第60話『掛け違うボタン その2』

 蒼は心の中でよろめいた。

 ルイの悲しそうな顔は、蒼にとってあまりに過酷だった。



「どれだけ自分を犠牲にしたのよ! 何週間も目を覚まさない! 死んでたかもしれないって! 私のために……アンタがどうしてそこまで傷つかないといけないのよ!」

「そ、それは。……ルイには、そうさせるだけの魅力があるから」



 ルイの目から、一滴だけ、涙が流れた。

 握り潰すような心臓の鼓動に、言葉が続かない。

 その涙が槍となり、蒼の心臓に突き刺さった気分だった。



「……こんな、最低な、私なんかのために」

「ルイは、最低なんかじゃ……」

「私は、最低よ」



 蒼の言葉を遮って、ルイは言い切った。



「私……ハヤトが好きなの」



 カラン。


 バーテンダーがコップに氷を入れる音が、いやにハッキリと聞こえた。


 ルイが人差し指で涙を拭うが、また一筋、頬を伝って落ちていく。



「あなたには沢山の愛をもらった。それは私の人生に欠けていたものを埋めてもらうようでとても心地が良かったし、どんどんあなたのことを好きにもなっていった。この世界の住人じゃないって聞いたときは驚いたけど、私のことを全部知った上で好きでいてくれたと理解したときは、本当に嬉しかった」



 彼女から、好きという気持ちを表現されたのは初めてだった。

 しかし、その気持ちこそが彼女を傷つけているような気がして、喜ぶことが出来なかった。



「私のせいでボロボロになったあなたを見るのは辛い。でも、そこまでして私を救おうとしてくれたことだって、心の底から嬉しかった。なのに……どうしても、どうしても、あの日芽生えた恋心が、忘れられない」



 蒼は自身のカクテルへと目を落とす。今コーヒーを飲んだら、今までで一番苦い味がするだろうと、思った。



「あなたには感謝してもしきれない。私のために、命まで賭して戦ってくれた。 だというのに、私は、あなたがしてくれた大きすぎる恩に、報いることが出来ないの……」

「……俺は、恩を返してほしいだなんて」

「そんなことない!」



 ルイの張った声に、自然と紳士淑女たちの意識が向く。それが自然と捌けていった後に、ルイは搾り出すような声を出した。



「私だって片思いしてるもん、分かるよ……あなたのためにこんなことをした、あなたのことをこんなに想ってる。だから私を見て。私のことを考えて。そんな風に思うもの。あなたの愛は分かってる。あなたは私に愛されたいと思ってる。なのに」



 鼻をすすり、涙を拭くが、続く涙は易々と彼女の太ももへと落ちていった。



「私は……あなたが一番ほしいものをあげられないの。私だって、あなたのことが、大好きなのに」



 うっ、と涙を詰まらせてから、彼女は嗚咽を漏らした。



「私のために自分を犠牲にしたあなたに、何もしてあげられない。私は、最低よ……」



 ルイは何度もごめんなさいと口にする。



「ルイ……」



 震える手をルイへと伸ばす。ルイは蒼のか細い手を両手で握り締め、額を当てて咽ぶ。


 彼女がこんなに苦しんでいるのは、自分のせいだ。そう思った。


 笑顔を守ろうとして、やったことのはずだったのに。

 だがそれは、愛されたいと思ってやっただけの、自分の傲慢だったのかもしれない。


 前世の後悔、そんな馬鹿げたもののために、彼女はこんなに苦しんでいるのか。



「お願い、私と一緒に来て……」



 ルイは涙を必死に堪えながら、蒼の手を強く握る。それは、拒否を許さない力だった。


 手を離し、一人で立ち上がるルイ。


 店員の元へ行き、頭を下げたりしながら何か会話を交わしている。


 会計の空気だ。蒼も追いかけようとするが、ルイが店員と会話を終える前に、立ち上がって三歩歩くのがやっとだった。


 ルイが戻ってくる。蒼の手を取り、店の外へと歩いていく。


 余裕のない歩きだった。蒼を気遣うことなく、まっすぐ進む。


 蒼は体を崩しそうになりながらも、必死にルイの速さに合わせた。

 心配そうに見送る店員を背に、薄暗い廊下をぐいぐいと進む。ちょうど、下へ向かうエレベーターが開き、蒼たちを迎えていいた。


 ただならぬ気配に心配そうな顔をする老夫婦とすれ違いながら、蒼はエレベーターの中に引き込まれた。


 都会の夜景が飛び込んでくると、ルイは間髪いれずに十階のボタンを押して扉を閉める。


 乗り込もうとしていた若めのカップルの微妙な表情が扉に遮られるなり、蒼はガラス張りの窓に背中を押し付けられた。


 ルイの顔が、近づく。



「ごめんなさい」



 ――そして、キスをされた。

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