三章(丁) シワス・イヴと二人の少女

 教会の能力者たちは国王の近くについて守りを固める。クラエナはキルリの方へ行こうとするが、王と王妃に止められる。エリカは率先して避難誘導を行う。


 スラアギがギラフの傍に下りてきて話しかける。


「おお、良い感じだな。カリザはあいつに勝てるよな?」

「ええ。シワスちゃんは絶対に勝てない。カリザくんのはくが付くのは間違いないでしょう」

「しかし貴族が死にすぎてないか? まあそれもカリザの評価に繋がるし構わないが」


 シワスとカリザが対面してまだ数秒だが、既に二人の攻防の中でシワスの範囲攻撃に巻き込まれて多くの参加者が死に続けていた。


「どうせすぐに残りは会場から出て行くでしょう。シワスちゃんを脅威に見せるにはこれくらいはしないと」


 ギラフは会場の入り口を見る。逃げ出そうとする貴族らが団子になって固まっている。





 ホール前方ムクルの傍にいたタクンは、シワスの絶叫を聞いても落ち着いた様子で、糸目にニコリとした穏やかな表情を崩さないまま、全く状況が分かっていなかった。冷や汗を掻く。


(う、うーん、なに? これ)


 ――うん……ま、落ち着いて考えよう。まず、私たちの計画は? アノールが走って来てるからそれは続いてる。

 纏めよう。初めこの場にあった思惑は二つ。

 一つ目がガーレイド様とアノールの思惑。ムクル氏をここで殺しちゃう作戦。二つ目がキルリ様とエールさんの思惑。エールさんがキルリ様を攫っちゃう作戦。

 この二つは競合しないはずだった。むしろ相乗効果が見込めた。でも三つ目、スラアギ大臣の思惑が絡んだせいで状況は読めなくなった。


(……おーもしろくなってきた! なんなら私が四つ目の思惑を投入しちゃおうかな! 全ては来たるべきガーレイド様の治世のため。〝部屋のモデル化ステイルーム〟!)





「なんで! なんでよ!」


 エールは目の前の窓を蹴り破ろうとしていた。しかし割れない。人の首を蹴り飛ばせるエールの蹴りでもって、ガラス窓一枚破ることができない。地面を蹴っているような感覚。


「流石におかしい。あっちの窓もこっちの窓も固いなんてありえない。何かが起こってる」





 ホール前方、ヨルノの肩を抱くキルリは、一番最初に異変に気付いた。


「キルリ様、これは……」

「タクンの能力だ。ここは今、密室になった」





「なんで扉が開かないの!」

「早く窓を割れ! 何をやってるんだ、早くしろ!」


 想定の何倍も人が死んでからギラフはやっと気付いた。ここが密室となっていることに。


「おいギラフ。まさかこれが想定通りじゃあないよな」

 スラアギがギラフに圧をかける。ギラフは辺りに目を回す。人混み。荒れる会場。


 ――誰だ、この能力の持ち主は。この能力は「空間にルールを敷く能力」。クレアムの「自分の身体に現れる能力」じゃあない。つまりクレアムルの貴族どもの中に目的の能力者がいる可能性は低い。

 能力者であって他の出身のやつ。外から重用された人間。タクンとドールだ。ドールの方が〝触覚拡張サイコキネシス〟なのは知られた話。なら、一番可能性が高いのは、タクンのはず!


 ギラフはタクンに駆け寄って、グラスに注がれた自分の血を浴びせようとする。タクンはしれっとムクルの陰に隠れる。ムクルがギラフの手を払う。グラスが床で割れる。


「おい、これはどういうことだ。どうなってる」

「ムクル氏、どいてください。この空間を密室にしているのはそこの男です」

「何のために。そもそも貴様、スラアギとも通じていることを黙っていたな」

「問答をやってる時間は……!」


 タクンは余裕な表情のまま、真っ直ぐ自分に迫ってきているアノールを見ている。





 カリザが爪を振り下ろす。パシャリと音を立ててシワスの身体が弾ける。別れた体が空中で球状になる。宙に浮いた複数の水球からカリザの身体に向けて水のレーザーが放たれる。しかしいずれも鱗に弾かれ傷一つつけられない。カリザは口から炎を吐いて手に纏わせるとその腕を振り、浮いた水球のうちの一つを蒸発させた。シワスは壁際で体を集めて人の形をとる。


(喉から炎が出る以上窒息は狙えない。水鉄砲も効かない。体を失っていくばかり)


 シワスはレーザーでシャンデリアを狙う。しかしこれも綺麗に弾かれる。レーザーを見てカリザの火炎放射が飛んでくる。回避するがまた少し体を失う。


(密室になってるだけじゃない。この能力のせいで、机とか照明とかも固定されてる。だから、シャンデリアを落とすとか物を使って工夫するとかも難しい)


 カリザは自分の身体に炎を吹きかける。鱗が照りつく。熱せられた尻尾をビタンビタンと辺りの床に叩きつける。カリザは、シワスがカリザの横をすり抜けてホール前方へ行くことを特に警戒していた。シワスはホールの後方にどんどん追い詰められていく。


(駄目だ。勝てない)





 衛兵から剣を奪ったキルリはタクンへ背後から駆け寄る。そこへドールが立ちふさがる。長いツインテールが空中に浮かんでふわりと丸く膨らんでいる。服の裾もわずかに波打っている。ドールの身体の周りに〝触覚拡張〟が敷かれている。


「キルリ様。何のつもりですか」

「タクンの能力を解除する。これ以上人が死ぬのは見過ごせない」

「それはそうかも」 


 ドールはタクンの方を向いて名前を呼ぶ。その隙にキルリがドールの身体に剣を振る。身体と剣の間にクッションが一つ挟まったような感覚。刃は身体まで届くが〝触覚拡張〟のせいで勢いを削がれ、大きな傷になってはいない。タクンは呼ばれて振り返り、見て状況を理解した。


「ドール! ガーレイド様のためです」

「はーい、分かった!」


 キルリをおとりにして、ヒールを脱ぎ捨てたヨルノがドールの脇を通り抜ける。ヨルノから見るにドールの適合率はそれほどのものではない。

 ――〝触覚拡張〟といってもオニクスのそれとは別物だろう、ちょっとした力しか出せないはず。キルリでも時間を稼げる。その隙に私がムクルを殺す!


 ドールが右手をキルリに伸ばす。薬指だけを折って下に向ける。複数の発砲音。キルリに弾丸の雨が降り注いだ。下半身がごっそり削られる。倒れ際キルリは頭上を見た。今発砲された銃と、他にも数十以上の武器が天井近くに浮かんでいた。

 ドールは打ち終えた銃から力を抜いて、その代わりにヨルノに力をかける。床に倒れたキルリにいくつもの銃が落ちてくる。ドールはヨルノの方を向くと、また右手を伸ばして向ける。中指を折る。ヨルノも頭上に影を感じて回避行動をとる。しかし能力をかけられて動きの鈍くなった体では躱しきれない。降ってきた剣と槍で手足を削られ地面に倒れる。

 ドールはふわっと一足飛びにヨルノの傍にジャンプしてきた。ヨルノは歯を軋ませる。


(パーティーが始まる前からずっと浮かせてたのか。考えが甘かった)


「ヨルノさん、あなたがムクル氏を殺してはいけないので」


 ヨルノはドールを見上げながらそのセリフを反芻する。そのセリフの含みは一体。





 シワスの〝身体変化―液体ウォーターベール〟は体を液状にする能力。水を生成しているわけでは無い。シワスの飛び道具は全て自分の身体を消費して打っている。カリザの攻撃を受けたのも合わせて、既にシワスの身体は半分以上が消費された。残った全ての身体を合わせても上半身の分しかない。これ以上は精霊体であっても再生が危ぶまれる領域。大技は打ててあと一発。





 ムクルへ向かおうとするアノールを阻む位置にタクンが立つ。


(さて、後は私とドールがアノールに倒される振りをするだけですね。貴族院議員はできるだけ減らしたいので〝部屋のモデル化〟は可能な限り長く続けるつもりですが……)


 アノールは走ってきたままの前傾姿勢でタクンに剣を振り上げる。

 そのほんの僅か直前、水のレーザーがタクンの身体を上下に両断した。タクン、アノールの二人とも驚きに目を開く。


「あー……まあそれもありますよね……」


 シワスの決死の一撃。タクンの周りを横に薙ぎ払った。ドールも巻き込まれて両断されている。ムクルとギラフはシワスの狙いを察知して伏せていたために免れた。

 ドールは意識が途切れるまで、できる限りタクンの出血を抑える。タクンも意識が続く限り能力を解除しない。密室が途切れるまであと十秒と少し。





(密室が解除されるまで、耐えきる……!)


 空中に出てレーザーを放ったひときわ大きな水球。それを目掛けてカリザが一瞬に飛んできて、燃える腕を振る。水球はポヤポヤポヤポヤと縦横に伸縮して勢いよく二つに分かれた。爪が片方を蒸発させる。逃れた方は再び分かれ四つに。八つに。細かく分かれて散らばっていく。着地したカリザは周囲のカーペットに炎を吐いて炙り出す。壁際に腰から上のみとなったシワスが現れた。カリザはそこに一直線に向かおうとしたが、シワスが張り付いているものを見てブレーキをかけた。

 腰から上だけになったシワスは、壁際にいた女性貴族の上半身に張り付いている。二人が来たのを見て、壁際にいた他の者らが別のところへ逃げ出す。張り付かれた女性の周囲には、レーザーを打つときの水球が浮かびあがる。彼女の顔には恐怖が浮かぶ。人質。

 シワスとカリザ、お互いに見つめ合って息を飲む。密室が終わるまで、あと五秒、四秒。


「…………私、間違えた」


 シワスは能力を解除した。体が地面に落ち、露出した腰の内側から内臓が転げ落ちる。水球は水のままパシャリと床に落ちた。解放された女性は一目散に逃げ出す。翼をたたんだカリザが、胸から上のみとなって転がるシワスを見下ろした。鋭い牙が交差した口を開く。


「そうですね。俺は張り巡らされたあなたの水の糸の全てを一瞬で焼き切ることが出来た。動き回られているならともかく、足を止めて姿を現したあなたを、あなたが水鉄砲を打つより早く焼き切るのは訳が無い。張り付かれた女性に火傷はさせたかもしれないけど」


 シワスはぼやく。


「な、なんだ、喋れたんだ。なら、交渉の手とか、あったのかな。はあ」

「……さようなら。イヴの暗殺者」

「熱いのは、嫌だから。最後は焼き切らないで。私はもう、能力を手放した、から」


 カリザはシワスの言っていることの意味が分からない。


「あなたは〝銀の翼〟。ガルと戦うのよね。ええ、私、次は、絶対に、あなたを殺す」


 カリザは不穏な気配を感じ取ってシワスの首を刎ねた。なんてことはなく首が飛んだ。それと同時に体の出血も収まりを見せる。血の代わりに精霊が溢れ始め、身体が霧散していく。首も消えていく。

 カリザはぼうっと立ってシワスの捨て台詞を思い返す。「次は殺す」。考えれば考えるほど、一つの可能性が思い当たる。隊長に任命されてから、聞いた魔女の話。唯一明らかになっている魔女の能力。他人の能力を借りて併用する力。


「……まさか。遠くにいても貸すことができて、死んでも貸しっぱなし、なのか」





 時を戻して、シワスの攻撃にタクンとドールが倒れたとき。ホール前方。アノールとギラフが向かい合う。ギラフはゴキゴキと背筋を伸ばしてアノールを見下ろした。アノールはマントのフードを被り、その下からギラフを見返す。魔女と教会の新鋭二人が対峙する。


「ムクル氏は殺させないよ」

「利用価値があるから? シワスと違って? 最悪だねギラフさん」


 ギラフの背後、起き上がろうとしていたヨルノの顔をムクルが蹴り飛ばした。既にボロボロだったヨルノのドレスが血だまりに浸る。


「耳に届く声を整理した結果、分かったことは、私の味方はあまりいないということだ」

「当然でしょ。お父様性格が悪いんだから」


 ドールが力尽きた。四人の周りに武器が降る。〝触覚拡張〟による軌道修正が無いので、それらは誰かを傷つけるわけではない。しかしこれは、これから自分の目の前の人間を打ち倒そうとしている四人にとっては開戦の合図となった。


 アノールとギラフの間に槍が降ってくる。床に落ちて一度跳ねる。ギラフはその槍を手に取ろうとするが、その前にアノールが剣で槍を弾き飛ばす。ヨルノは起き上がったところに曲刀が降ってきて上手く掴む。

 ムクルは顔を真上に向ける。〝身体強化―眼キーンアイ〟で武器を完全に見切り、上を向いたまま、落下する刀を右手で直接掴んだ。加えて床を跳ねたナイフをかかとで蹴ってギラフにパスする。ギラフは背後から飛んできたナイフを「おっとと」と左手で掴む。


 アノールが今度は左から剣を振る。ギラフは右肘を上げて、右手首の内側で剣を受けて止める。その腕をすぐさま体の前に振る。血の飛沫がアノールに振りかかる。アノールは右手を剣からパッと離し、その手の平を気絶しているドールに向けた。〝触覚拡張サイコキネシス〟を〝操作の奪取クラック〟して血の飛沫を空中で止める。

 ムクルは右手の刀でヨルノを袈裟切りする。ヨルノは曲刀で受け流して逆にムクルの右小手を狙う。ムクルは刀を手放してヨルノの攻撃を避ける。同時に背後に遅れて振ってきた槍を左手で掴む。右腕を引くまま前に出していた右足も引く。代わりに前に出た左の槍で、落下の勢いを殺すことなく勢いよく突く。ムクルの右手を見ていたヨルノは虚を突かれ、右腕にもろに喰らう。二の腕が途中から折れて曲がり、曲刀が床に転がる。


 〝操作の奪取〟はすぐに途切れ、アノールとギラフの間の血液はまっすぐ落下する。ギラフが左のナイフでアノールを狙う。アノールは右手を放したままの剣で受け流そうとするが、利き手でない片腕でギラフの膂力には敵わない。剣ごと左手を突き押される。

 ギラフは右へ突いたナイフを思い切り左に振る。アノールの顔を掠めて左目を潰す。


「はは」


 飛ぶ血にギラフが嗤う。アノールは一歩後退して右に剣を構え直す。ギラフも右にナイフを持ち帰る。腕の長さに武器の長さを加味して二人のリーチは互角。お互いが全く同時に武器を振るう。


 だが二人の状況は全く互角ではない。ギラフは右手でナイフを持った。右手には手首の傷から溢れる血液が滴っている。ギラフのナイフは今、彼女の血を纏っている。ギラフがナイフから飛び散る血で攻撃するつもりなら、そもそも間合いなどと言う話ではない。ギラフはナイフを剣に合わせるように突けば、剣筋を逸らしながら血を浴びせることが出来る。


 アノールはそれに全く気付いておらず、アノールが気付いていないことにギラフは気付いている。


『バンッ――!』


 キルリのスナイプでギラフの右手が吹っ飛んだ。アノールの刃がギラフの身体を横に切り払う。ギラフはやられたなら仕方ない、と胸を張って思い切り血を吹き出す。アノールは剣を振った重みのままギラフに背を向け、返り血をフードとマントで受けた。倒れるギラフを避けてフードを脱ぎ、向こうで床に伏して銃を構えていたキルリに目線で感謝を伝える。キルリはウインクして返す。

 キルリは何でもないように見せたが、ドールから受けた傷で血を失いすぎており、残る意識も狙撃に持っていかれた。もう援護は期待できない。


 そうしてアノールはヨルノとムクルの方を見た。ヨルノは床に膝を突き、ムクルの槍で身体を貫かれていた。


「ヨルノ、お前は本当に不出来な娘だ。なぜ私と距離を詰めようとする。眼の良い私にインファイトで敵う訳が無いだろう」


 アノールはその光景にショックを受けると同時に疑問も感じた。ヨルノこそインの間合いのプロのはず。戦闘が専門という訳でもない、眼が良くなるだけの能力者に負けるはずがない。


 ヨルノがアノールに目を向けて申し訳なさそうに笑う。


「ごめん、アノール……。お父様の、右手の拳。見たら。身体が……固まっ……ちゃって」





 ヨルノが僕を〝魔女のよすが〟に誘ったのは何故か、ずっと考えていた。「手形の適性」が理由ではないらしい。ヨルノがそこから先を語ったことは無い。いくつかヒントはある。


「ギラフから僕たち幼馴染のバックボーンを聞いて」「誘おうと思った」。ここまでは確実。問題は、僕たちの過去の話の、何が誘うきっかけになったのか。僕とレオンの話なのか、僕とエールの話なのか。


 告白の夜にヨルノが突然エールに会いに行ったのは何故か。突然じゃない。僕がシワスに話を切り出したのと同じように、ヨルノも以前から機会を伺っていたんだ。エールと話す機会を。もしかしたら、ヨルノはエールに自分を重ねていたのでは? ギラフからエールの過去の話を聞いたとき、自分と重ねて聞いたんじゃないか。


 そう考えるとヨルノの行動は繋がる。エールの過去とヨルノの過去は似ているところもあるけれど、でも決定的な違いがあった。





 アノールは剣を構えて駆けだした。ムクルは右に刀、左に槍を構える。射程はムクルに有利。しかしアノールも一撃受け流せれば自分の間合いに持ち込める。ムクルはアノールが槍の射程に入った瞬間突くことが出来るように構える。あと二歩。あと一歩。


 ――しかしそのときムクルの〝眼〟が、アノールの突っ込んでくるのとは違う筋肉の動きを見た。ムクルは槍を突くのを一瞬待つ。アノールは槍の射程すんでのところ、ブレーキを踏むと左手でマントを掴み、首から外すとムクルとの間に大きくはためかせた。お互いからお互いの姿が見えなくなる。


 ムクルは突くか守るか悩んだ結果、守りながら一歩引くことにした。アノールの剣の投擲がマントの向こうから襲い来る。守りに構えた槍のおかげでなんとか弾く。マントの血痕に触れないよう注意して槍でマントを巻き取る。アノールが正面にいない。視野の左側で、膝をついて銃を構えている。


 ――今度は見よう見まねじゃない。


 照準を合わせ、撃鉄を上げ、引き金を引く。ムクルの左指をいくつか吹き飛ばす。ムクルは槍を落とし、片膝をついて体制を崩す。アノールは適当な剣を拾い距離を詰める。


 アノールは剣を横から振る。ムクルは剣が上からでなく横から振られたことに多少驚いたが、立てた膝に素早く力を入れて、立ち上がりながら後ろに回避した。


 相手の剣は勢いよく空振って隙が生まれるはず。そう判断したムクルは体を引きながら刀を上に構えた。しかしアノールの剣はムクルがいた位置の床を叩き勢いが止まる。背中を見せるまでの完全な無防備ではない。


(だが十分! 剣での防御は間に合わまい!)


 ムクルの渾身の振り下ろし。アノールは剣を捨て、姿勢を低くしながらムクルの懐に滑り込んだ。内側、つまり刀の。振り下ろされた腕を、交差した両腕で受ける。すぐさまムクルの右手首を左手で掴み、続けて右足をムクルの股の下に通す。低姿勢を作り、左の膝は曲げて、右の足は伸ばす。ムクルの胸がアノールの背中につく姿勢。刀の重さが上手く生きて、ムクルが腕を引くのは間に合わない。


(後はタイミングだ!)


 相手の右手を掴んだ左手を胸の方に引く。右手は相手の足を払う。膝のバネで相手を浮かす。同時にできたなら、相手は左手側の地面に、叩きつけられる。


 アノールはムクルを投げ飛ばした。叩きつけられたムクルの喉から息が抜ける。アノールはすぐさま地面の剣を掴み頭上に掲げる。





 自分の首に剣が振り下ろされる光景を眺めながら、妙にゆったりした思考の中でムクルは考える。


 ――いくらなんでも最後の刀が躱されたのはおかしい。そもそもその前の剣を振り切っていないのがおかしい。あれでは私が片膝をついたままでいたとしても殺せていないではないか。私が膝を突いたのがブラフだと確信されていたとしか思えない。確かに私が良くやる手ではあったが、私の戦闘を知っている奴なんぞほとんどいない。家の者くらいしか……。


 ああそうか。魔女なら知っていて、当然なのか。





 アノールはムクルの首に剣を思い切り振り下ろした。鮮血と赤い精霊が飛び散る。剣を勢いよく引き抜きながら、アノールはヨルノに振り返った。剣の切っ先が、丸い血の軌跡を作る。

 アノールはヨルノを見下ろし、ヨルノはアノールを真っ直ぐ見つめ返す。アノールはヨルノの目を見て息を飲む。緊張から、大きなため息を投げやりに吐いた。


「お前のときと同じ戦法で勝てたのは、あのときお前が父親の戦い方を真似してたからだ!」


 アノールは切っ先をヨルノに向ける。剣から滴る血と精霊が、ヨルノのスカートに落ちる。


「僕を焚き付けてまで戦ったのは、僕がお前の父親を倒せるかどうか試すためだな!」


 ――だから、あそこでヨルノを性格の悪い人間だと断じたのは間違いだ。あそこのヨルノの行動は不合理ではなく、ちゃんと本人の動機に沿ったものだった。


 ヨルノはしっかりとアノールの目を見て声を聴いていた。アノールは深呼吸して少し落ち着く。


「お前は、僕に父親を殺してほしかったんだな。それは、お前がエールの過去の話をギラフから聞くとき、エールに自分を重ねて聞いたからだ」


 密室は解かれ、貴族たちは我先にと出て行く。カリザが人を誘導している。次第にホールは静かになる。足音が遠のいていく。高い窓から白い光がホールに差している。


「そうして重ねながら聞いていって、エールが河原で死にかけているところで、僕が現れて、絶望した。きっとそう。エールも自分のようになると思ったら違ったから。ヨルノのときはエールと違って僕は来なかった。姉からの暴力を止める者はいなかった。だから自分で全部やらなくちゃいけなかった。助けなんて来ないから、自分でみんな殺さなきゃいけなかったんだ」


 アノールは膝を曲げて床に着き、剣を置いた。ヨルノと目線を合わせる。声色が和らぐ。


「そこに、ヨルノは理不尽を感じたんだね。だからその理不尽を取り返すために、僕を誘ってみた。僕は村でヨルノには勝てなかったけど、それでも父親を殺せるかもしれないと思って誘った。それは多分それほどまでにそんな相手を熱望してたから。……正直荷が重かったけど」


 アノールは苦笑する。


「僕は聖人でもなんでもないし。大した人間じゃないんだ」


 アノールは「でも」と続ける。ヨルノがカーペットに着く左手に自分の右手を重ねる。真っ直ぐに見つめ合う。

 ヨルノの顔は色々な血を浴びて酷く惨い印象になっていたが、アノールにはやはり綺麗に見えた。


「でも、そんな僕でも良ければ、君と一緒に生きていきたい。どうかな」


 アノールは優しく微笑む。ヨルノの目から一筋の涙が伝う。震える声を、焦るように出す。


「でも……わ、私は。私はあなたのお母さんを、殺して、殺しちゃって」


 ガルから聞いた話を思い出す。二人の間に刺さる決定的なくさび。


「それはほら、僕も君のお父さんを殺しちゃったし。おあいこだよ。いや、仕返しかな」


 ヨルノの目からは大粒の涙がボロボロと止まらない。

「そんな。わ、私の、私のお父様、とは、違うじゃない……!」


 アノールはヨルノに一つ近寄る。ヨルノの頭を抱くように撫でる。

「大丈夫。ほんとに、僕の心のつっかえは取れたんだ。キルリに確認してもらおうか?」


 ヨルノはアノールを抱き返す。アノールの胸に顔を擦り付ける。


「いや。いやだ」

「なんで?」


 ヨルノはアノールの肩に左手をつく。赤くした目でアノールの目を見る。


「だって、もうアノールは私のものだもん」


 アノールは微笑んだ。


「じゃあ返事は?」


 ヨルノもあてられてニコっと笑顔を見せた。


「返事はそっちでしょ。私はもう好きって言ったじゃない。ばか」


 ヨルノはアノールにキスしてから思い切り抱き着いた。





 キルリは朦朧としながらも一部始終を見届けた。


 ――アノールの言ったことは全て正解だ。アノールは見事にヨルノの心を紐解いた。いい話だなあ。いい話だけど、アノールにはこの後のことについて考えがあるのだろうか。王宮を脱出するのもそうだけど、君たち二人には最後にして最大の障害がある。


 キルリは向こうに立っているエールを見た。





 私は絶対にその表情を見た。見間違いじゃない。幻でもない。ヨルノはアノールに抱き着いて、そのとき、こっちに目を回した。横目に私を見た。視線が合った。ヨルノは一瞬こっちを見て、私がここにいるかどうか確認した。そして、笑った。びしょびしょの顔だったけど、お腹に穴が空いてたけど、とっても可哀想な姿だったけど。でも笑ったんだ。人を馬鹿にしたような、意地の悪そうな笑みをしたんだ。私に対して、勝利を宣言した。





 遅れて現れたガーレが血の海にピシャリと立ち入る。アノールとエールの間に立つ。


「エール、この二人は僕の庇護下にある。手は出させない」


 エールは心ここにあらず。ガーレを見てはいるが、しかしそれは独り言のようだった。


「変な話よね。私、この場にいる全員を瞬く間に殺せるのに。そんなことをしたってアノールは戻ってこないのよね」


 身体を離したアノールとヨルノが、膝を突いたままにエールを見た。エールは一つ自嘲気味に笑うと、いきなりガーレに焦点を合わせた。


「雑魚が粋がんなよ。自分が何を踏んでるか分かってる? 窓も扉も開いて、風が吹き始めた。あなた精霊体じゃないよね。ギラフの血を踏むなんて迂闊すぎるわ」


 ガーレは手足が痺れているのに気付いた。エールはガーレの隣に立ってその身体を足の裏で軽く蹴った。ガーレは奥の床に勢いよく転がる。エールは続けて王と王妃の前に現れた。王妃が恐怖の音をこぼす。


「キルリのお父様、お母様、今までキルリを育ててくれてありがとうございました。クラエナも。ありがとうね」


 教会の兵士たち数人がエールに襲い掛かる。彼らは次の瞬間には激しい音を立てて壁にめり込んでいた。蹴り飛ばされたダメージで意識を失う。エールは全員と距離を置いた位置に現れる。トットッと跳ねて足の感覚を確かめる。そうし終えると、自分の毛先を指で弄り始めた。


「ねえヨルノ、今私が蹴り飛ばした教会の兵士は強いやつらだった?」

「……十分に強い能力者だったよ」

「そう。じゃあ私、相当強いんだ」


 部屋の中の異変にカリザが気付く。


「その私より強いシワスを殺したのは誰?」


 音速の衝突。カリザの振り下ろした爪にエールは合わせる。振り返って蹴り上げる。カリザは反応されたことに驚きつつも追撃する。高速の攻防。エールは後ろに引きながらカリザを捌く。息を止める。そのままカリザを誘導してギラフの血だまりを踏むと、その足をカリザの目に振るった。

 カリザは防御するも、エールの足に触れた腕に激痛が走る。カリザの意識が鈍った隙に、エールは血だまりを経由しながら次の一撃を入れる。カリザは次第にエールを追いきれなくなる。数秒後には、カリザは全身にギラフの血が付着し身動きが取れなくなっていた。


 エールはその場所から大きく離れて深呼吸をする。その腕の中にはキルリがいる。キルリは薄れる意識の中、それでも嬉しそうに笑った。


「さすがだね」


 カリザが口を開く。


「だ、誰だお前、魔女……か」

「私は魔女じゃないわ。でもそうね、あなたたちの味方でもない。じゃあなにかしら……」


(ジョーカーとかどう?)


「だっっさ……。はあ、でも、まあ。それでもいいや。私は、いや、私たちは。黒でも赤でもないジョーカーよ。覚悟しなさい魔女と銀翼。これから散々引っかきまわしてやるから」


 エールは割って入った窓に足をかける。最後にアノールを見る。アノールもエールを見ている。二人は数秒の間、見つめ合っていた。それからエールは姿を消した。




**




 ガーレが体を起こす。アノールが歩み寄る。


「ガーレイド、大丈夫?」

「大丈夫。ちょっと体が痺れるだけ。蹴とばしてもらったから。血に直接は触れてない」


 アノールが手を出す。ガーレは手を引いて立ち上がる。


「じゃあ後処理は僕がやっておくね。何もかも揉み潰しておくよ。スラアギもこの件で揺すって使うから心配はいらない。着替えるための部屋も用意しといた。エリカが待ってると思う。後は最後に、約束の件だけど……」


 ガーレはヨルノに歩み寄る。ヨルノはきょとんとしてアノールを見る。アノールは謝る。


「ごめんヨルノ、勝手に引き合いに出した」


 アノールがムクルを殺したときに履行される契約。後処理の代わり、ガーレが要求したのが――。


「初めまして、ヨルノさん。お疲れのところ申し訳ないんだけど、その眼で僕を視てほしいんだ。僕は一体『何色』なのか。実は僕まだ、選抜を受ける権利が残ってるんだよね」





 ヨルノとキルリは「二枚目」の壁の上で風を浴びていた。キルリは伸びをする。


「きもちー! ありがとうエール、連れ出してくれて。あまりの衝撃で僕を連れだすことなんて忘れちゃうかと思ったよ」


「確かに衝撃的だったけど。まあ衝撃的だったのは私がアノールとヨルノの『前回のキス』のことを忘れてたことだけどね。『二回目』を見た瞬間に思い出した」


 キルリは自分がエールの記憶に蓋をしていたことをハッと思い出す。「ああー」と声を出して目を背ける。洗練された王子様スマイルを作って誤魔化す。


「そういえば、金髪。初めて見た。綺麗だね。凄く似合ってるよ」

「記憶の中で散々見てたよなあ……。はあ、いいよ別に。そうした理由も分かるわ。ただ、流石にちょっとこたえたかな。現実と記憶に畳みかけられるのは……」


 エールはなんとなく数歩歩く。


「決めた。私、あくどくなる」

「もう十分あくどいと思うけど」


 エールは振り返ったが、キルリの怪我を見て蹴るのは止めた。


「私、アノールとただお喋りできるような関係に戻れればいいと思ってた。でも違った。もっと欲張ることにした。アノールを私のものにしたい。ヨルノにも煽られたしね」

「ん? いつのこと?」


 エールはキルリの手を取る。キルリはヨルノの勝利宣言の瞬間を見せられる。


「あー……ヨルノ、なんでエールにこんなこと……。いやそういうタチなのか……」


「あっちがそのつもりなら私だって手段は選ばないわ。アノールが私のことを想ってくれるようになるまで、何だってする。協力してよね」


「当然さ。君こそ、僕を飽きさせないでくれよ?」


 青天の元、二人は手を握ったまま、風に吹かれて姿を消した。





「ガーレイド様、流石でございますね。まさか継承権だけでなく能力まで手にするとは」


 意識を取り戻したタクンは、全てが上手くいったと聞いて驚嘆した。ガーレははにかむ。


「偶然だよ。それにハーキアだと、改宗したとしても選抜まで最短で三年はかかるし」

「ん? そういえば、ハキア信徒になるのにクレアムルの王様になれるの?」


 早く回復して一緒に見舞いに来ていたドールが疑問を口にする。タクンが答える。


「実態はともかく、クレアムルは王宮と貴族院が対等な立場で政治を取り仕切ることになっていますから、その片方がクレアム信徒でなくても、言い訳は通る、と、思います。最近は国の掲げる神と違うモノを信じるのにも寛容になってきていますし」


 ガーレは頷く。切り終えたリンゴをタクンに勧める。


「僕はハーキアに留学することにしたから、その間はタクンに任せるね。貴族院の議員もごっそり減っちゃったから、タクンも相当立ち回りやすくなったと思うし」

「……お任せを。あなた様のため、下地は整えておきましょう」


 タクンはしかしガーレに対して尊敬以上のものも感じ取った。ガーレとアノールの交渉の場面を思い出す。その場でガーレが突然言い出したセリフ。


「アノール、魔女には他人の手形の適正を見抜く能力者がいるよね?」


 ――あれは鎌かけだった。「手形はきっと全部で八枚あって、全ての人間はいずれかに該当するはず」「魔女には手形の適正を見抜く能力者がいるはず」。これらは全て僅かな情報からの根拠の薄い推測だった。しかし全てその通りだった。これは、今回考え付いた推測ではなく、もっと前から練られてきた推測なのではないか。一体いつから、ガーレイド様はそのつもりだったのか。

 能力者となる。王になる。でもできればキルリ様は殺したくない。

 全てはガーレイド様の思惑通りに終結した。





 ガーレはドールと二人、病室を後にする。


「ガーレ様? これで死んだ私のお母さんも報われるかな?」


 二人が出会ったのは十年前。動かなくなった母親を抱き、ただひたすらに救いを求める少女。「三枚」の住人は誰も彼女を助けない。その光景に、少年のそれまでの価値観は砕かれた。


「うん。僕が王になったら、不幸に死ぬ貧民は生み出さない。僕はこの国を変える」


 彼もまた、誰かと同様に、幼少期に出会った乞食の子に人生を変えられた者の一人。




**




「初めまして、イヴから参りました。今回の依頼を担当します、シワスと申します」


 ムクルに挨拶したシワスは依頼の概要を改める。


「誰が殺したのか分からないように殺してもらいたい。殺すのは私の娘だ」


 シワスはヨルノの部屋へ案内される。使用人が二重の南京錠を開く。窓のない部屋。ベッドには包帯でぐるぐる巻きの少女がいた。虚ろな目で天井を見つめていた。シワスはベッドの傍に寄る。ヨルノが目だけを動かしてシワスを見た。少しの間をおいて口を開いた。


「……あなたが、私を殺すのね」

「は、は初めまして、シワスです。ころ、あ、で、でも、しばらくは殺せないと思う」


「どうしてかしら」

「だ、だって、こんな部屋にいたんじゃ……暗殺のしようもないし。ホーク家の者に疑いをかけないように殺すには、屋敷の外じゃないと」


「はあ、つまり私を殺すのは私が回復してからってこと」

「……殺されるのに、素直ね……?」

「そう見える?」


 急にヨルノの目が熱を帯びる。ヨルノはシーツに隠したナイフを素早く抜き取るとそれをシワスに向けた。両手で持って、腹部に突き刺す。張った水に突っ込んだような感覚。


「え? 手ごたえがな……」

「私は能力者だから。お腹を突いたくらいじゃ」


 「能力者」まで聞いてヨルノは次にシワスの首を狙う。突き刺し、横に払い抜く。しかし水滴が散るのみで、傷はすぐにつながった。


「うそ」

「ヨルノちゃん、あなた、じゃじゃ馬ね。暗殺の依頼が入るのも理解できるわ」


 ヨルノが隙あらばムクルを殺そうとするため、その防止も兼ねてシワスはホーク家に常駐するようになった。ヨルノはもちろんシワスも殺そうとするが、何度やっても退けられる。虚ろだったヨルノの目には次第に熱が戻るようになった。どんどんやり口が汚くなっていくヨルノを捌くのに、シワスはいつしか楽しさを感じるようになった。





「うわこれは」


 記憶を閲覧するキルリは胸の内に湧いた感情に笑う。


「情が移ったんだ。そんなの暗殺者失格じゃん」





 ヨルノを乗せた馬車が夜襲を受ける。顔を隠したシワスがヨルノを狙う。狭い馬車の中、シワスがヨルノを押し倒す。ヨルノは抵抗するも虚しく、首元にナイフを突き付けられた。


「チッ、結局私はシワスには勝てなかったね」

「当然でしょ。私は精霊体なんだから。能力者と非能力者は〝前提〟が違うのよ」

「あ、いいねそのセリフ。もらった」

「いつ使うつもりよ。あなたはここで死ぬのに」

「それは死の瞬間まで分からないでしょ。私は最後まであがくよ」


 ヨルノは暗闇の中で柔らかく笑った。突然落ち着いた声色に変わる。シワスの名前を呼ぶ。


「シワス。私はシワスと過ごしたこの数か月が今までで一番楽しかったよ」


 シワスは目を見開く。ヨルノは目を閉じて思い返す。


「初めて人生を自分のものって思えた。刃物の扱いが上手くなっていく自分が楽しかった。シワスを殺すための作戦を考えるのが面白かった。私、シワスのおかげで人生楽しめたよ」


 ヨルノは涙を浮かべる。嗚咽の息を飲む。柔らかく笑う。


「シワス。ありがとう、さようなら」


 シワスは額に力を入れて慄く。ナイフを持った手が震える。ヨルノはシワスが油断した隙に両手を座席の隙間に突っ込んで、隠していた薄い木の板とナイフを取り出した。片手ずつに持って、シワスの首を挟むように振る。

 ヨルノはこれまでの観察から、シワスは能力を発動していたとしても、首を断てば死ぬだろうと予測していた。

 ナイフと木の板で両方から挟むように振る。能力を発動したなら木の板で首を断つことができ、木の板を受け止めようと能力を発動しなければナイフが首にかかる。ヨルノの辿り着いたシワスの攻略法だった。


 シワスは自分のナイフをヨルノの首に押し込んだ。ヨルノのナイフはシワスの首に到達したが、人肌に切り込むほどの力は出なかった。ヨルノは最後、穏やかに目を閉じた。首から鮮血が噴き出す。ヨルノに覆い被さっていたシワスはそのほとんどを浴びる。

 シワスは能力で傷口を覆って返り血を浴びないつもりだったのに、そんな作戦はまるっきり忘れて呆然としていた。自分の下にある動かなくなった少女を見ていた。首からはドクドクと血が溢れ続けている。


 シワスはナイフを手放して、真っ赤になった両手を見る。能力を手に入れて以来、返り血を浴びることなんてなかった。ヨルノの閉じた目から一筋の涙が流れ落ちた。シワスは親指で涙の軌跡をなぞろうとした。シワスがなぞったところに血の跡が付く。


(私は、何をしてるんだろう)


 シワスは、自分の姿を客観視してしまった。


(この子は何もしてない。悪いのは環境と親。ただの可哀想な女の子よ。それをなぜ私は手にかけているの? この子が何をしたって言うの?)


 ヨルノは死んだ。


(嘘でも自分なんかに感謝してくれた女の子を、私は殺したんだ。ただの、子供を)


 この涙が、嘘なのか。


(私は何か、取り返しのつかないことを、しちゃったんじゃ)


 ヨルノの顔をペタペタと触る。いつしか自分の目にも涙が浮かんでいた。ポツリと落ちる。


「ま、待って……待って死なないでヨルノ。ヨルノ、お願い、死なないで……」





 内乱軍のアジト、その部屋の扉が開かれる。シワスは倒れ込むようにして中に入った。抱えていたヨルノの死体が床に滑る。そこにいた数人が驚いて机から立ち上がる。その中にはガルの姿もある。


「シワス!? どうしたの、あ、あなたも、この子も!」


 シワスは頭を床につける。返り血の混じった長い髪がばさりと散らばる。自分なりの必死な声量で懇願する。首を潰すつもりで振り絞る。涙でぐしゃぐしゃになった声で訴える。


「お……お願いします! 手形を使わせてください! 何でもします。何でもしますから、この子を救ってください! この子に、キュレの、手形を。試させて、ください……!」


 何度も何度も何度も何度もシワスは懇願する。涙に声を詰まらせながら何度も頭を下げる。ガルは慌てて隣の男性を見る。男性は膝を曲げてヨルノの様子を見る。


「確かに、死んだ直後ならまだ精霊体で蘇生することが可能だ。だが……そう、適合するのは……八人に一人。――期待しない方がいい」


 シワスは顔を上げて男性を見る。男性はガルに手形を持ってくるよう指示した。


「あ、ああ、あり、ありがとう……!」




**




「ねえギラフ、エールちゃんをどうするつもりなの」


 自室の椅子に座るギラフは、シワスに呼び止められた夜を思い出す。


「エ、エールちゃんはただの女の子よ。ギラフはエールちゃんに何かを期待してるみたいだけど、本人の意志は、き、聞いたの?」


 ギラフは驚いた。シワスがこんなにはっきりと物申してくるのは相当珍しいことだった。シワスはふるふるふるふると震えながら、勇気を出して食い掛る。


「だだ、だって、可哀想よ。ただの女の子が、戦闘の訓練とか、できもしないダンスを学ぶとか。イヴに生まれたならともかく、他の娘を巻き込むのはやめようよ」


「エールちゃんはただの女の子じゃない。覚悟の決まった娘だよ。戦闘だって得意だし、ダンスだって……できるようになる。ヨルノだってゼロから戦えるようになっただろ」


「私は! ヨルノのことは後悔してるの! あの子にももっと普通の人生があったはずなのに。……私はもう、後悔したくない。この依頼が終わったら、エールちゃんにこの話をする。それで、ギラフに真意を聞かせてもらうから。ギラフがエールちゃんに何をさせたいのか。返答次第では、私は、エールちゃんをここから連れ出すわ」


 ――屋敷の扉が開く音がする。エールが帰ってきた。そう、帰ってくる。あの子の居場所はまだここにしかないのだから。連れ出そうとする者はもういない。これからもしばらくはここにいるだろう。まだ、私の誘導を効かせることが出来る。

 ガーレイドには出し抜かれたけど、計画は一応完遂した。エールの決意は強まった。嫉妬は、育てれば貪欲になる。そしてエールは、今回最大の目的であった、未来の王権を手に入れた。


 ギラフは背もたれに体を預けて天井を仰ぐ。


「エールちゃんならきっと、世界をぶっ壊せるさ……」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る