36話 フリーフォール
俺は逃げた。
幾つ目かの角を曲がり、廊下を突っ切る。石造りの壁が、冷気を孕み、底冷えする。明かり取りを兼ねた松明が一定の間隔で灰色の壁を赤く染めているが、寒さは大して変わらない。ただ、体が火照っている今の俺には丁度良い。裸足の足にはちょっとばかり痛いが。
反射的に角を左へ飛び込む。すると前から、甲冑姿の衛兵たちが大挙して押し寄せてきた。
「逃げたぞ!」
「魔女だ!」
おいおい。帝妃様を魔女呼ばわりかよ。残念ながら今日は魔法は使えないがな。
しかし、揃いも揃って、俺に向けて憎悪を剥き出しにしてきやがる。考えてみれば、俺はここまで多くの人から憎まれたことはなかった。
陰界にいた頃は、いじめらしきものに遭いはしたし、校内カーストの地位も低かったけど、憎まれたことはなかったと思う。こんなに嫌われたことはなかった。
豪田と滑川の顔が浮かんだ。あいつらだって、別に俺のこと憎んでたわけじゃなかったしな。この衛兵共に比べれば、まだ可愛く思える。なんだか懐かしいな。
俺は踵を返し、元来た道を引き返そうとしたが、角から獣人が飛び込んできた。挟み撃ちか! 万事休す!
「獣野郎か!」
しかし、衛兵たちは獣人たちを攻撃した。今の俺と獣人を秤にかけたら、どう考えても獣人の方が危険だ。獣人たちも迎え討つ。さして広くもない廊下で、様々な属性攻撃が乱れ飛ぶ。危ないったらない。
またしても衛兵軍団と獣人軍団の衝突で難を逃れた俺は、更に廊下を奥へと走った。
しかしこの服は走りにくい。まるで夢の中で走っているようだ。むしろ、これが夢であってくれたらと思う。
そうだ。俺が異世界に来たのも夢なのだ。そう思いたいが、この疲労感は圧倒的現実だ。なめらかな、ふんわりとした生地は肌触りが良く、輝くような白い色も、趣味ってわけじゃないが、悪くはない。
でも、ネグリジェは走るようにはできていない。仕方ないので、裾をまくって、手で押さえている。パンツが見えたところで構うもんか。しかし、そのため腕が振れない。結局、思うように走れない。
後ろから、獣人が追ってくる。足音はしないが、気配でわかる。次のT字路は目の前だ。その左に飛び込めば、そこは聖堂だ。その奥には移陰の儀を行う場所があるという。そこまでいけば、僅かばかりは逃げられる可能性が出てくるかもしれないが……。
その時、T字路の右側から大柄な男が飛び出してきた。勢いで反対側の壁を蹴り、跳躍する。刀を振り上げる。
「帝妃様! 御覚悟っ」
「クイルク!」
帝国最強とも謳われる戦士がまだ残っていた。
思えばこの男には二度助けられたらしい。その男に最後のとどめを刺されるのは、笑えない因縁だ。
こいつが衛兵の中では俺に一番忠誠を誓っているように見えたのだがなぁ……。多分、こいつが忠誠を誓ったのは「帝妃」ではなく「国」なんだろう。人々が暮らす国ではなく、権力としての国……。
「ぐわあぁッ!」
しかしそんな叫び声と共に、クイルクは白い光に包まれ、空中で一瞬停止したかと思うと、力無く落下した。振り向くと、元優紀であるところのターク族の獣人が立っていた。
「優紀……」
「そんな名前じゃねぇ」
「あ、そうだったな……。ごめん」
「グズグズすんな。行くぞ」
「え? うわっ……!」
獣人は俺を肩に担ぎ上げた。
「ぐえッ」
そしてわざわざクイルクを踏んづけた後、T字路を左へ飛び込んだ。
聖堂へと通じる橋の前には、まだ衛兵二人が頑張っている。こちらに気付いた瞬間、ターク族の獣人が雷撃をブチかました。
しかし、一人は雷属性だったらしく、なんとか踏ん張り、こちらに向かってきた。獣人は俺を肩に担いだまま、飛び蹴り一発。顎に食らわせると、衛兵はスローモーションで倒れ、そのまま動かなくなった。
「お前、牢屋に閉じ込められてたんじゃなかったのかよ!」
俺は肩に担がれたまま、話しかけた。全然降ろしてくれそうにないからだ。
「仲間が助けてくれた」
「どうやって?」
「今、クーデターが起きてんだ。もちろん、お前の首を狙ってなぁ」
「やっぱそうかぁ……」
じゃあ、こいつが来たのは、やっぱり俺を助けるためなんかじゃなくて、もう一度隠界に閉じ込めるためだったのか。しかし、今の俺にとっては願ったり叶ったりだ。
「でも、どうやってこんなに簡単に攻め込めたんだ? この城の守りは堅いはずじゃ……」
「川の水が減って、城の裏側から攻め込みやすくなったんだってよ。それまでは急流だったからな。……さて」
「おい、どうするつもりだよ?」
「どう、って……逃げ道探してンだよ」
「移隠の儀を使うんじゃねぇのかよ。だからこっちへ来たんだろ?」
「いや、今はちょっとそれは使えねぇっぽいなぁ」
「何でだよ?」
「片っぽの川が流れて来なくなったらしいからな。川の水が減ったのもそのせいなんだけど……。何だよ、忘れちゃったのか?」
「いや、覚えてるよ……。川が流れなくなったのは、俺のせいだ……」
「いや、そっちじゃなくてよ……え! 川が流れなくなったの、お前のせいなの?」
「何だよ、忘れたのって、そのことじゃねぇのかよ?」
「いや、だから移隠の……ヤバい。追っ手が来やがった。グズグズしてらンねぇ。しっかり掴まってろ」
「掴まるって……?」
猫獣人は、俺を抱えたまま、橋を駆けた。
「うわっ! 危ない危ない危ない! 何して……!」
「行くゼ!」
そんな掛け声を一発上げた後、獣人は、飛んだ。
地面が見えた。遥か先だ。
「あフッ……」
俺はフリーフォール状態の中、気を失った。
目が覚めた時に水に浸かってた、なんて経験はあるだろうか? 俺はある。しかも二度だ。
一度目はこちらの世界に来た時、二度目は城から逃げた時だ。二度あることは三度あると言うが、さすがにもうないだろう。あったらたまらん。
それはそれはもう、本当に焦る。しかも俺は泳げない(俺が泳げないことは内緒にしていただきたい)。泳げない人間が、意識を回復したら水の中でした、というのはそれはもうほぼ拷問に等しい。吐くものは何もないが、洗いざらい吐いてしまいたくなる。
しかし、俺が目を覚ました時はむしろ飲んでいた。大量の水をな。
「ひー、ゴポッ、ひー、ゴポッ、」
と我ながら情けなくも可愛らしい(そう、俺は今、えらく可愛い)悲鳴を上げながら、必死でもがいたところ、猫獣人を横に見つけたので一も二もなくしがみついた。
「バカヤロー! 私にしがみつくな!」
「俺は泳げないんだ!」
「私だって泳ぎは苦手だ! そもそも水は嫌いだ!」
さすが猫。お前が犬なら良かったのに。
「じゃあ、なんで川にいるんだよ!」
「川沿いに逃げた方が見つかりにくいからだ!」
「でも水苦手じゃんか!」
「文句があるならその手を離せ」
「嫌じゃあ!」
そんな風に騒ぎつつも、なんとか帝国領土を抜け、そろそろ安全だろ、というところで岸に上がった。
二人とも
やがて、猫獣人が先に立ち上がった。
「お前がどうなろうが、ここから先のことは知らねぇよ」
「何で助けてくれたんだよ?」
「さぁな……。何でだろうな……? もののついで……かな?」
「俺を殺すんじゃなかったのかよ?」
「今のお前を殺したところで、意味はねぇだろ」
そう言い残し、森の中へと消えていった。
殺す意味はないってよ。帝国追い出されたからな。四つの属性を持っていたとしても、もはや以前ほどの脅威はないだろう。
夜が明けて、日も差してきた。しかし、川辺に大の字に寝っ転がったまま、起き上がれない。そうする気力がない。
ふと、気配がしたので、首を巡らせてみた。
獣人に囲まれていた。
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