二章(後)その大団円が仕組まれたものだったなら

「アノール、神域の能力については知ってるよな?」


 ――当然知っている。能力を授かるとき、神に愛されたごく僅かな者――ヨルノ風に言うなら適合率の高い者――は、人域と重なる別世界、神域に招待され、神自らの手によって能力を授けられるという。手形越しではなく、直接神の手に触れる。

 僕はそんなことは無かったけど。とはいえ神域は「十年に一人」と呼ばれている。近年は選抜のハードルが下がりつつあり十年に一人とまでは言わないらしいが……それでも滅多に現れるものではない。


「神域で能力を授かった能力者はそのまま『神域の能力者』とか『神域』と呼ばれる」


 トクワは短くなっていたタバコを握り潰すと、懐から出した皮の袋に入れた。そこらに捨てないんだ、と尋ねると、一回怒られちゃってさ、と舌を出して笑った。


「神域の能力にはどれも共通点がある。その能力の過程に『神域』が出てくるんだよ。過去の有名な能力だと、ポケットの先が神域に繋がっていて、大量のものを仕舞うことができるとか、神域を経由することで『未来の時間を前借りする』、なんていう能力もあった。ガルの〝領域の移動サイドチェンジ〟は分かりやすく神域の能力だな。大抵は、いずれも強い能力になる」


 トクワはいつもの黒いナイフを取り出すと、右手で持ったそれを自分の左手に刺した。ように見えたが、透過させているようだ。ナイフが左手をすり抜けている。


「これで能力を解除すると……」


 左手の甲から突き出した部分がポロリと落ちた。トクワの右手に持ったナイフは途中で綺麗に切断されたように見える。


「こういう風になる。問題はこの『消えた部分』がどこに行くのか」


 トクワは落ちた刃の先の方を拾って、右手に持った方と合わせる。切断面の大きさが違う。左手を貫通していた部分が消滅した、ということを言いたいのだろう。


「これがどうやら、神域に行ってるみたいなんだよね。つまりアタシ、神域の能力者なんだ」


 トクワは目線を落として自嘲した。


「アタシは、神域なのに、弱かったんだよ」




**




「マチルさんはそちらの方ですね。こちらの要求を改めて言う必要があるでしょうか?」

「そっちの部屋の雑魚どもは相手にならなかったぞ。下手な対応は止めた方がいい」


 血まみれの金槌を持った男と、返り血の一滴すら浴びていない女による恐喝が行われる。マチルはため息をつく。


「……しょうがないな。分かったよ。好きなだけ持っていけ。もう逆に笑えて来るよ。私に『二枚入り』は無理なんだろうなあ」


 オニクスとレオンはマチルに指示しながら机の周りの資料を纏め始めた。


 トクワは空気になるように徹していた。

 ――アタシの顔は知られていない。下手なことをしなければバレることはない。落ち着け落ち着け。大丈夫だって。アタシは状況に怯えてるだけのただのメイドなんだから。頼むからこの汗よ止まってくれ。


「ちなみにそこのメイドは?」


 オニクスが視線を向ける。トクワの心臓がドキリと跳ねる。マチルが返す。


「メイドはメイドだ。ただの使用人だよ」

「一緒に飛び降りようとしてたよね?」

「……まあ、察してくれ」

「ふーん」


 オニクスが妙に食いついていることが気になって、レオンもトクワの方に目をやる。


「私は人の身体に触れられるけど、その形をいちいち事細かに覚えていることはない」


 オニクスはレオンの傍にトテテと近寄る。


「でも例外はある。例えばそこのマチルみたいにまるまると大きな体をしてたら、特徴的だし覚えやすそうな気がするだろ?」


 トクワは焦る体を治めるため、なんとか楽しい記憶を呼び起こそうとする。しかし効果はない。こんなときに思い出すのは、アイアとの決別の場面。

 トクワの言葉に悲しい顔をして泣き出しそうになるアイアの目元。アイアがもう泣かないと決意したあの夜。それから初めてアイアを泣かせたのは、父親でも虐めっ子でもなく、トクワだった。


 ――なんでこんなときにアイアの記憶なんて出てくるんだよ馬鹿! そんなの……まるで。


 オニクスは続ける。

「もしくは格好が特徴的だったりしても記憶に残ることはある」


 トクワの全身が一瞬、軽く撫でられた感覚。脳天からつま先まで。当然、腰回りも。心臓が跳ねる。

「セクハラ女が!」と悪態をついて、太もものベルトからナイフを抜き姿勢を作る。


「女装とかさ」


 トクワは右腕を後ろから振り上げる。指先で持ったナイフは床を掠める。


(外さない! 一撃で首を裂く!)


 渾身の一投。振る腕は前方まで到達し、ナイフが指を離れる。


(投擲まで許された! このナイフはもう、アンタの能力じゃあ止められない……!)


 そのナイフは人域に姿を残しつつ、実体は神域を飛ぶ。能力を解除するタイミングさえ完璧ならば、何者であってもこのナイフを阻むことはできない。放たれたが最後、必中のナイフ。


 刺さった肌から血が滲む。見事、刀身はオニクスの首筋を引き裂いた。その前に差し出されたレオンの右手さえなければ。レオンは自分の右手に刺さったナイフを抜く。このナイフは何者であっても阻むことはできない。ただし、もしも、相手も神域であったならば。


 レオンはナイフを机に突き立てようとする。しかしナイフはすり抜けた。地面を除く人域の全てをすり抜けるはずのナイフを掴んでいる。レオンはトクワに無機質な視線を向ける。


「神域の一角〝落とし穴の生成トラップ〟。触れたものの実体を土や岩に限り神域へ送る能力ですね」


 オニクスは右手をトクワにかざす。


「四年前のあのとき地下にいたのはお前だな。覚悟しろよ」


 トクワは何か行動しようとしたが、〝触覚拡張サイコキネシス〟に上から叩き潰され床を舐めた。


 ――ああまるで。死ぬ前に思い出す心残りみたいじゃないか。




**




「僕、神様に会ったよ」


 当時、ハーキアには神域の能力者は一人しかいなかった。周りにいた神官たちは飛んで喜んだ。父親もトクワの肩を掴んで何度も確認して涙を流していた。


「アイアと一緒に」


 大人たちはその言葉を耳にして、理解するまでに多少の時間を要した。父親が震えてアイアに確認を取る。アイアは頷く。既に歓喜の絶頂にいた父親はその喜びを表す方法を知らず、その場で失神した。二人は、稀代の双子の神域だったのである。


 トクワはアイアの手を取って喜んだ。誇らしかった。みんなの期待に応えられることが嬉しくて、神域が誇らしくて、だからこそ、能力が明らかになっていって、周りの評価が転がり落ちていくことが耐え難かった。


「穴を掘る能力をどう活かせって言うんだ」

「精々あの能力の価値は五人分くらいですかね」

「神域だからと言って強いという訳では無いし。こんなこともあるだろう」

「姉の方が神域の名に恥じない優秀さだから、ついつい比べてしまうな」


 トクワは自分の心の変化に困惑した。諸所でトクワを慰め、庇い、擁護するアイア。その振る舞いが。なにやら、とても苛立たしいものに見え始めた。


「家族を大事にしましょう。自身を律する良い行いのうち、最も基本的な事。それは、かけがえのないものを愛することです。家族を軽んじる者には、神の威光は照らさないでしょう」


 神官が教えを説く。トクワは教会を出てからもその言葉が胸に突き刺さって抜けなかった。


 ――神様はアイアを照らした。僕は照らさなかった。愛が。僕の愛とアイアの愛が、違うのか。


 足取りは教会の裏へ向かう。壁に向かって両手をつく。地面を見つめる。右手を拳に変えて、壁をゆっくりと叩く。ゆっくりと、何度も、強く叩く。


「トクワちゃん。大丈夫?」


 アイアがトクワの肩に手を置こうとする。アイアはトクワの様子を不安に思ってその背中を追ってきたのだった。

 ――ああ、着いてくるなよ。金魚の糞みたいに。


 トクワは差し出された手を弾く。アイアは弾かれた右腕を胸元に引く。


「手なんか……差し伸べるなよ。アイアの、くせに……!」


 少し強い語気が出た。言葉に力が入る。言ってから、じわりと寒気がした。

 ――僕は今、何を言った? アイアのくせに?


「……ごめん、ね。トクワちゃん」


 アイアは目を伏せて駆けて行った。トクワ自身の口から出たその言葉は、彼の自尊心を破壊するのに十分だった。トクワは自分がこれまで長くアイアに向けていた感情を思い知った。それは共感や思いやりではない。


 ――憐憫と、優越感だ。僕は自分と似た境遇で自分よりも劣っているものを見て自分の肯定感を高めていたんだ。それが……それが、僕の親愛だと思っていたものの正体だ。僕は世界でたった一人しかいなくて代えようがない双子の姉を、全て自分のために利用して貶めていたんだ。大事な、唯一の半身を。僕が愛情だと思っていたものは、偽りだった。


 アイアとトクワはお互いを避けるようになった。それでもなお、トクワの中には、いつまでも収まらない嫉妬の炎と、それに対する罪悪感が渦巻いていた。このどうしようもなく湧き出て自分を傷つけ続ける二つの感情から、トクワは本能的に逃れようとした。文字通り、環境からの逃避という形をもって。書き置きだけ残して、弱冠十二歳にして家を出たのである。





「まあそれから色々あって、クレアムル内乱でガルと出会うのは、また別の話だな」


 アノールは納得した。なぜ最初から、トクワからアノールへの好感度が妙に高かったのか。境遇に似るところがあったからだ。選抜を経て大事な分身と、絶対的な壁が生まれたという。


 ――いや、僕の場合は壁を作ろうとしたというか、何というか、というか大事な分身って何? 何を恥ずかしいことを考えているんだ。別にレオンに対して分身だなんて認識を抱いたことは無いけど。無いですけど!? ――ともかく、要素を抜き出してみればかなり似ている。


「ちなみに、アイアさんは強いの?」


 アノールが聞くと、トクワは誇らしげに笑った。


「強いよ。文句なしにハーキア最強の能力者だね」


 屋敷の中庭、その噴水を背景に、半月がトクワの笑顔を照らした。今までで一番素直に嬉しそうな笑顔で、少しの少年っぽさが滲んでいた。そこには偽りなどないように見えた。アノールも嬉しくて、トクワからしばらく彼の姉の話を聞いていた。トクワからもアノールの過去を話すように迫られる。アノールは渋々話し始めた。夜のテラスでは、二つの花が咲いていた。




**




 床に押し付けられたトクワを二人が見下ろす。マチルも逃げようとしたが身体が動かない。


「117人。四年前、お前が送り込んだ傭兵によって殺された村人と兵士の数だ」


 オニクスの声は冷たい。トクワの拘束が緩む。顔を上げて口を動かす程度の自由が与えられる。トクワは先のオニクスの発言を無視した。


「余裕だな。油断するには早いんじゃないの?」

「お前が覚悟を見せるならまだ抵抗はできるかもな。でも、私たちの命には絶対に届かない」


 ――違いない。この二人は最強だ。神域でなければオニクスに攻撃は届かず、神域である限りレオンに阻まれる。この二人に正攻法で勝つには、神域で、かつガルやアイアのような上澄みでなければ。そうでなければ、そもそもまともに戦える舞台にすら立てない。次元が違う。


「中央教会まで連れていかれてみろ。奴らの異端者への拷問のエグさは知らないわけじゃないだろ。奴らは精霊体であっても苦痛を与える方法をいくつも持ってる。協力的な姿勢を見せればお前の身柄はクレアムルに留めるように進言しよう。さあどうする。素直に協力するか」


 トクワは見上げて笑う。


「舐めるなよ」

「はあ。無駄死にだと思うけどな」


 そのとき、レオンの視界に異変があった。レオンには常に重なって見えている神域の光景。その神域の霧に動きがあった。この場の人間とは全く違う何者かが神域の霧に干渉している。霧がそれを避けるように動く。大きな棒状のものが神域で動いているかのように。


 一瞬の出来事だった。それは細くきらめく糸のよう。神域の霧を裂く。オニクスを前後から挟むように、凄まじい速度で迫ってくる。


「……! オニクス危ない!」


 レオンはオニクスの腕を引く。オニクスを縦に両断しようとしたそれは、レオンがオニクスを引いてなお、オニクスの右のつま先から左の二の腕にかけてを一直線に切断した。左腕と左脚が飛ぶ。

 オニクスだけではない。建物の床と天井までもが切断される。両断は続けて五回行われる。レオンはオニクスの腕を引きながらそれを回避する。攻撃の度に床と天井が切断されていく。天井が、床が崩れる。オニクスは切断面からの出血を能力で抑えることに注力し、トクワとマチルは力から解放される。その場の四人ともに二階へ落下した。


「あァン? まさかまだそちらさん意識があるのか? 無茶苦茶だなァ」


 四人と瓦礫が降り注ぐ。上手く着地で来たのはレオンのみ。脱げた帽子が足元に転がる。前髪を掻き上げて、そこに立っていた人間に目をやる。


 袖がダボダボの白く長いローブ。幽霊のようないでたち。金髪の毛先は耳のところで雑に切り落とされている。左手を上向きに持ち上げ袖から出し、その指でハサミをくるくると回す。


 遅れてオニクスも能力で体を起こし、右足だけでよろめいて立つ。崩れた天井から空が覗く。夕焼け。直上のその雲は、まるで綿をハサミで切ったかのようにいくつもに千切れていた。女性はパシッとハサミを掴んで回すのを止める。ヘラヘラと笑う。


「あー……ご挨拶。オレはアイア・トガノ。ハーキアの金はハーキアのもの……ということで、回収してこいと送り込まれましたァ。殺したら国際問題だからさ。頑張って避けろよ?」


 アイアはハサミを横に構えて二人に向ける。レオンは足元にかがみ、オニクスは自分を上に放る。二人の背後の壁が真っ二つに両断される。アイアは二人を同時に挟めるように今度はハサミを縦に構える。二人はこれも紙一重で躱す。一秒の間に三回の切断。壁は完全に崩壊する。攻撃は間髪入れずに続けられる。


「トクワ! 飛び降りるぞ!」


 マチルはトクワに呼びかけるが、トクワはアイアを見て放心気味でいた。再び呼びかける。


「おいトクワ!」

「……っ、ああ!」


 トクワとマチルが崩れた壁から飛び出す。思わずそちらに顔を向けそうになったレオンをオニクスが能力で止める。


「大丈夫。あの二人は私の能力で追う。それよりもソイツから目を離すな」


 オニクスはレオンの隣に降り立つ。


「さっきまでの雑魚とは訳が違う。ソイツは四年前の戦争で最も多くの人間を殺した能力者。現代最強の能力者の一人だ」


 アイアはトクワが飛び降りた方を眺めていた。一瞬見えたその背中を記憶に刻む。


 ――トクワちゃん、久しぶり。こんなやり方しかできない不器用なお姉ちゃんでごめんね。逃げて。私が時間を稼ぐから。ああでも、こんなことをしたらまた不愉快にさせちゃうかも。ごめんね。

 でも、もしも。もしもまた、あなたに会えたなら――。


「……よーし、お姉ちゃん頑張っちゃうぞ」


 アイアは誰にも聞こえない声で呟いた。ハサミを構える。斬る。




 レオンはアイアの能力を掴みつつあった。アイアの能力は、構えたハサミの刃の直線上にもっと長い刃があるかのように見立て、その延長した範囲を切断する、ようなもの。このとき神域で、ハサミの刃の直線状に〝細い刃〟が現れる。これこそが、空間を切断している刃。〝細い刃〟はレオンでも発見するのが難しいほどに細いが、それが動くと霧もまたそれを避けるように動くため、どこに切断が起こっているのかは分かる。


 ――回避行動は今のところ間に合っている。けれどともかく攻撃頻度が高すぎてこっちにターンが回ってこない。一秒に三回は切断される。避けるので精一杯だ。


 オニクスはレオンのように神域を見ることはできないが、立体に動くことができるアドバンテージを持って食らいついていた。攻撃の方向はアイアの手元のハサミを見て判断する。回避しながら瓦礫を投擲するが、精霊体相手に決定打になる攻撃はできていない。


 ――自分の出血を抑え、身体を高速で動かしつつ、攻撃までするのは正直難しい。並列思考も限界だ。ミスを犯すのは時間の問題。そもそも身体を四分の一くらい失って、血があまり回っていないのでそろそろ気を失う。とにかく何か策を打たないと。


「おいおいテメェら避けてばっかりかァ!? 最強なんだろ見せてくれよ最強をよお!」


 オニクスは自分の側面の壁が全く傷ついていないことに気付いた。背後の壁が崩れているのは能力で見える。攻撃の度に背後から音もする。しかし左右の壁は傷ついていない。


「レオン! 対角に!」


 ――つまり一度に挟める範囲は、この攻撃の射角は、ハサミを広げられる角度までだ。


 オニクスはレオンを押し飛ばし、自分も反対側に吹っ飛ぶ。レオンはオニクスの言葉の意味をすぐに察した。二人は両側の壁に着く。アイアから見てハサミを持つ左手側がレオン、手元が袖に隠れた右手側がオニクス。アイアは真面目な表情になると、両腕をそれぞれ二人に向ける。二人が息を合わせて真っ直ぐにアイアとの距離を詰めようとする。


 切断。回避。レオンの左腕が切り飛ばされる。同時にオニクスの胸から下も飛んだ。オニクスの顔が歪む。オニクスは最後に、自分の身体を支えるのに使っていた分の力を裂き、全力でアイアを床に押し込んだ。レオンは合わせて金槌を投げつける。しかしオニクスの拘束は十分でなかった。アイアの左手を狙った投擲はすんでのところで避けられ、金槌は床を叩いた。アイアはすぐさま跳ね上がりバックステップを踏んで、右の袖をレオンに向ける。レオンは足を止める。二人の間合いは、腕を伸ばして丁度相手の身体に届かない程度。両者、軽く息を整える。


「手元を隠すその袖はブラフ。実際は右にもハサミを構えているのか。よくできてますね」


 オニクスは床に倒れ腹から血を流しながら、既に意識を失っていた。


「なんでさっき左腕を狙った。頭を狙えば一発ダウンだったろうが」

「あれは最悪、精霊体相手でも殺してしまうことがあるみたいなので。国際問題なのはお互い様です。ていうかなんでそれを知ってるんですか?」


 その手段もあったことをなぜ知っているのか。アイアはその疑問は無視した。


「でもそれでテメェは負けたぞ。頭狙いなら避けられなかったかもしれないのに。まさかここからまだ抵抗はしねェよな?」

「言葉遣いの割に優しいですね。甘い人だ」


 アイアの意識の外から「針」が飛んでくる。前方から顔に向かって飛来する。その間一秒に満たず。

 つい反射的に目を閉じてしまう。その隙に右腕を袖の上からレオンに掴まれる。針は顔のほんの少し外側を飛んで、アイアに当たることは無かった。針が飛んできた方向を見る。そこには切り飛ばしたレオンの左腕が転がっていた。爪で何かを弾いた後の様に、伸びた人差し指がアイアの方を向いている。


「俺の〝身体操作マリオネット〟は体から切り離した部位も動かせます。俺の袖にも、こういうときのために針とかが仕込んであるんです」


 レオンは笑って解説した。アイアは構わず右のハサミで切断しようとする。レオンはアイアの右腕の筋肉の動きから攻撃を察知した。回避しようとジャンプする。レオンの体重が右手に、アイアの右腕にかかる。斬撃は腕にかかった重みで斜め下を向き、レオンの足元を、下に傾いた角度で切断する。アイアが目を見張って息を飲む。切断後、右腕を肘から床に叩きつけられ、アイアはレオンにかしずく形になった。レオンは今のアイアの態度をいぶかしむ。


「……もしかして」


 アイアの左のハサミがレオンに向く。レオンは体をのけぞらせて切断を回避する。そのままアイアの首に外から足をかけて腕を極める。アイアは舌打ちした。

 ――ゼロ距離まで詰められた時点でオレの負けか。どうしたって抵抗できない。


「キ――――ギギギギー……」


 壁が、床が、何やら嫌な音を立てる。床が傾くのを感じる。床に寝てアイアの右腕を固めるレオンと、うつぶせに抑えられたアイアの二人が、そのままお互いの顔を見る。アイアが冷や汗を掻く。


「……なんかヤバイとこ切っちゃったかも」

「えー……」


 壁に亀裂が入る。建物が崩壊する。二人は瓦礫と共に落下する。レオンは右腕をアイアの腰に回すと抱き寄せて、一緒に丸まって受け身を取った。

 右腕と両膝をついて体を持ち上げる。アイアはレオンの下で肘を曲げ、両手を肩の高さに挙げて仰向けになっていた。頭突きをすれば届く顔の近さ。瓦礫がガラガラとレオンの背に落ちるが彼は動じない。

 夕焼けは西に追いやられ、空は暗がり始めていた。アイアには、レオンの切断された左肩の向こうに、くっきりした半分の月が見えていた。数秒の見つめ合い。アイアは妙に気まずく感じて、なんとなく視線から逃れる。何を言ったものかと悩み、少しして口を開いた。


「……なんで右腕から手を離した。サイキネ女を犠牲にしてやっと掴んだ右腕だったのに」

「あなたこそ、なぜ俺にハサミを向けないんですか?」

「どうせ躱されるだろ」

「そりゃ一度は躱せるかもしれませんけど、今度は最初から両手のハサミを使いましょうよ。そう時間をかけずに俺を捉えられると思いますけど」


 沈黙。カラカラと瓦礫の崩れる音だけが響く。アイアはレオンから至近距離で見つめられるこの体勢に耐え兼ね、レオンのお腹を蹴ってどかした。レオンが立ち上がったのに続いて、袖で体の汚れを払いながら立ち上がる。


「やっぱり。地上階ではハサミを構えられないんですね」

「うるせえよ」

「人を切っちゃうのが怖いんだ」


 レオンはニヤついてアイアを見る。


「チッ。無用な殺しはしたくねェだけだ」


 もうおおむね散ったとはいえ、外にはドミノストリートの民衆たちがまだ大勢残っている。二階にいたときアイアが下方向を切断しておののいていたのは、民衆を切るのを恐れたため。アイアの能力は、射程の調整ができないわけではないものの、下限でも相当広い範囲を切断してしまうものだった。


「やっぱり優しいじゃないですか。口の悪さで甘さを隠してるんですね」

「いい加減ウゼェなあ!? しゃがめば上に向かってテメェを切ることもできるんだが!?」

「それなら距離を取ります。そうすれば地面と平行にしか攻撃できなくなりますね」


 アイアは宣言通り素早く体をかがめて斜め下から右袖をレオンに向ける。しかしその右腕が、地面を這っていた謎の腕によって不意に掴まれた。肩から先だけでうにうにと動いている血だらけの腕。アイアはその奇怪な姿に恐怖で仰天した。ハイトーンな悲鳴を上げる。


「キャアアアアアアア!!」

「めっちゃ驚くじゃないですか」


 レオン爆笑。アイアはレオンの左腕を頭上に放り投げると一瞬でみじん切りにした。


「あああ俺の左腕がっっ!」


 レオンはパラパラと舞う自分の左腕を悲しそうに眺めている。アイアは荒いだ息を収める。


「あ――白けた。白けたわ。テメェの勝ちだよ。オレの負け。ここの資料は持っていきな」

「ええ、そうさせてもらいます。弟さんとの再会を楽しんで」


 アイアは途端、表情を険しくする。


「……いつからそのつもりだった。……いや待て」


 ――まず、コイツはオレとトクワちゃんの関係を知っていた。それは少し調べれば分かる話だからまあいい。それでコイツは、オレとトクワちゃんの再会を望んでいた? いつから? 最初はトクワちゃんを追うつもりだったはず。サイキネ女が気を失った瞬間からか。そのときからトクワちゃんを追うのを諦めていたのか。だとしたら。


「まさか頭じゃなくて左手を狙ったのは――!」

「気を失わせては、お二人の再会が遠のきますから」


 アイアはレオンの首元を袖越しに強く掴んだ。下から睨みつける。


「テメェ相当手加減してんじゃねえか」

「いやそんな、そこだけですよ」

「指ではじいた針を当てなかったところもだろ!」


 ――つまりコイツは途中から「オレを出来るだけ無傷で帰す」という条件付きで戦っていたということだ。じゃあ瓦礫が降ってくるのから守ったのもそのためか!


「はああああ!? ふざけるなよテメェ! ちょっとときめいちゃったオレの心を返せよ!」

「え? ときめいちゃったんですか?」


 足を狙っての切断。レオンは後ずさって躱す。地面が裂ける。アイアは身震いする。


「テメェ相当ゾワつく奴だな。こっちは全力なのに余裕か。しかも動悸がなんかキショいし」

「すみません。そういうのが趣味なので」


 レオンの崩れない笑顔にアイアはため息をついた。


 上階からアイアのすぐ隣に帽子が落ちてきた。レオンがあっと声を出す。アイアはそれを拾い上げる。

 古いクレアムル軍の帽子。使い込まれている。ふと、側面に一つ穴が開いているのに気付く。指を通せるほどの大きさの穴。


 ――銃弾の貫通した痕。つまりこの帽子は……。


「親父さんの形見とか……か?」


「俺じゃなくて、知り合いの父親の形見です。いつか返さなきゃいけないんですけど」

「いつか……か。会える目途は立ってないんだな」


「はい。俺の弟みたいなやつなんで、まあきっと強かにやってると思うんですけどね」


 その発言がどれほどアイアに刺さったのかをレオンが知る由はない。アイアの脳裏にこれまでの十年間が駆け抜ける。弟と再会を果たすまで、ただひたすら自分に出来る事を努めてきた人生が。

 途端、弟と再会できることに実感が湧いてきた。手元の帽子を見つめる。想いが胸にこみあげる。吐く息が震える。涙ぐんでレオンに手渡す。


「……今日の恩は忘れない。その子との再会、私に協力できることがあったら、声をかけて」


 少女の笑顔。その儚げなアイアの姿に、レオンは危うく心を奪われそうにすらなった。


(ギャップ……萌え……!?)


 その尊さにレオンはフリーズする。固まったレオンの背中をアイアはポンポンと叩く。そういや聞いてなかったな、と名前を尋ねた。レオンは上の空のまま答える。


「レオンか。じゃあなレオン。また会おうぜ!」


 アイアは袖をパタパタと振って去って行った。放心からハッと戻ってきたレオンは、とりあえずオニクスを瓦礫から掘り返して〝銀の翼〟の事務所に運ぶことにした。


 レオンはオニクスを抱えて歩きながら今日のことを考える。


 ――アイアは俺の切り札「金槌を頭に投擲」を知っていた。これはきっと、さっきの少年と老人のいずれかがアイアを呼んだからだ。そのとき聞いたんだろう。現れたタイミングが今だったのもそれで頷ける。何故アイアを呼んだのか。お金が目的じゃない。アイアを送り込んだってお金は全てハーキアのものになる。なら、もしかしたら目的は、トクワを助けるため……だったのかな。





 息もからがら、裏路地に逃げ込んだトクワを迎える者があった。


「トクワ殿。無事でよかった」


 トクワは膝に手を付いたまま、アスマの声を聴いた。


「アスマが……助けてくれたのか」

「はい。間に合ってよかった」

「あ、ありがとう。でも、まさかアスマが、アイアを呼べる訳ない……よね……?」


「そのとおりー」


 クスクスと笑いながら一人の少女が現れる。


「アスマさんと知り合いだったのは私。アイアさんとコネクトがあったのも私。私が二人の架け橋になったおかげであなたは助かったわけです」


 トクワは警戒して尋ねる。


「アンタの目的は何?」

「そんなに構えないで。要求はね、トクワさん。私とお友だちになってほしいんです」


 トクワは言葉を飲み込みかねて固まる。その様子を見て少女は再び笑う。


「私とお友だちになって、それで、いざというとき、アノールを裏切ってほしいんです」

「……アンタ。いやお前、まさか」

「ああ、そちらにお姉さんがいらっしゃったみたいですよ」


 トクワは振り返る。路地の入口にはアイアが立っていた。アイアの背後で、ちょうど夕陽が港に沈み切ろうとしているところだった。


「トクワちゃん」


 アイアは心ここにあらずといった様子で呟いた。トクワも茫然として見つめ返す。二人とも、お互いの姿と同時に、各々がお互いに向ける幻想、小さな頃の相手をその姿に重ねて見ていた。直上では既に星が姿を見せ始めていた。沈む夕陽がアイアの足元に差す。


「アイア」


 十二歳で別れてから十年ぶりの再会。喜びだけならよかった。しかしトクワはアイアへの罪悪感も思い出す。感情の濁流。せき止めていたものが流れ出す。思わず胃の中のものを戻す。手で抑えるも抑えきれず全てが吐き出る。

 ――なんだこの感情。なんだこの感情! 黒くて汚いドブみたいな最悪な感情。僕に、僕にはアイアに近寄る権利なんて。


 トクワがアイアを抱き寄せた。吐いたものも気にはしない。


「久しぶり。久しぶり……トクワちゃん……」


 トクワは生まれて初めて、アイアから抱き寄せられた。アイアの、身体の温もり。


「無事で……、無事でよかった……!」


 アイアの声が震える。トクワの目の前にあのときの情景が浮かぶ。


『アイアなんかが』

 二人を分かった、あの一言を。


「僕、僕は」

 ずっと、あの一言を謝りたくて。


 トクワがその先を言う前に、アイアがトクワを自分の胸にうずめた。頭を緩く抱く。


「――ありがとう。私を愛してくれて。私はずっと、ずっとあなたに愛されていたよ」


 トクワの目に涙が一気に溢れる。アイアを抱き返す。アイアの名前を呼ぶ。存在を確かめるように何度も呼ぶ。アイアはそのたび背中を撫でて頷いた。





「レオンなら『なんて美しい関係なんだ』とか気持ち悪いことを言ってるところかな」


 言ってエールはレオンの事を想う。

 ――あの趣向は村ではうまく隠せていたけど、今はどうなってるんだろ。鳴りを潜めているんだろうか。いやそんなことはないな。絶対に悪化してる。というかこの双子の再会がこんなに上手くいっているのにも何かレオン臭いものを感じる。臭うな。いやありうる。マチルを追っていた〝銀の翼〟がレオンというのはありうる話……。


「エール殿の目的は何なのでしょうか」


 アスマから話を振られる。エールは顔の向きをそのままに答える。


「全てを手に入れることです。私の元から去っていったみんな、それを取り巻く何もかもを手中に収める。そうですね、ひとまず大きな目標として描いてる画があるんです」


 エールの語りには悦楽が滲み出ていた。


「いざというとき、どの魔女もアノールを助けない状況を作る。そして、アノールは私に頼ることになる。頼りになるのは私だけだと、思い知ることになる。アノールが自ら私の元に縋りついてきて、そして私の差し伸べる手を取るんです」


 アスマはエールの目が妄想に耽っているのを見た。


「……いい趣味ですね」

「ええ! ――ああ、今から楽しみで仕方ない! 今日は記念日ね!」


 エールは足をふらつかせながらくるくると回る。まるでお酒にどっぷりと酔っているかのように。夢見心地のまま、妄想の舞踏会の中心を踊る。星を見上げる。歓びを嚙み締めて笑う。


「まずは一人。篭絡すべき魔女は、あと四人……!」


 アスマはエールの行く末を案じた。エールはどこまで行くのか。どこまで行けるのか。どこに行きついてしまうのか。エールは目を回して壁に頭をぶつけていた。意外と案じるほどでもないのかもな……とアスマは思い直した。

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