『森の中で…』

 ある日の夕方だった。

 深い森の中で、一人の男があてどなく彷徨っていた。

 男は三十代半ばで、中肉中背の偉丈夫そうな体格をしていたが、人がその顔を見たらぎょっとするほど蒼白で、目が落ちくぼんでいた。

 ノイローゼか……ナップザック一つ背負って、虚ろに歩いている。

 ふと立ち止まって、一本の木をじっと見つめる。

(これにしよう……)

 男はナップザックからロープを取り出した。

 そして、誠に頼りなく木に登って、太い枝にロープを巻き付けた。ロープの先は輪になっている。その輪を首にくぐらせ、枝にぶら下がった。あとは手を離すだけだった。

 ためらいはなかった。この苦しい思いから解放されるのなら、後のことはどうでもよかった。

 男は枝から両手を離した。

 その途端、目の前が真っ暗になった。


 ブチッ。ドササッ。

 男は落下して盛大に尻もちをつき、無様に地面に転がった。

「??」

 訳がわからなかったが、ロープがしまったショックで激しく咳き込む。

 その時、不意に背後から声がした。

「あっぶねぇ。ここがパラティヌスじゃなかったら、あんた確実に死んでたよ」

 若い男の声に、自殺しかけた男……ゲイルと言ったが、心底驚いた。

 こんな森の深いところでは、平素人は近づかない。

 そう思ったから死に場所に選んだのに、至近距離に人がいたなんて。

 同時に恐ろしくなった。もしかすると死神が迎えに来たのではないかと。

 後ろを振り向くのが怖くて、身を縮ませる。

 その肩を威勢よく叩かれた。

「ヒ、ヒイッ!」

 弾かれたように、四つん這いで逃げる。

「何だ元気じゃん。あんたダメだぜ、ヤケ起こしちゃ。地霊がいつも見張ってるから、大事には至らなかったけどさ」

 若い男はしゃがんだまま笑って言った。どうやら人間らしかった。

 恐る恐る目を開けたゲイルの数歩前に、落花生のような輪郭をした、能天気そうな二十代後半くらいの青年がいた。

「し、死神?」

 青年は呆れて言った。

「こんな善人面の死神がいるかっての」

「じゃ、じゃあ天使……」

「どっちかってぇと、俺は天使っつうビジュアルじゃないなぁ。人間だよ、人間。あんたと同じさ」

「えっ……」

 ゲイルがいろんな疑問を飲み込んで、現実に立ち戻ろうとしているのを見て取って、青年は言った。

「落ち着いたかい? まぁ、よかった。あんたは運がいいよ。ここらは感傷の塔に近いから、浄化重点地域なんだ。スタッフもいっぱい配置してるし」

 ゲイルには青年の言っていることがさっぱり理解できなかった。

 それはそうだろう。

 ここはゲイルが死のうとした森ではない。

 映し鏡の世界、因果界の森なのだから。

 ゲイルは声を振り絞るように言った。

「……よく、わからない」

「あー、悪い悪い。訳の分からん話してたわ。えっと、あんた因果界って言われてわかるかい?」

「因果界って言うと……現実とそっくりのもう一つの世界とかって、オカルトに出てくる?」

「そう、それそれ。まぁ、オカルトの代名詞みたいに言われてるけど、ここがその因果界なわけ」 

「えっ……? でも俺は、メーテス郊外の森で自殺を……」

「うーん、詳しくは知らないか。つまり、人間が極限まで追いつめられると、来ちまう世界なんだよ、ここは。ロープがいきなり切れたろ? 切ったのは俺じゃなくて地霊。この土地を守ってる精霊みたいなもんだ」

「そんなものが、実際に?」

「いるんだよ。見えないだけで現実世界にもさ。とにかく、あんたは生きてる。因果界に上がってきた以上、あんたには飲み込んでもらわなきゃならない、ここでの常識がある。まっ、とりあえず、ここじゃ何だから、ゆっくり話せるとこに行こうぜ」

「……」

 ゲイルは頭の中を疑問符でいっぱいにしたが、目の前の青年には、忌まわしい事件を起こそうとした自分を責める気配がない。

 ずっと家にこもりきりになって以来、誰とも会話しなかったのに、まともにしゃべっている自分にも驚いた。

「立てるかい?」

 差し伸べられた手に、恐る恐る掴まる。引っ張られて立ち上がると、意外にもしっかり立てた。

「俺、エリック・アスペクターってんだ。あんたは?」

「ゲイル……ゲイル・サイニス」

 青年の案内で歩き始める。

 ゲイルはまるで夢のような気がしながら、突然開かれた新しい世界に歩を進めていった。















 

 

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