第59話『掛け違うボタン その1』

 夜八時三十分前、コスモタワーのエレベーターの中で、蒼は眼下の光景を見つめていた。


 人々が米粒並みに小さくなっていき、目線は聳え立つビルに肩を並べていく。眺望は見事なものだが、高所恐怖症気味の蒼には少し刺激が強い。


 遠くに、昼夜問わず煌々と光を放つイヴェルシャスカの槍の一部が見えた。

 これだけ美しい奥多摩の夜景が観光パンフレットに乗らないのは、大勢の命を現在進行形で奪おうとするイヴェルシャスカの槍がどこにいたって見えるからだろう。


 さて、下調べをしたが、ルイに招待されたのはどうやらかなり格の高い創作イタリアンを提供するバーのようだ。

 高級ホテルの客室階の上階にあるということで、間違っても高校生が気軽にディナーというような場所ではない。


 ドレスコードに気を配って服を選んだが、やはりどれも緩かった。


 14階に到着する。


 薄暗い廊下にオレンジの照明が仄かな光を落としている。

 際立って明るく光るテナント表を見るが、うなぎ専門店だすし屋だ、何かとワンランク上の料理ばかりで萎縮してしまう。


 蒼に向けて歩いてくる人影を捉え、蒼は胸が高鳴るのが分かった。


 ルイだ。フォーマルな青いワンピースを着ている。


 肩の出た服装はドレスのように煌びやかで、時折過ぎ去る紳士淑女の視線は自然と目の前の少女に向けられる。


 口元にはうっすら口紅が乗り、青い瞳は物憂げに揺れていた。



「来なくてもよかったのよ」

「何があっても来るよ、ルイが呼ぶなら。今日はいつにも増して綺麗だね。どの世界でも、ルイに勝る美しいものはないよ」

「バカね」



 ルイは顔を伏せて口元を少しだけ緩める。

 ルイの元へと歩こうとして何も無い場所に躓きそうになった蒼に、ルイは手を伸ばした。


 少しの間ルイを見つめ、それから恐る恐る手を取る。柔らかくて、愛しい。


 ゆっくり、ゆっくりと、ルイは蒼を廊下の奥にある店へと案内した。


 入っただけで年を取ってしまった気のする優雅なバーだった。 

 人は疎らで、静かな照明の下、身なりの整ったものたちがひそひそと密談している。

 店員が穏やかな口調で一面に張り巡らされた巨大なガラス窓の側へと蒼たちを案内した。


 常連客がバーテンダーと小さく笑った声すら、朗らかにフロアを流れる。


 静かだ。この場所も、外の街も。ゆっくりと時間が流れているのかもしれない。


 蒼をゆっくりと座らせてから、ルイは向かいに腰を下ろす。勝手の知らない蒼を他所に、ルイが一言二言店員と交わして注文を終えてしまう。



「よ、よく来るの?」

「昔はよくお母様につれてきてもらったわ。最近は時々」



 流石は天下の早乙女家、やはり育ちが違う。


 居心地の悪さを感じ、蒼は窓の外の血の気の引きそうで、それでも美しい夜の景色を見た。


 地平線の近くまで進むと、光が消えて急に山林部の闇が顔を覗かせている。


 少しして、ノンアルコールのカクテルが運ばれてきた。

 鮮やかな青い色のカクテルは、星空をイメージしているのだろうか。


 だが、青い液体よりも美しい彼女の瞳は、悲しげに揺れているだけだった。


 前菜が運ばれてくる。

 店員が何か料理名を言っているが、あまり入ってこない。

 結果的に、見知った食材を訳の分からない調理をして生まれた出鱈目においしい食べ物、そんな感想しか出てこなかった。


 フォークを手に取ろうとするが、何度も取り落としてしまう。


 不愉快な金属音が鳴り続けると、さすがに周囲の視線も鋭いものになっていくが、ルイが睨みを利かせると、それは臆病な獣が森の奥に消えていくようにみるみる散っていった。



「……ごめんなさい。こんなところに誘ってしまって。まだ満足に動けないのに」



 食を進めるのが怖くなった蒼の手の上に、向かいから手が乗せられる。

 その手が、蒼より震えているように感じるのは、何故だろう。


 何とかメインにたどり着いて、早五、六分。味わい深いソースが周りに散りばめられたダブルメインの魚と肉料理が名残惜しく皿から消えていったころ。


 ルイが、外の暗闇を見つめながら、言った。



「この世界には、明るく輝く場所と、そうでない場所がある」



 蒼は、聞き覚えのある言葉だな、と思った。

 クレーター内部と外では、明暗の差が分かりやすい。それは、ルイが口にした言葉の縮図のようだった。



「私はきっと、主人公の近くでお茶を濁すだけの存在。輝き続けるアイツには到底届かなくて、その強い光に助けられているだけ。もしそれが本で描かれているとしたら私はきっと目立たないサブヒロイン。今風に言ったら、負けヒロインってところかしら」



 彼女は自嘲気味に笑う。

 確かに、彼女のポジションを言うなら、負けヒロインという形容は似合うのかもしれない。


 だが、モブたちを退けて高らかに輝くルイの姿が、陰だなどとは思えない。

 この世界に五万といるモブではない時点で、彼女は最も特別な存在なのだ。


 彼女が死に様に放った圧倒的な煌きを、見せてあげたいと思った。



「本でどんな描かれ方をしていようと、俺にとってのヒロインはルイ、きみだけだよ」

「私はそうは思わないわ」



 ルイは目を伏せて首を横に振る。



「私は、陰なのよ。もっと輝く人がいる。……アンタに、助けられる価値なんかない」



 ルイは顔を上げる。その顔は、今にも泣き出しそうだった。

 咎めるように、彼女は嗄れそうな声で言う。



「どうして、どうして……!! こんな私なんかのためにそこまでしたのよ……!」

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