一章(後) 後に「ワッカラ村の襲撃」と語られる
「クソ」
「クソ……」
「あ、ああ、あああ」
アノールは足を止めた。息を思い切り吸って叫んだ。
「クソがあああああ!」
息を吐ききって、肩から深く息をする。何故か涙が溢れ出る。
「ああ……クソ……」
――ダメだ。ダメだダメだダメだ。頭がぐちゃぐちゃだ。僕のこれまでの生きがいは、レオンと張り合うという生きがいは打ち砕かれた。僕はこれからどうしたらいいんだ。僕は、レオンと比べる以外に自分を図る方法を持ち合わせていないのに。
「クソが……」
どこかの家の壁に背中から体重をかける。ズルズルと地面まで落ちる。自然と顔を両手で覆う。
――頭が、頭が痛い…………。
「あら、酷い様子ね」
アノールが顔を上げるとそこにはヨルノがいた。壁に片手を付いてアノールを真上から見下ろしていた。長い黒髪がさらりと頬に落ちる。
「なんで……」
――なんでヨルノがここにいる? 戦場にいるはずじゃ。
「アノール、選抜に落ちたんだね」
アノールは不躾な質問に目を背ける。その様子を見てヨルノは微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ合図は今だ」
ヨルノはマントから笛を取り出してそれを吹いた。ピーッと鳥の鳴くような音が響く。
「今のは……?」
ヨルノは微笑んでごまかす。アノールの手を握ると、よいしょと引っ張ってアノールを立たせた。アノールはなんとなく立ち上がったが、未だヨルノの行動の意味は分からなかった。
「まだ足を止めるには早いよ、アノール。ちょっとついておいで」
教会では精霊体と能力を授かったエールが教会を飛び出していったところだった。カリオがレオンに尋ねる。
「なぜエールを先に行かせたんだ?」
「それは、儀式を終えなければ離してくれなさそうでしたから。エールは早くアノールを追いたかっただろうし」
「まあそれはそうだな。能力を賜る機会を放棄するなんてことは、神への侮辱にあたる」
「……エールは軍に所属することになるんですか?」
「本人が強く拒否した場合はその限りじゃあない。あの子は若いし女の子だしな。だが、なにせ戦場に立つ能力者の報酬は凄まじい。忘れて生きようとしても、戦場に出れば報酬を受け取れるという可能性は常に頭に残り続けるだろうよ」
レオンはエールの性格を考えた。
――エールは責任感が強いし、自分が役立てるところに身を置こうと考えるかもしれない。というか、もしこの村に残ったとしても、アノールはエールにすら劣等感を抱くかもしれない。いや確実にそうなる。アノールは一体どうなる……。
オニクスは出ていったアノールを能力で追っていた。
――誰かと合流して、一緒に歩き始めた。さっきまで座り込んでいたのに。これじゃあ指示した位置にエールが辿り着いてもそこにアノールはいないな……。そもそもこの誰か、は何者だ?
オニクスがヨルノにもっとよく触れようとしたその瞬間、オニクスの能力圏内に突然大量の何かが現れた。一拍遅れてそれらが人間だと気付く。大量の人間が、突然この村に現れた。軽く数百人以上の敵兵が。こんなのはオニクスには初めてのことだった。兵を隠していたとかそんなちゃちな話ではない。複数の能力を使った大掛かりな仕掛け。オニクスは慌てて立ち上がる。異変を受けて能力の範囲を限界まで広げる。さらなる異変に気付く。
「砦が……落ちている……!?」
カリオに駆け寄りながら大声を出す。
「まずい……まずいまずいまずい! これは何年ものの計画だ! 敵の目的は御神体!」
「どうした突然」
オニクスは天井の人影を察知した。
「カリオ! 天井を吹き飛ばせ!」
それを聞いてカリオが動き出す前に、教会の天井は爆発し瓦礫が三人に降り注いだ。
並んで歩きながら、アノールはヨルノにふと尋ねられた。
「ねえアノール、質問なんだけどさ。一騎当千の兵を倒すにはどうしたらいいと思う?」
あまりにもざっくりとした質問にアノールは首をかしげる。
「え……? えっと……同じように一騎当千の兵をぶつけるとか?」
ヨルノはうんうんと頷いた。
「じゃあ、敵にはそのカードが二枚あるのに、こちらは一枚しかないならどうする?」
「それなら、敵のその強いカードを相手にできるほどに、普通のカードをたくさん集めるしかないんじゃ」
ヨルノはそれを聞いて嬉しそうに振り返った。
「そう。一騎当千の兵を倒すには千以上の兵を用意すればいいんだよね」
アノールは、ヨルノが何を言っているのか薄々理解していた。急に教会の方が騒がしくなったこと、それどころか村中の様子が騒々しいことにアノールは気付いていた。それがヨルノの吹いた笛から始まったことにも。それでもなおアノールがヨルノの元を離れなかったのは、数時間前に自分が付けた「ヨルノには敵わない」という結論に従っているからだった。
「え……?」
アノールはおかしな光景を見た。北の丘の稜線が、人で埋め尽くされている。それらはこちらに向かって丘を下りてくる。兵士と、制服を着ていない傭兵たち。敵兵だ。敵兵がこの村に向かってきている。
――砦は……砦は落ちたのか。そうだ落ちるって話だったな。そうだよ、僕はそれを知っていたじゃないか。敵に傭兵がいるとも知っていた。だからこれからこの村は、傭兵によって襲われ、略奪され、蹂躙されるんだ。今やっと繋がった。いや嘘だ。僕はそれを知っていたのに、どこか楽観視していて、それを無視していた。これは、僕のせいなのか? 僕のせいじゃないか? なぜそのことを教会で言わなかったんだ。僕は……。
ヨルノは足を止めたアノールの手を引っ張って、気持ち大きく足を上げて歩いていく。
数十秒後、ヨルノが足を止めたのは、アノールの家の前だった。
「生きてるかカリオ!」
オニクスは自分を下敷きにしていたレンガをどかして立ち上がった。能力で周囲一帯を見渡す。
――突然湧いた敵兵は、村にいたクレアムルの兵が相手をしているようだ。しかし数が違う。彼らが機能しなくなるのは時間の問題だろう。
カリオは初めから何もなかったかのようにそこに立っていた。
「ああ、俺はまあ。レオン君は?」
「適当に端の方に投げ飛ばした。本人が丈夫なら生きてるはずだ」
「この期に及んで子供の心配ですか。カリオ殿は変わりませんね」
三人目の声がした。オニクスは足で瓦礫を除けてそちらに体を向ける。カリオは目を見開いて、首だけをゆっくりとそちらへと回した。教会の奥から、マントを羽織った金髪の女性が現れた。女性は右手をマントから出すと、上から大きく回して執事がそうするように礼をした。
「初めまして、オニクスちゃん。
自己紹介が終わるのを待たずにオニクスは右手を上げる。それと同時にレンガの束がガラガラと音を立てて宙に浮く。オニクスが右手を左の方へ力強く振ると、レンガの山がガルに襲い掛かった。
しかしレンガはガルがいるはずの場所を、空を切って飛んで行った。ガルの姿が一瞬にして消えた。レンガが壁に当たって砕ける。数秒後、ガルは礼をした体勢のまま先ほどまでいた場所にパッと現れた。
「これが私の能力。そして――」
ガルは親指と人差し指を立てた右手をオニクスに向けた。カリオが振り返って「避けろ」と叫ぶ。オニクスは能力を使って自身を空中に投げ飛ばした。オニクスがつい今までいた空間に果物大の小さな爆発が起こる。オニクスは爆発に目もくれず空中を蹴ってガルに接近する。
「なら直接叩き潰してやる……!」
指先の照準を避けるためにジグザグに折れながら空中機動し、ガルの頭上まで来たオニクスは力強くこぶしを振り下ろした。しかしこれも姿を消す能力で回避される。着地したオニクスは初めて自分の能力の欠点に気付いた。触れて、力を加える能力。触れる対象がいなければ、いなくなれば、当然力は加えられない。
――ならば力を加えるべきはヤツではなくやはり瓦礫。ヤツが二度と現れることのできないように瓦礫の嵐でこの教会を埋め尽くして……。
オニクスの目の前の空間が「ボン」と軽く爆発した。もろに食らったオニクスは地面を二度跳ね、カリオの足元に転がってきた。ガルは右腕を構えたまま再び同じ位置に現れた。
「――そしてこれもまた私の〝力〟。オニクスちゃん、私の事は御存知ないでしょうか?」
オニクスはフラフラと立ち上がりながら、ガルを見返して笑って見せる。
「おばさんのことは……ッ……知らないなあ。期待の新星なもので」
痛みには鈍いはずの精霊体でなお体中が痛む。
――能力で体を支えてなんとか立ち上がったけど、既に大事な骨が何本も折れてる。あの爆発はもう一度は喰らえない。
「あら、それでこの程度ですか?」
「子供に勝って威張る程度のおばさんに侮られたくないんですけど?」
「あは。確かにちっちゃいですね。それなのにもう育つ余地がないなんて。可哀想に……」
「旬を過ぎた女の僻みは虚しいね。残念だけど、私はこれから成長期なんだ」
オニクスはこのまま舌戦になるかと脳を回していたが、カリオが割って入った。
「オニクス、ここは俺に任せて外の相手をしろ」
「は? 何言ってるんだカリオ。投げ上げるからここら一体を更地に……」
「そんなことを言い出した時点でお前にあいつの相手はもう駄目だ。さっきのあいつの能力を見なかったのか? そんなことをしたって避けられる」
オニクスは細く息を吸う。多少ためらったが、一つため息をつくと「すぐ戻る」と残し、空中を蹴って外に飛び出していった。カリオはそれを見届けてから、ガルに振り返った。
村は混乱の最中にあった。一目散に逃げ出す者はともかく、荷物を纏めて逃げようとする者は荒くれの傭兵に襲われ略奪される。国の兵士が村人を守ろうと戦っている。アノールは幻想の中にいる気分だった。自分の家の前に兵士と村人の死体が転がる様を見ても、それが現実味を帯びたもののようには思えなかった。
ヨルノはアノールの家の扉に手をかける。
「おじゃましまーす」
扉の中を覗くと、中にいたアヤメがちょうどこちらに目を向けたところだった。
「アノール……?」
「お母さん」
アヤメは家から出てアノールに駆け寄る。ヨルノはそれを避けて扉を閉めた。
「アノール! 無事でよかった!」
アヤメに肩を掴まれアノールは思わず涙が出た。それが何の涙なのかは分からなかったが、しかし涙が止まらなかった。アヤメはその様子を見て、ポンポンと肩を叩き微笑んだ。
「ほらほらシャキッとしなさい。とにかく早く、逃げないと。教会はどうなったの? レオンは? エールちゃんは?」
「あ……教会は。えっと……」
アノールは何をどういったらいいか言葉に詰まる。
アヤメの背後、ヨルノは腰の剣を抜いて両手で持つと、アヤメを背後から刺した。
(…………は?)
突然の事だった。一瞬が長く感じられた。初めに目に付いたのは剣が突き出している母親の胸。次に目が向いたのは自分の胸をつつく剣先。最後に母親の顔。唖然として自分の胸を見下ろしていた。傷口から血が服に滲んでいく。赤色はすぐに広がる。
ヨルノは思い切り剣を引き抜いた。吹き出した血がアノールの視界を染める。顔に手をやる。赤くなった自分の手をぼんやりと見る。視界の奥でアヤメが膝から崩れ落ちた。そのまま前に、アノールの足に倒れ込んだ。アノールに縋りつくような形になる。その身体に力は既に無く、ズルズルとアノールの足を沿って地面まで落ちた。アノールはただ眺めていた。背中からも血が湧き出ているのを見て、ああ、背中から刺されたんだな、などと思っていた。
「アノー……ル……」
アノールの脳はその声を拾って慌てて思考を再開した。膝をついてアヤメの顔に近付く。
「レオンに……これ……を……」
アヤメの指から、何か小さなものが転がり落ちた。きらめく、銀色の。花と
――これは。レオンの親の形見の。
「……うん。レオンに必ず届ける。届けるから……」
指輪を拾い上げる。涙腺が決壊する。
「あ、あ……お母さん……」
アヤメは目を閉じて微笑んでいた。アノールはその顔に手をやろうとして、でもそうはできず、地面に手をついて泣きじゃくりながらアヤメの横顔に大粒の涙を落としていた。泣いて泣いて、目を拭ってまた瞼を開くと、眼前に剣が迫ってきていた。
刹那の判断。アノールは思い切り上半身を引いてそれを回避した。ヨルノが地面から振り上げた剣はアノールの額を掠めるのみで宙を切った。アノールは母親の死体からすぐさま離れる。ヨルノは剣をアノールの方へ投げた。そのそぶりを見て、アノールは驚いて両腕を前にかざす。しかし剣は投げつけられたわけではなく、アノールの足元、一歩か二歩先のところに落ちた。
「ねえアノール、これでもまだ私に抵抗しないの?」
アノールは自分が現実にいることを思い出した。現実の中心にいる。悲鳴と剣戟、発砲の音が響く村の中心で。世界の輪郭がハッキリする。意識が自分に集まってくる。地面を踏んで立っている。足元には母親の死体。向こうには、その仇。
ヨルノは悲哀と軽蔑の混じった表情でアノールを見る。アノールの涙は自然と引いていた。
「ここまで来て、ここまでされてなお、キミは消極的でつまらない選択肢を選ぶのかしら?」
唾を飲む。
「……ああ。お前には何もしない。僕はここでは死ねないから」
ヨルノはそれを聞くと「そう。期待外れだね」と言い残して踵を返した。
ヨルノが背を向けたのと同時にアノールが走り出す。その足音はヨルノへ向かってきている。聞いてヨルノは喜びと共に振り返った。――さあどう来る?
ヨルノは剣が振り下ろされるのに賭けて、腕を上に構えながら振り向いた。
「ぐっ……!」
投擲された剣がヨルノの腹部に直撃する。剣は横向きの回転を伴っていたので、脇腹に横から切り込むかたちになった。剣はマントを越え肉まで食い込んだのち地面に落ちた。
ヨルノがよろめいた隙にアノールは近くの兵士の死体まで駆け寄って銃を取って構える。弾が装填されているかは賭けだったが、見よう見まねで撃鉄を上げ引き金を引いた。火薬の爆ぜる音と共に弾丸がヨルノの胸を貫く。傷口から血が細く噴き出し、ヨルノは片膝をつく。
アノールは銃を投げ捨てながら剣に駆け寄り拾い上げると、ヨルノの頭上から振り下ろした。ヨルノは両手を交差させてそれを受け止める。上にしていた左腕の肉に刃が入り骨まで届く。
剣の勢いが完全に止まると、ヨルノはすぐさま自分の右手でアノールの右手首を掴んだ。それと同時に自分の左足を後ろから回し、まっすぐにアノールの股に通す。アノールから見て、右手首を掴まれ向こうに持っていかれるような形、自分の胸がヨルノの背中に付く体勢。右腕を引こうとしたが既に遅く、アノールは地面に叩きつけられた。
ヨルノはアノールの足を左腕で払い、右腕を右手で引っ張りながら、膝を使って背中でアノールの身体を押し飛ばした。アノールは地面にぶつけられて自重が体にかかる。肺の空気がカフッと音を立てて喉から抜ける。起き上がろうにも息が上手く吸えず身体が動かせない。数秒後には首に刃が置かれていた。
ヨルノも余裕とは言えず、大きく深呼吸をして息を戻していた。剣を持っていない方の左腕で脇腹の傷を抑える。
「結構……、やるね……。組み立てを考える余裕があったなんて……」
アノールはそれを誉め言葉として受け取ることはできなかった。褒めた人間と状況もそうだが、それを抜きにしても、褒められる余地などないと感じていた。
――完敗だ。膝をついたのは攻撃の方向を絞るためであり、そのまま懐に潜り込むためでもあったのか。これが実践。戦場の傭兵。力で劣る女の子に、いともたやすく投げ飛ばされた。
「お分かりいただけたかな……。これが精霊体のアドバンテージ。痛みに鈍く、傷もすぐ治る。胸の銃痕はもう塞がり始めてる」
ヨルノの胸にはもう出血が無く、白い精霊が傷口にわさわさと張り付くのみだった。
「この腕とお腹が閉じるのには……まあ数十分かかるだろうけど。欠損しても数日すれば再生する。これが能力者と非能力者の〝前提〟の差だよ」
ヨルノは首に置いていた剣を持ち上げると、アノールの隣で腰を曲げて剣を地面に置いた。アノールの頭には疑問が浮かぶ。
――そもそもこいつの目的は何だ? わざわざ僕を煽って、不利な状況で戦った理由は一体。僕に敗北感を与えるためとしか考えられないんだけど。
考えるアノールの視界が陰る。ヨルノに上から覗き込まれ、その黒髪がまた顔にかかった。髪の毛を滴って血の雫がアノールの頬に落ちる。ヨルノの顔は色々な血を浴びて酷く惨い印象になっていたが、アノールには不思議とそれでも綺麗に映った。
「ねえアノール、私は…………」
そこまで言ったとき、別の誰かが二人に声をかけた。
「あー、いたいたヨルノ……って、その傷どうしたの?」
ヨルノは腰を曲げたまま首を回してその人物を認めた。
「ギラフ……遅いよ。早く教会に行って……」
現れたのはもう一人。アノールの姿を見つけてブレーキをかける。砂埃が上がる。
「アノール……? アノール!」
ギラフはヨルノに、エールはアノールに近寄ろうとして、二人ともその足を途中で止めた。両者ともお互いに驚きの表情を向ける。
「ギラフさん!? なんでここに」
「……そうか。まさか、エールちゃんもか」
言い終えて、ギラフはエールに笑顔を向けた。口が裂けたようにカパリと開いたその不気味な笑顔は、呼び名に違わない醜悪さだった。
レオンが意識を取り戻すと、まず全身の激痛に襲われた。
――この痛みは……骨折か。死ぬほど痛い。……そもそも俺はどこにいるんだ? 暗い。最後の記憶は……落下してくる天井。天井の下敷きになっているのか。いや、下敷きになる前にオニクスによって壁際に投げ飛ばされたはずだ。俺が今こんな状況なのは、そのおかげなのか、そのせいなのか……。
レオンの耳に、かすかな音が届いた。人間の会話。しかし内容までは聞き取れない。
――そうだ、オニクスとカリオさんはどうなったんだ。どうにか内容を聞き取りたい。
レオンは歯を食いしばって激痛に耐え、腕に力を入れて上半身を持ち上げる。レオンの首に乗っていた瓦礫が少し持ち上がり、視界が開く。教会の中央で、男女二人が立っていた。
爆発が起こった。カリオの首が宙を飛んだ。体が付いている方の首からは噴水のように血が噴き出す。ひとしきり噴き出すと血は流れなくなり、代わりに傷口からは赤い精霊が漏れ始めた。カリオの死体は切断面から精霊となって解け、空気中に溶けていく。次第にレオンの頭は回り始める。
――なぜカリオが死んでいる? 女は誰だ? オニクスはどこへ? エールは、アノールはどうなった? 外から聞こえてくる銃声や悲鳴はなんだ?
(敵の狙いは御神体……そうか、伏兵がいたんだ。村は今、襲われているのか……)
――誰かが守らないと。この村が失われてしまう。この村は、俺に残された全てなのに。
消えゆくカリオの身体を眺めていたガルは、背後で瓦礫の崩れる音を聞いた。ゆっくりと振り返る。そこには傷だらけの少年が一人、立っていた。折れた腕をぶらりと下げ、血の流れる頭も持ち上げられずに立っていた。まるで死体の首を引っ張り上げたかのようだった。ガルは彼の足元に一枚の紙を見つけた。それこそが彼女の求めていたものだった。
「ああ、手形か…………。そう、私の目的は手形の回収。そうでしたね……」
ガルの妙な物言いを聞いて、レオンは足元にピントを合わせる。そこには一枚の紙が落ちていた。正方形の紙。古く黄ばんでいるように見えて、しかしそれでいて傷一つなくつるんとした紙が落ちていた。
何か大事な教えが書かれているわけではない。ただ、誰かの右の手形がかたどられているだけ。しかしそれは赤い精霊を纏っていた。赤い精霊を司る神。クレアム。この手形こそが御神体。それを認識した瞬間、レオンの朧げな意識は実像を結んだ。レオンは勢いよく右手を手形に押し付けた。
「ギラフさん……なんで、なんで生きて、ここに……」
エールは顔面蒼白で尋ねる。それはギラフへの疑問なのか、自分自身へ問いかけたものなのか分からなかった。ギラフは嗤う。
「嗚呼エールちゃん。この期に及んでまだ私を信じようとしているなんて、いじらしいよ」
エールはそれを聞いて顔を歪める。
「じゃあ! ギラフさんは最初から全部知ってたんですか!」
「そんなもんじゃないさ。積極的に加担しているよ」
「……それは、どういう」
「そう。砦を落としたのは私。だって、味方に毒を飲ませるのは簡単だからね」
ギラフは軽く両手を広げて語った。エールは戦慄のあまり口元を抑えて数歩たじろぐ。
「じゃあ……砦の皆さんは……」
「死んだよ。全員」
砂埃。ギラフはヨルノに蹴り飛ばされた。音を立てて地面にぶつかり転がる。今までギラフがいた位置には肩で息をするエールが立っている。
体を動かせず、首だけ上げて二人を見ていたアノールには、何が起こったのか理解できなかった。まるでエールが瞬間移動したかのように見えた。ヨルノもほー、と声に出す。
「脚力強化か。出力もかなり高め。やっぱりいい能力を貰えたね。いい色をしていたからそうだと思った」
――エールが……能力を授かったってことか? 僕を差し置いて?
地面に倒れたままのギラフに向かって、エールが嗚咽混じりで吐きつける。
「なんで、なんで! なんでなんですか!」
ギラフはガハッと血を吐いた。顎を真っ赤にして体を起こす。地面に腰を下ろしたまま蹴られた横腹をさする。――腹を蹴られて宙に浮くって、普通なら起き上がれないぞ。肋骨が砕けているし内蔵へのダメージも大きい。でもそれは、普通の身体だったならの話。
「ダメじゃないか……狙うなら首だよ。頭を蹴り飛ばせば勝ちだったんだ。精霊体はそれでしか殺せない。斬撃ならともかく、体への打撃や射撃は効果が薄い」
エールは激しい動悸の中、かすれ声をなんとか絞り出す。
「だから……! 私はそういうんじゃ……そういうのを聞きたいんじゃ、なくて……!」
ギラフは立てた右膝に右肘をかける。余裕綽々の薄ら笑いは依然崩れない。
「いーや。偶然だったとしても君はその力を手に入れてしまったんだ。容易に人を殺せる力をね。そしてそれを私に向けた。これはもう殺し合いの世界だ。そういう話なんだよ」
エールは自分のすねに残った感覚を意識する。言い返せずただギラフを睨む。ギラフはよいしょと立ち上がり、手を組んでうーんと背を伸ばす。背骨の関節がバキバキと鳴る。のっそりとした動き、長身に長い四肢。両手を広げながら迫ってくる。エールの背筋に悪寒が走った。
「さあ、次は私の番だ」
再びの砂埃。しかし、こめかみを狙って振り上げたその右足はギラフの左腕で止められる。右足はギラフの左前腕にめり込んでその骨をくの字に曲げた。しかし両足とも宙に浮いたために隙ができ、ギラフの右手でその右足を掴まれてしまう。ギラフは腕を前に伸ばし、エールはぶらりと逆さに吊るされた。金髪が下りて地面に着く。
「はは、捕まえた。可愛い下着だね」
エールは左脚を振るがギラフの身体には僅かに届かない。二人を見ていたアノールが呟く。
「え、なんで……」
今のエールの攻撃はアノールの目にも追える速度だった。さっきギラフを蹴り飛ばしたそれと比べて明確に速度が落ちていた。ヨルノはギラフがさっき地面に溢した血の跡に目をやる。
「私の風下で息を荒げすぎたね。動いてみるまで体の痺れには気づかなかったかな?」
エールは左脚をギラフの身体ではなく、足を掴む右腕に向けた。ギラフはそれを避けるためにエールを手放す。エールの身体が地面に落ちる。頭から落下し、反射的に両目が閉じる。すぐその場を離れなければと再び目を開いたとき、眼前には水滴が降ってきていた。また瞼を閉じるが間に合わない。左目に落ちる。エールは足を使ってギラフと距離をとる。ギラフはエールを見つめたまま舌で唇を舐める。
(な、なに、今のは。……舌なめずり。舌。よだれ……?)
途端エールは左目を抑えた。
「眼が……眼がから………え? い、いた、痛い。痛い、痛い痛い痛い痛い」
エールは左目を抑える。アノールは居ても立ってもいられず、よろめいて立ち上がる。ふらつきながらエールに駆け寄る。エールは顔を抑えて少しずつ地面に崩れていった。駆け寄ってきたアノールも押しのけて、腰を曲げて小さくなる。
「痛い痛い痛い……」
アノールは押しのけられて立ち止まって、ついその異常な光景に数歩引いた。アノールには、エールの姿がエールではないもののように見えた。何か触れるべきではない、それまでの彼の日常には無かった、あってはならないものかのように。
――これは……これは何だ? 一体全体どうしてこんなことになってるんだ?
「ああアノール、君にもっと信仰心があって能力を手に入れていたなら、彼女を守れたかもしれないのにね」
遅れて歩いてきたヨルノが大げさっぽく言った。アノールの思考を逃さず捉える強烈な煽り。既に限界を越えたアノールの精神を更にかき混ぜる。
(僕が? 僕の信仰心が足りなかったから? 僕には信仰心以外に何もなかったのに……?)
「ちなみに精霊体に適合するかどうかに信仰心は関係ないんだけどね」
――――は?
「適合するかどうかは生まれつきのものなんだ。そういうシステムなんだ。神なんて、いないんだよ」
レオンは立ったまま目を覚ました。
「……?」
辺りを見渡す。ぼんやりとした、淡い虹色の霧に囲まれた空間。感触があるんだか無いんだか分からない足場。夢の中のような……でも意識はある。そうと気付くと、辺りの景色が少しずつ識別できるようになってきた。瓦礫の散乱した教会。自分に向かってきている女性。切断面から大気に溶けつつあるカリオの死体。しかしそれらは時が止まったかのように、もしくは同じ瞬間を繰り返しているかのように、ともかく、同じ場面から動きはしなかった。
「これも運命……」
声の方向にレオンが向くと、そこでは女性が一人、カリオの死体を見下ろしていた。レオンはその姿を見て状況を理解した。なぜなら彼女は、教会の神像と同じように三対六本の腕を持っていたからだ。
「クレアム……様……?」
女性はレオンの方に振り向いた。いたって普通の人間かのように喋る。
「こんにちは、レオン。初めまして。私はクレアム。あなた方を庇護する神です」
アノールの目はぐるぐると回る。ヨルノのセリフが頭蓋の中を跳ね回る。
――適合するかは生まれつき。じゃあ僕は今まで何をしていたんだろう。教会で祈りを捧げて、教えを学んだあの時間は? 勝てないことに努力することから逃げて、逃げ込んだその時間は何の意味も為さなかった。レオンに唯一勝っていると誇らしく掲げていたものは一体なんだったのか。それだって最後の最後にレオンに追いつかれちゃったし。僕は逃げて逃げて、何も為せず、それは自分の怠惰で、それをレオンのせいにして、僕は、僕はなんて醜いんだろうか。どんなに酷い生き様だろう。僕は、何のために生きてきたんだろうか。
「そんなアノールに話があります」
返事などしないつもりだったが。
「私たちは、キミに適合する手形を所持しています」
そんなことを言われては目を上げてしまう。
「アノール。〝魔女のよすが〟においで」
人のよさそうな笑みと共に、アノールの前に右手が差し出された。
「ここは神域。あなたたちの世界と重なっていて、それでいて僅かにズレた場所。人間では適合率が高い一部の者のみが立ち入れる、神の領域」
言いながらクレアムは六本の腕のうちの一つをガルの胸に置く。クレアムがそのまま腕に力を入れると、少しめり込んだ後、ポフンと音を立てて腕が胸を通り抜けた。クレアムが胸から手を抜くと、空いた穴に霧が流れ込むようにして胸は元に戻った。
レオンは恐る恐る口を開く。
「その女を殺してはもらえないのでしょうか」
「ごめんなさい。今の私にそれはできません」
「じゃ、じゃあ……」
「いえ、それは私に限ったこと。力を振るうのはあくまであなたたちです」
レオンは思い出した。自分は能力を手に入れるために手形に触れたのだった。気付くとクレアムの左の手の平が目前に、壁に手を付くようにして広げられていた。
「私と手を合わせれば、能力を授けましょう。……とはいえ、あなたほどに適合率の高い者は滅多にいない。どの能力を授けるか迷うところですね」
クレアムは構えた手はそのままに、別の腕の一つを口元にやり、脇を見て考える素振りをした。レオンは恐れを振り切り、なりふり構わない要求をした。
「その女に勝てる能力は、ありますか」
まるでその申し出が来ると分かっていたかのように、クレアムはすんなりと受け入れた。
ギラフはヨルノの顔に一瞬滲み出た恍惚の表情を見逃さなかった。精神的に追い詰め絶望させてから救いの手を差し伸べるマッチポンプ。その趣味の悪さ。アノールは気付いているだろうか。そもそも自分を追い詰めたのが目の前の女だということに。その手を取ったが最後、死ぬまでヨルノの玩具とされることに。
とはいえギラフも人の事を言えない程度には性格が悪いので、ヨルノのすることを止めようとはしない。
アノールは差し出された手を取ろうと自分の手を伸ばす。
これを止められるとしたら、ヨルノのその表情を見逃さなかった別の人間のみ。
「ダメよ……」
アノールの右腕はエールに掴まれた。その場にいた三人が一様に驚く。
(ギラフの毒を目に受けて動くだって!? 私だって痛すぎて五分はのたうち回るのに)
(いや、目を潰したのか。確かにそれなら私の能力による痛みじゃない。精霊体で耐えられるレベルだろうけど……)
エールの閉じた左目からは血が流れ出ていた。ギラフの口からは軽い笑いがこぼれた。
「はは」
――面白い。実際、私の毒を粘膜に浴びたときに有効な対処はその部位を除去することだ。精霊体ならその判断ができる奴もいなくはないが、しかしエールちゃんが精霊体を獲得したのは数分前のこと。ただの少女が自分の目を突くことができるか? いやただの少女ではないか。エールちゃんは戦場に身を置いていたのだ。だとすると、この村の三人の中で最も覚悟が決まっていたのはエールちゃんだったのかもしれない。
……まあ、他の可能性もあるとするなら。
「愛の力とか……」
ギラフは小さく呟いたが流石に青すぎて自嘲した。
「だっておかしいもの……私たちが悪いわけないじゃない。悪いのは全部あんたたちよ」
エールの手の平の温もりはアノールの正常な思考を呼び覚ました。
(僕は、何を言われるがままにヨルノの手を取ろうとしてたんだ)
アノールの目に光が灯ったのを見てヨルノは舌打ちする。だがまたすぐに張り付けた笑顔で不機嫌な表情を隠す。そして前に出していた手でアノールの右手をパシッと取った。
「残念、この手はもう取っちゃった。アノールはもう私のもの」
「何言ってるの? アノールは私のものよ」
「キミが掴んで止めなかったならもう私の手を掴んでいるところだったのに?」
「でも焦って自分から掴んだのはそっちの方よ。惨めねブス」
二人の少女は睨み合う。
「…………?」
アノールはぼんやりとそのやり取りを眺めていた。
――どういう展開だ? どっちのものとかそういう問題なの? そもそも今の問題ってなんだ? ヨルノの目的は、僕をスカウトすること……だ。この村に来たのは他の目的があるみたいだけど、今は僕の方に執着してる。僕とエールにとって目下の問題はこれだ。僕を誘うために僕を追い詰め、自分から手を取らせた。……って、そんな必要ある? もしエールからのギラフ経由で僕らの関係について知っていたとしても、そこまでする必要はあるか? 多少僕のコンプレックスをつつくだけでスカウト自体は成功しそうだけど。わざわざお母さんを殺したのは……僕を焚き付けて精霊体の優位性を見せつけるためか。でもそれにしたってそんなやり方をしなくてもいくらだって方法はある。合理的じゃない。つまりヨルノという人間は、仕事よりも私情を優先する人間で、無茶苦茶に性格が悪い、ということになる。
「ふふ、言葉が汚いよ。育ちが知れる。あ、そういえば捨て子なんだっけ?」
「あなたこそ、どうせまともな愛情を受けて育ってないくせによく言うわ。私はちゃんと、この村の人に気に掛けられながら育ったのよ、あなたと違って。ブス」
ヨルノは反撃に詰まる。
「い、いや……」とアノールが手を引こうとした。しかしアノールの手を掴んだ両者とも放そうとしない。面白がってギラフが一石を投じる。
「やっぱりアノールくん自身にどうするか決めてもらわないとね」
アノールは「お前何を無責任な」と視線でギラフに訴えたが、ギラフからは「さあどうする?」という憎たらしい愉悦の笑みが返された。
唾を飲む。アノールは手元の二人を見た。二人もアノールを見る。
「僕は――――」
ガルはそれを見た。レオンの身体の周りに滲み出た霧を。キャンバスの上で混ざった水彩絵の具のように淡い虹色の霧。レオンが手形に手を付いた途端にそれは現れた。間もなく霧は宙に溶けて消えたが、ガルは見逃さなかった。それは間違いなく神域の霧。その衝撃は、カリオを殺してから放心気味だったガルの意識を叩き起こした。
――まさか、この少年が神域の適合者だって? こんなところで大凶を引くなんて。いやでもそういうこともケアするためにヨルノを早く現地入りさせてこの子たちの素養を図ったはずなのに。なんで報告が無いの? この計画に二年以上かけてるのに。いやでも確かに報告を受けていたとしても今更計画は止められなかったけどさ。それでも気持ちの持ちようってあるじゃんか。ああもう、嘆いても仕方ない。やられる前にやらなきゃ。
レオンの身体の傷が急速に塞がっていく。ガルはマントから右腕を出してレオンに指先を向ける。
――そう、精霊体への換装って、そのとき既に傷だらけだと数秒以上の時間がかかるんだよね。よく知ってるよ。ともかくラッキーだ。これなら確実に首を飛ばせる。
ガルがいざ爆発させんとした瞬間、ガルの身体側部に強い衝撃が加わった。吹っ飛ぶ。
(……!?)
高速で回転する視界の中、ガルは教会の壁にぶつけられるかと体を丸めて身構えた。しかし実際は地面にぶつかり転がることになった。二度回転したところで両手を地面に付き、転がる勢いを使ってピョンと体を起こす。両足で踏ん張って勢いにブレーキをかけ、顔を上げて見渡した。そこには教会の面影は無かった。外壁すら今はない。
そこにあったのは、瓦礫の渦。嵐に荒れる波のような。ガルの身体を弾いたのはこの瓦礫の渦だ。その渦の中心に、宙からオニクスが降り立つ。渦は瓦礫に留まらず土や泥、そして大量の死体を巻き込んでいた。死体は瓦礫にぶつかり肉片と化し、血と内臓を吐き出す。そこには殺戮の渦があった。
――オニクスちゃんがなぜ今ここに戻ってきたのかは一旦置いておこう。大事なのは、
私が今戦闘で使えるカードは〝
瓦礫と肉片の波が渦から放たれる。家の一つ二つならば軽く下敷きに出来る大波がガルの頭上を覆う。ガルは辺り一面が影となったことに思わず冷や汗をかいたが、危なげなくそれをかわした。ガルの姿は一瞬にして消える。瓦礫の波が地面に打ち付け、轟音と共に地面を揺らした。
ガルの視点では、〝領域の移動〟の発動と共に景色が霧に包まれた虹色の空間に代わり、降ってきた瓦礫はガルの身体にぶつかるとその部分がボフッと煙のように解けて宙に舞った。〝
よろけたガルは驚き、困惑し、殴られた頬を抑え、何が起こったのかを理解しないままに次のこぶしがみぞおちに入った。息が抜け、呼吸できずにただお腹を抑えて背を丸くする。レオンのローキックで両足を持っていかれ、膝から落ちたところで顔面に肘が入る。ガルは、ともかく考える前に〝領域の移動〟を解除した。霧は晴れ輪郭のはっきりした世界に戻ってくる。辺りは瓦礫の海。しかし変わらず目前にレオンはおり、今度は腹に回し蹴りが突き刺さった。ガルはたまらず口から胃液を吐く。
(マズい負ける。多少のダメージは覚悟しろ!)
ガルは目前の空間を爆発させた。ガルとレオン共に衝撃を受け、ガルはその隙に爆発の勢いも使って地面を転がり距離を開く。すぐさま起き上がり、同時に指先をレオンに向ける。
(獲った!)
その右腕は上げてすぐに地面に叩きつけられた。何人もの人間に上から押さえつけられているような感覚。ガルは右腕どころか全身がピクリとも動かせられなくなっていた。気付けば周囲に木片やレンガが浮いている。背後に立つオニクスはガルを見下ろして言った。
「これで詰みだ。ガル」
アノールは長く息をついて、エールとヨルノの間の空間を見つめて言った。
「僕は、ヨルノの手は取らない」
エールがパッと明るい表情になるその前に。
「だけど、エールの元にも戻らない」
エールの表情は困惑を示した。アノールは腕を振って二人を払う。こちらも言葉を飲み込みかねているヨルノの方へ向く。戦火にある村の中心で。傾き始めた太陽の元。風が丘から吹き下ろす。アノールは深呼吸してから、ヨルノに向かって啖呵を切った。
「僕は、僕のために、お前ら〝魔女のよすが〟を利用してやる。それでどうだヨルノ。僕はお前らを利用して、お前らも僕を利用する。差し伸べられた手を取るわけじゃない。僕は自分から、自分の意志で、お前らの仲間に入ることにするぞ!」
アノールは言い切ってから、勢いよくヨルノの手を取った。
レオンとは違うところへ、レオンでは絶対に来られない場所へ。
ガルの姿が消えた。神域に移動したわけではない。オニクスはガルに上からかけていた力が一気にすっぽ抜けて思わず体勢を崩した。レオンの目にはガルの身体が地面にすり抜けたように見えた。
オニクスは地下に能力を広げる。そこには村中の地下に張り巡らされた地下通路があった。それはともかく、地面にすり抜けていってその地下通路にいるはずのガルの身体すら消えた。レオンはすり抜けた地面を思い切り踏みつけたがそこは硬い地面でしかなかった。オニクスとレオンはお互いの顔を見る。レオンは瞳孔が開いた眼のままに言った。
「……え? まさか。逃げるのかアイツ」
オニクスは力の限りを尽くして地面を漁り返し始めた。
オニクスが持ち上げた中に、土や草、通路を支えていた木の柱などとは別の異質なものがあった。扉だ。部屋の間取りに使われる普通のもの。オニクスはそれを空中に持ち上げて開いてみたりするが、何もおかしなところは無かった。
ガルは近くの家屋の中でその入り口のドアにもたれかかっていた。深く息をして逸る心臓を治める。視点は目前の虚空に向き、自分の命があることへの安堵でいっぱいだった。
「悪いけど、頭を動かして、ガル。作戦は失敗した」
ガルは焦点を少し向こうに合わせる。マントの人間が机に腰をかけて足を組んでいる。長いポニーテールの先が机に乗って広がっていた。
「要件ね。御神体護衛の二人、そのどちらかに充てる予定だったハーキア軍と傭兵合わせて500人強は、そのほとんどがオニクス一人に抹殺された。残ったのも逃げ出した。ヨルノとギラフは数分前に回収した。もうこの村にアタシらの軍勢は一人たりともいない」
聞いてガルは自嘲した。
「ごめんみんな。
「違うそうじゃない」
「あ、えっと……。ありがとうございました、トクワくん。助かりました」
「そうでもない」
〝な〟にアクセントをかける。トクワは呆れて言う。
「指揮官なら指示を出して。逃げるならそうするとさっさと言って。でも、ガルにはまだ何かあるんじゃないの?」
「あ……」
――策ならある。そうだ、思い出した。いつだって私の作戦は成功しない。だから今までだって、次善の策で損切りしながらここまでやってきた。
ガルは膝に手を付いてドアから離れると、そのドアノブに手をかけて言った。
「最後にもう一度、彼らの元へ連れて行ってください」
オニクスが〝強い力〟を加えられない程度の距離、それでいて声の届く位置にガルは地中から現れた。オニクスとレオンが睨む。二人はすぐさま攻撃するつもりでいたが、その姿を見てその意志を一旦鎮めた。ガルはマントを羽織っておらず、その両腕は二の腕のところから先が無かった。今も血が流れ出ている。ガルは二人が足を止めたのを見て話し始めた。
「ありがとうございます、あなたたちが賢くて良かった」
オニクスにはガルの足元の地下にもう一人いるのが分かっていた。その傍にも扉がある。
――この扉自体はさっきからそこに在った。ガルともう一人はその扉から現れた。扉を起点に遠くへ移動する……みたいな能力か。さっきの感じだと、この距離では逃げられる。でもそれで奇襲せずこうして現れているということは。
「……交渉か?」
「いえ違います。ただ、宣言しに来たのです」
「宣言?」と発言を拾ったのはレオン。
「はい。
ガルは一息置いて、少し強い語気で言った。
「私たちの目的は、神を打ち倒すこと。そして中央教会の権威を破壊すること。来たるべき日に、私たちはあなたたちに宣戦布告します」
レオンは眉をひそめる。
「宣言の宣言? 回りくどいな。それをわざわざ教会に伝えて何になるんだ」
「いくつかありますけど、主としては私たちを敵として認識してほしい……とかですかね」
オニクスは少し考えてから返す。
「いいだろう。ただ一つ条件がある。質問に答えてほしい」
ガルは視線と表情で続きを促す。
「カリオは自ら殺されたのか?」
「……いや、彼は私を殺すつもりでしたよ」
「ふーん、いやいいよ。ありがとう。それを聞けて良かった」
レオンには分からない会話が繰り広げられていた。聞こえる言葉そのままの意味でない会話が行われている。レオンはついさっきまで殺意に支配されていたが、この会話を聞いてその熱が冷めてしまった。
――何か、事情があるんだ。背景があったんだ。この事件にはもっと大きな根深い意味があったのでは。
「じゃあ頼みましたよオニクスちゃん。レオンくんも。次に会うときを楽しみにしています」
「ガル……さん。次に会ったら殺します。けど、できるなら殺し合いの出来ない、話し合わざるを得ないような場だと嬉しいですね」
レオンは笑顔でそう言った。ガルはその態度に何か嫌なものを感じ取った。恐怖、畏怖、不気味。それらに類する寒色の感情。
――ここで私に笑いかけることができるのか。こんなにも正義感の強い少年が。……もしこの子が教会側に着くならば、きっと強敵になるだろう。
ガルは「では」と残して地面にすり抜け落ちていった。間もなく地中のガルともう一人は姿を消した。後には静寂が残った。
村人は多くが命を落とし、無事だった者も家を失った。オニクスは家を壊したことを家主たちに謝罪して回っていた。わずかに生き残ったクレアムルの兵は村に残り、死体を地面に並べて整理していた。アヤメの死体もレオンから兵士に預けられる。新入りの兵士はそれを受け取って手押し車で運ぶ。近くで死体の服装を整えていた兵士に話しかける。
「俺は、何か勘違いをしてたよ。戦争って、酷いものなんだな」
彼の目は据わっていた。今日一日だけで幾度も死の淵を見た。目の前で爆弾が爆ぜそうになった。いきなり敵兵に襲い掛かられた。目の前で仲間たちが悉く死んでいった。死に物狂いで剣を振り銃を奪い血を浴びた。今も彼の身体の傷からは血が滲み出ている。
「……お前は休め。後でオニクス殿が手伝ってくれる。手負いのお前がやる必要はない」
「いや、させてくれ。俺は何か手を動かしていないと……」
もう一人の兵士は、何を言っても聞かないと見てそれ以上は言わなかった。
「戦争は、これで終わるだろうか」
「ああ、終わるだろう。ハーキアに言い逃れはできない。必ず中央教会から制裁を受ける」
「そうか。それは良かった」
二人は淡々と死体を並べる作業を続けた。
**
戦争が終結してから四年後、レオンとオニクスは再会した。二人がやってきたのは能力事件担当の治安維持部隊。最強の部隊と称されるその名は〝銀の翼〟。四年前のガルの宣言を受けて、〝魔女のよすが〟を倒すために組織された部隊。
「久しぶり、オニクス」
「ああ、久しぶり、レオン。よくここまで来たね」
「まあ、来るって話だったから。オニクスこそ、教会を辞めて良かったのか?」
「お前に付き合うって決めたからな。まあ他にすることもないし。乗り掛かった舟だよ」
二人へ向かって扉の向こうから、中に入るよう声がかけられる。扉を開いて中に入る。
レオンは被っていた古い軍帽を脱いで新たな仲間たちに挨拶した。
「レオン・メイソンです。よろしくお願いします。魔女はこの手で、必ず捕まえます」
「銀の翼の新入りだってさ」
ヨルノが嬉しそうに新聞を持ってきてアノールの前に置く。アノールはそれを手に取って「へー」と読んでいたが、想像より反応が薄くてヨルノは微妙な気持ちになった。
「意外と驚かないね?」
「そりゃあ、そろそろ学校を卒業する時期だし。銀の翼に入らないわけがなかったし……」
「ああそう……」と興味を無くしたヨルノはフラフラとどこかに行ってしまった。
アノールに驚きは無かったが、しかし感情の揺れ動きはあった。背もたれに大きく倒れて天井を見つめる。右手小指の指輪を撫でながら呟いた。花と蔓の意匠の指輪。
「レオン……もう少しだな……」
「エールちゃんがいなくなると寂しくなるなあ」
「やめてくださいギラフさん」
伸びてきた手を力強く内から弾く。
「ああ。昔はもっとおしとやかな感じだったのに。なんでこうなっちゃったんだろう」
「ギラフさんのせいですよね? 思い切り原因ギラフさんなんですけど」
「そんなあ。私じゃなくて環境のせいだよ」
エールは荷物を纏めてギラフの屋敷を出ていこうとしていた。屋敷の人間たちがエールに声をかける。
「エールちゃーん! 彼氏クンの奪還、頑張ってー!」
「俺たちの仕込んだ足技が男を墜とすために使われるなんて……なんて耽美な……」
エールはそれらに軽蔑の目を向ける。
「まあ……環境も原因ではあるかも……」
「だろー?」
ギラフは門の外までエールを送った。持っていた荷物の半分をエールに返す。
「じゃあ私はここまで。またね、エールちゃん」
「ええ、お世話になりました。ギラフさん」
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