第62話『掛け違うボタン その4』

 深々と降る雨の中を、一つの傘の下、二人の少年少女が歩く。

 女子寮が見えてくる。


 初めて女子寮に彼女を見送ったときとは雲泥の差だった。

 天気も気持ちも、何もかも。


 傘を握り締める蒼の手の上に、ルイの手が重なっていた。


 門の前で、蒼は立ち止まる。

 ルイは真っ赤に染まった目元を惜しげもなく蒼に見せながら、また涙を流す。蒼は笑ってみせた。



「傘……」

「大丈夫、男子寮まではすぐだから」



 ルイは今一度、蒼の胸の中に顔を埋めた。蒼は片手でルイを抱きしめ、ルイは両手で蒼にしがみつく。



「ルイ。きみは負けヒロインなんかじゃない。ルイなら、必ず恋を遂げられるよ。頑張って」



 突き放すように聞こえただろうか。そうしないと、自分を保てなかった。

 ルイは、謝罪も感謝も口にしづらいようだった。

 代わりに、蒼がよろけそうになるほど強く顔を埋めた。



「本当は……もっと一緒にいたい。でもそれが自分勝手すぎるのも、分かってる……」

「体が二つに裂けそうな気持ち、俺にもあるよ。でもきっと、人間は決断を重ねて生きていかないといいけないんだ」



 前世では何も決断しないで生きてきたくせにな、心の中で自虐する。


 ルイの体がゆっくりと離れていく。

 体の熱が全て奪われていくような気がした。


 唇が何か言葉を紡ごうとして開いて、閉まる。傘を手渡す。


 ルイは最後まで何かを言おうとしていた。だが、蒼に笑顔を返されて、口元を結ぶ。


 ルイが背を向けて歩いていくとともに、雨が蒼の体に落ち始める。すぐに、全身が濡れてしまった。


 ルイの姿が遠のいていく。


 ルイが振り返るかもしれない、その一心で唇を噛んだ。やはり、彼女は振り返った。


 蒼は笑顔で手を振った。


 最愛の少女の姿が、建物の陰に隠れる。全身から力が抜けたようだった。


 数歩歩く。


 取り繕った笑顔が、顔面に張り付いたままだった。


 不意に、足が止まる。それ以上は踏み出せなかった。女子寮の塀に背中を預け、そのままずり落ちる。



「う、あぁ……!!」



 我慢した涙が、一気に流れ落ちる。


 雨に溶けて区別がつかなくなる涙……いや、この空から零れ落ちる雨すべてが、蒼の慟哭だった。

 雨の音を破って一人侘しく奏でる咽び。



「あああああああ……うぁぁぁぁ!!」



 冷え切り、涙すらぬくい。 胸を締める苦しさは、これまでの人生にない悲痛だった。


 蒼は泣き続ける。


 いつかは涙が止まるだろうと思った。涙は止まらなかった。



「…………」



 唐突に、空からの涙だけが枯れた。雨音は篭った音に変わり、頭上に赤い陰が差す。

 赤い瞳が、切なそうに蒼を見下ろしている。琴音が、蒼の上に傘を差していた。



「……後悔のっ、ないように、生きる……それが、正しいことだと、思ってた……!!」



 しゃくりあげながら、琴音に訴える。琴音は屈み、蒼に目線を合わせた。



「でも……俺がやったことは……自分勝手に、自己中心的に、彼女を、傷つけた、だけだった……! ルイを、あんなに傷つけた……!! 後悔なんて、馬鹿げたもののために!」

「小波くん。あなたは、とても立派だったんですよ。自分勝手じゃない」



 優しい言葉が、沁みる。蒼はさらに溢れる涙を隠すように片手を顔に被せた。



「後悔のないように生きるって、難しいなぁ……!! 人生って、難しいなぁ……!! 皆凄いや……皆、こんなに大変な人生を、平気な顔して生きてるんだ……皆、凄かったんだ……!」



 琴音の手が首に触れる。



「人は必ず人と衝突します。そうしないと、人は生きられない。ときには、愛同士だって、悲しみを生むことがあります。でも、どちらが悪か、そんな定義は存在しない。あなたは後悔のないように彼女を愛した。結果的に彼女を傷つけてしまっても、あなたは決して悪くない。人を愛し、そして愛されたいと思うことは、罪でもなんでもない。後悔しないように生きる。あなたが教えてくれたこの言葉は、今でも私の財産ですよ」



 琴音は蒼の肩に片手を回し、蒼を抱き寄せる。

 聖女の温もりが体を包み、蒼は琴音に抱きしめられながら泣き続ける。


 何度も息を詰まらせながら泣き喚く蒼を、琴音は傘とその体で守り続けた。王女の抱擁に寄りかかりながら、蒼は止まらぬ涙に喘ぐ。



「小波!!」



 刹那の声が聞こえた。

 近づいてくる三人の少女たち。刹那と朱莉、ミミアだった。


 バイト帰りだろうか。刹那は傘を放り投げて琴音と蒼の側に屈み込んだ。



「どうしたの? 小波?」



 頬に当てられる刹那の両手。

 その温もりが、蒼の涙を誘う。


 刹那が蒼を抱き寄せる。蒼は刹那の胸に顔を埋めながら声を上げ続けた。


 ふと、濡れそぼった自分の服が目に入る。ボタンが一つ、掛け違っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る