氷の王弟殿下から婚約破棄を突き付けられました。理由は聖女と結婚するからだそうです。

森川茉里

本編

 王宮の舞踏室ボールルームは、硝子細工のシャンデリアの光でキラキラと煌めき、淑女達の色とりどりのドレスが熱帯魚の尾びれのようにひらめいていた。


 室内には高名な芸術家の手による彫刻や絵画、季節の花などが飾られていて、華やかさに更なる彩りを添えている。


 そんな中、私、ベアトリス・トラジェットは心の中で怒りを募らせていた。


「ビビ、今日のドレスも酷いな」


 ビビというのは私の愛称だ。愛称は親族や親友など、特別に親しい者にだけ許す呼び名である。


 正直目の前の男には呼ばれたくはなかったが、婚約者で、かつ王の弟という立場の彼にそんな事は口が裂けても言い出せなかった。


「何か問題がございますか? アス様」


 私もまた彼――イライアス殿下に対して愛称で呼びかける。すると殿下は、秀麗な顔を歪めて「胸が開きすぎだ」と私に対して言い放った。


「申し訳ないがそなたには似合っていない。ただでさえ見た目が派手なのだ。まるで娼婦のように下品に見える」


 下品で悪かったな。好きでこの顔に生まれた訳じゃない。

 くるくると渦巻く蜂蜜色の金髪も、猫のようだと形容されるつり目がちの黄緑の瞳も、残念ながらいまだにご婦人方の注目を集め、愛の狩人などとふざけた事をのたまうお父様に似てしまったのだ。

 反論は心の中にとどめて、私は申し訳なさそうな表情を作った。


「アス様にご不快な思いをさせ申し訳ございません。でも最近の流行りはこのようにデコルテが大きく開いたドレスなのです」


 その証拠に、あっちの令嬢も向こうの貴婦人も、私と似たような形のドレスを身に着けている。

 私一人が注意されるのは理不尽に感じるし、目の前のクソ野郎――いえ、イライアス殿下の視線がしっかりと私の胸元に注がれているのにも嫌悪感が湧く。


 イライアス殿下に限らず胸を見てくる男性は多いので、きっと彼らは本能的にそういう風に出来ているのだろうと思うものの、欠片も好きになれない男性から向けられる性的な視線は大変に不快である。


 なお、殿下の服装に関する発言をまとめて要望通りにしようとすると、神官か年配の女性のような装いが完成する。髪は引っ詰め、服は紺や茶色などの地味な色で、かつ肌の露出を最大限に抑えたもの。特に項や胸元は出してはいけない。

 そんな格好で社交界に出れるものか。本気で言っているのなら馬鹿じゃないのかと思う。


 そんなイライアス殿下は、現国王エドワード二世陛下のたった一人の弟で、軍人として兄王の治世を支えている大変優秀な王弟殿下だというのが世間の評価だ。


 でも婚約者の私に対してはクソ野郎だ。

 この下品な庶民言葉は侍女に教えてもらったものだが、私としては殿下をあらわす言葉として大変気に入っている。決して口に出しては言わないように心がけてはいるけれど。


 殿下との婚約は私自身が望んだものではなくて完全なる政略である。

 私は建国以来の忠臣であるトラジェット侯爵家の娘で、派閥間のバランスやら色々な政治的な力関係を考慮した結果、不本意ながら彼の妃に選定されてしまった。


 貴族の娘に生まれた以上、政略結婚は覚悟していた。しかしイライアス殿下だけは嫌だった。

 というのも、二つ年上のこの王子様は、初めて出会った時から私に対して意地悪なことばかり言ってきたからだ。


 ドレスの色や形はいうに及ばず、髪型や化粧にケチをつけてきたり、鈍臭いと暴言を吐かれたり。


 鈍臭いと思われているのはわざとダンスが下手な振りをしているせいなので、自業自得とも言えるのだが、ただでさえ嫌いな男に言われると腹が立つ。

 なお、私がダンスが下手な振りをしているのは、わざと殿下の足を踏むためだ。せめてもの腹いせの機会がないと、やっかみの視線を向けられ時に陰口を叩かれることもある王弟殿下の婚約者なんて正直やっていられない。


 私に対して意地悪なだけで、他の人に対する時の殿下の態度はいたって模範的な王子様だ。冗談を仰るような人柄ではないが、社交用の笑みを貼り付けてごく普通に応対している。

 また、軍人としての殿下は大変優秀らしく、銀髪に水色の瞳という氷の精霊を思わせる容姿から、『氷の王弟殿下』なんて呼ばれて、世の中のお嬢様方からは憧れの視線を向けられている。


 宮廷に仕える楽団が、舞踏会の始まりを告げるファンファーレを奏で始めた。

 舞踏会は参加者の中で最も身分の高い四名によるカドリールから始まる。

 王宮における舞踏会の場合、現在は国王陛下と王太后陛下、そして王弟たるイライアス殿下と私の四組で踊るのが最近の決まりとなっていた。


「行くぞ、ビビ」


 殿下が手の平をこちらに差し出してきた。

 私は笑顔を作るとその手を取り、舞踏室ボールルームの中央へと進み出る。


 カドリールはゆったりとしたスクエアダンスだ。

 四人で四角形を作り、パートナーを変えながら踊る上に手の平程度の接触しかしない。

 私のささやかな復讐の本番はこの後演奏される予定のワルツだ。

 さりげなくを装って二回くらい踏んでやろうと決意しながら、私はカドリールのステップを踏んだ。




   ◆ ◆ ◆




 ついにワルツが始まった。

 軍人として大変優秀だという噂のイライアス殿下は、一見細身に見えても鍛え上げられた体つきの持ち主である。

 素晴らしい身体能力の持ち主なので、ダンスのリードも大変お上手だ。

 わざと躓いても、テンポを遅らせても上手く誤魔化してしまうのだから本当につまらない。


「カドリールはちゃんと踊れるのに何でワルツやクイックステップだとリズムが崩れるんだ」


 話し掛けられた。今だ。

 私は殿下の足を狙い済まして踏み付けた。


「ご、ごめんなさい、アス様が話しかけてくるから……」


 私はステップに付いていくのに必死だという表情を作り、殿下に返答する。

 すると呆れたようにため息をつかれた。


「今のはかなり痛かった」

「ご、ごめんなさい」

(わざとですよクソ野郎)


 心の中で小馬鹿にしてやりつつ、今度は動揺の表情を作ってわざとバランスを崩した。

 すると力強い手が私の体を支えて上手く周囲にバレないよう取り繕った。


 痛かったのなら痛い表情をすればいいのに、可愛げのない人。

 私は心の中でつぶやくと、ダンスが下手で緊張しているという演技を曲が終わるまでやり切った。




   ◆ ◆ ◆




「いつも申し上げていますが男性と躍るのは緊張するのです」


 カドリールは問題ないけれど、密着するペアダンスだとリズムを崩す理由として、私はいつものように用意している理由を述べた。


「そんな事で王子妃が務まると思っているのか。いい加減慣れろ」

「申し訳ありません」


 そんなに私が気に入らないのなら、いつでもこんな婚約解消して下さって構わないのに。

 うつむいた私に向かってため息をつくと、殿下は私に手を差し伸べた。


「もうダンスはいいから隣で適当に笑っていろ」


 舞踏会ではペアのダンスを一曲だけ義務のように踊ったら、後は殿下の社交の添えものとして微笑み続けるお仕事が待っている。

 

 この人の婚約者という立場なんて私にとっては貧乏くじだ。


 殿下自身を好きになれない上に、殿下の地位や見た目に惹かれるお嬢様方には嫉妬や嫌味を言われるし、結婚後はそこに妃としての義務がのしかかるのかと思うと寒気がしてくる。


 王弟妃の役割は、直系たる陛下の血統のスペアとして殿下の子を産むこと、そして王家の公務の一部を負担する事だ。

 妃に任される公務は神殿やら孤児院やらへの慰問だったり、色々な会合の名ばかり総帥や会長を務める事だけど、普通の世襲貴族の奥様よりも面倒な事は間違いない。


 好きでもない男に身を任せ、更になんでこんな苦労を背負い込まねばならないのだろう。

 不平不満を心の中に押し隠し、私は社交用の笑みを作ってイライアス殿下の肘に手を添えた。




   ◆ ◆ ◆




「明日の王宮の晩餐会やだ……行きたくない……」


「お気持ちお察し致しますよ、お嬢様。あのクソ野郎と一年半後には結婚だなんて……お気の毒過ぎます」


 誰も見ていないのをいい事に、自室のベッドでゴロゴロと殿下に対する愚痴を言いながら転がっていたら、専属侍女のノエリアが声をかけてきた。


 少し年上のノエリアは私にとっては庶民言葉の先生だ。

 殿下の嫌味にストレスを溜め込んでいた私を見かねて、誰にも内緒で沢山罵倒の言葉を教えてくれた。

 ノエリアと一緒に殿下を口汚く罵るのが最近では一番のストレス解消法になっている。


「あの人本当に何なの? 私が気に食わないなら別の人と結婚すればいいのに」


 クソ野郎と私は一年半後に式を挙げる予定だ。

 今からそれが嫌で嫌で仕方なかった。


 なお、両親に訴えても役に立たない。

 私の両親は契約結婚の仮面夫婦で、義務的な夫婦生活で兄と私を作った後は、お互いに自分の好きな事をして生きているからだ。


 お父様は首都の別邸で愛人をとっかえひっかえして楽しく暮らしており、お母様は趣味の商会経営に勤しんでいる。

 二人とも子供を産むという義務だけ果たした後は、好きなようにすればいいという考えの持ち主なのだ。


 そんな自由な生活は同格の侯爵家同士の結婚だからできたのであって、格上の王家に嫁ぐ私はまた話が変わってくるのでは、という抗議は無視された。

 そこを上手く説得し、自分の自由にできるように持っていってこそトラジェット家の娘、などと無茶振りをされただけで終わってしまった。


 それができるのなら苦労はしない。

 私はイライアス殿下が苦手だ。あの人の前に出ると、どうも萎縮して言いたい事なんて言えないし、つい適当に取り繕ってしまう。


「あの野郎はお嬢様が気に食わないんじゃなくて、嗜虐嗜好のある変態野郎だと思うんですよね。そんな奴にお嬢様が嫁がされていたぶられるなんて……あああああああ許せない」

「やっぱりそうよね……結婚後は鞭で叩かれたりするのかしら……」

「私も同行し誠心誠意野郎の魔の手からお守りするつもりではありますが……」


 相手は王族である。反抗するにも覚悟が必要だ。


 はあ、と深いため息をついた時だった。外から自分の部屋のドアがノックされた。


 何事かと思いノエリアに応対してもらうと、そこに居たのはこの首都邸タウンハウスを取りまとめる執事で、王宮から殿下が約束もないのに突然来て、お父様が呼んでいるから至急出てきてくれと慌てた様子で言われた。


 転がったせいで少しシワになってしまったデイドレスを簡単に整えてもらい、私はお父様と殿下が待つ応接室へと向かう。


 そして告げられたのは、国王陛下が『真実の愛』とやらに目覚めて、お相手のお嬢様とどこぞへ出奔したという前代未聞の大事件が発生したという事だった。




「兄上がこんな無責任な方とは思わなかった。後は頼むという書置きと一緒にレガリアを置いて消えてしまわれた……」


 レガリアというのは、王権を象徴する王冠、王笏、宝珠、玉璽の四つの宝物の事である。


 私がソファにつくと、懇切丁寧に国王陛下がいなくなった状況について説明してくれたが、その顔は思わずこちらが同情しそうになるほどげっそりとやつれ果てていた。


「……陛下の捜索はどうなっていらっしゃるんですか?」

「もちろん近衛兵総出でお探ししているが、探し当てたとしてもきっと素直には戻ってこられないだろうし、何よりもこのような駆け落ち騒ぎを起こした時点で国王としては失格だ。聖女猊下との聖婚ができないからな……」


 ――聖女。


 それは、百年に一度この地に降臨する大地母神マグナ・マーテルの代理人たる女性の事だ。降臨するのは王と年齢の近い女性と決まっている。


 聖女は神の国から遣わされ、年回りの近い王族の伴侶となるのが決まりだ。ちょうどいい年齢の王族がいない場合は高位貴族の元に降嫁される場合もあるが、聖女が降臨される時期は決まっているので王家側で子作りの時期が調整される。


 今代の聖女は国王陛下が娶る予定となっていた。

 聖女は王の器量を量る神の秤。この国の民は誠心誠意聖女に尽くし、大切になければいけない。

 聖女を大切にすれば国は富むが、聖女を蔑ろにすれば土地が枯れる。それがマグナ・マーテルの定めたこの国の理だ。


 時代の聖女降臨の期日は既に三ヶ月後に迫っていた。

 私とイライアス殿下の結婚式が一年半後とされていたのは、国王陛下と聖女猊下の聖婚が行われるのを待つ為だった。


 イライアス殿下は無責任な、と兄上をなじるが、正直逃げ出したくなる気持ちはわからないでもない。

 というのも、歴代の聖女猊下は、自我を持たない人形のような方だと伝えられているからだ。


「大変不名誉な事だが、兄上には退位して頂くしかない」

「という事は、アス様が次の国王に……?」

「……そういう事になる」

「では、私たちの婚約は……」

「イライアス殿下は聖女猊下を迎えねばならない。つまりビビとの婚約の話は残念ながら破談ということになる」


 核心を突く言葉を述べられたのはお父様だった。


 何て事……!


 私はその場で歓声を上げて踊り出したい気持ちを必死に堪え、残念で仕方がないという表情を気合と根性で作り出した。

 しかし頬がどうしても引き攣ってしまう。


「と、とても残念ですが仕方ありませんね。承知致しました。どうぞ聖女猊下とお幸せに」


 顔が引き攣ってかえって良かったかもしれない。

 声が震えて悲痛な感じが出た気がする。


 ギリ、と殿下の方から歯を食いしばるような音が聞こえてきた。


 これから殿下は生けるお人形のような女性と一生を添い遂げなければいけないのだ。当てが外れてさぞかしがっかりしているのだろう。

 お可哀想に、と思うよりもざまあ見ろという気持ちの方が強い。


「そなたとの婚約が成立して二年が経った。長い間拘束したことは申し訳ないと思っている。その分はこちらより誠意という形で示すつもりだ」

「ビビ、下がりなさい。これから詳しい条件を殿下と詰めるから」


 お父様に言われ、私はなるべく沈鬱な顔を作り一礼すると応接室を後にした。

 そして足早に自分の部屋に戻ってから、淑女にあるまじき声を上げてノエリアと喜んだのは誰にも内緒である。




   ◆ ◆ ◆




「お父様、私、結婚なんてしません」


「氷の暴言王子様から二年間の拘束の代償として、大変な額の慰謝料を手にしたと聞きました。だから結婚なんてしたくありません。神の家に行きたいです」


「今なら傷心のあまり出家したと言っても通りますよね。だから私を是非是非神殿に行かせてくださいませ」


「行かせて下さらないなら邸中の彫刻と絵画を破壊します」


「ついでにお父様の髪の毛も毟ります」


「行かせろっつってんだろこのクソ親父、いい歳こいて色ボケてんじゃねぇよクソが、言う事聞かねーとその髪の毛毟りとんぞ。ハゲ散らかしたらさすがにおめーも愛人とキャッキャウフフ出来ねーだろ、あぁん?」




 最後にノエリア仕込みの不適切な発言もあったような気がするが、私は必死の説得に成功し、マグナ・マーテルに仕える神の信徒となった。


 そもそも仮面夫婦の両親を見て育ってきた私には結婚願望がない。冷静に考えれば私の人生に男性は必須ではないのだ。


 また、殿下と破談になった事で、こちらには一切の非がないにも関わらず、私の未婚の貴族の娘としての価値は下がってしまった。


 有望な男性はほとんどが売約済みか売り切れで、伯爵位以上の貴族で残っているのはどこかに問題のある人や後妻の口だけ。

 もしくは平民の商家か下級貴族かという選択肢で、それくらいなら神官になるほうがよっぽど楽しく暮らせると見積もったのだ。


 神殿では侯爵家という出自、そして多額の寄付金のおかげで司祭位を賜った。

 神殿の神官の階級は、上から最高司祭、高司祭、司祭、侍祭、助祭となっている。最初から司祭待遇というのは結構凄い事だ。金とコネの賜物である。


 神殿での生活は、朝が早く夜が早いのが少し辛いが当初の予想通りなかなか快適だ。

 ノエリアもついてきてくれて、寄付金の力で侯爵家の中とあまり変わらない……いや、イライアス殿下や社交界のストレスがない分より楽しい生活が送れている。ちなみにノエリアは助祭からのスタートとなった。




 そんなこんなで月日は経ち、私は大地母神マグナ・マーテルに仕える一人の神の信徒として、新王として即位したイライアス陛下によって執り行われる聖女降臨の儀式に立ち会っていた。


 儀式は首都郊外のマグナ・マーテルの大神殿で行われる。

 神殿の最奥には、女神の泉と呼ばれる禁足地があり、そこで王が決まった形式で神への祝詞を唱えると、泉の中に漆黒の髪と瞳を持つ神の代理人が降臨すると言われている。




 ――伝承は真実だった。

 

 司祭以上の神官が見守る中、黒髪に黒い瞳、そして象牙の肌を持つ神の代理人が眩い光とともに降臨した。


 しかし――。


「子供……?」


 現れたのは小柄で小さな人影で、その場にいた全員の視線がその人物に集まった。

 伝承では、妙齢の女性が現れるはずなのに――。


 泉の中に降臨したのは、どう見積っても十に満たない細く痩せた子供だった。


「しかも男……?」


 誰かがつぶやいた。

 子供は髪が短く珍妙な服装をしていたので男の子に見えた。


「神罰だ!」


 誰かが叫んだ。


「先王が駆け落ちなどして神を冒涜したから! このような伝承と違う聖女が現れたのだ!」


 泉の中の子供がびくりと身をすくませた。

 じわじわとその目に涙が浮かぶ。


「な、何なのここ! 皆コスプレなんかして頭おかしい! なんで私こんな所に!」


 子供は大声で喚くとわんわんと泣き始めた。

 聖女とは、自我を持たぬ生き人形ではなかったのか――私も含めその場にいた全員に動揺が走った。


「何をしているのです皆様! まずは聖女猊下を泉から引き上げて温めて差し上げねば! 凍えて風邪を引いてしまいます!」


 誰よりも先に我に返り、周囲を一喝したのはタチアナ高司祭だった。タチアナ様は六十代の女性の高司祭で最高司祭に次ぐ実力者だ。

 タチアナ様は聖女猊下に駆け寄ると、自分の服が濡れるのも構わず泉に飛び込んで中から猊下を引き上げた。

 私もパイル生地のリネンを片手に聖女猊下に駆け寄った。




   ◆ ◆ ◆




 騒然とする陛下を初めとした男どもを再び一喝したタチアナ高司祭の指示で、聖女猊下は一旦別室へと連れて行く事になった。私を含む同性の司祭のみが同行を許された。


 そこで濡れた服を脱いでもらった結果聖女様の性別が判明した。女の子だとわかって一同はほっと一安心する。奇妙な服装と短い髪のせいで男に見えていただけだった。


 神の国の服は貧相で、一見すると物乞いがまとう襤褸ぼろのように見えたけど、この国では見た事のない技法で不思議な模様が染め付けられていて、縫製も信じられないくらいに美しく揃っていた。


「……ここはどこなんですか? 私、学校にいたはずなんだけど」


 沢山泣いて少し落ち着いたのか、聖女猊下はおずおずとこちらの様子を窺いつつ尋ねてきた。


「ここはロムルス。大いなる母、大地母神マグナ・マーテルによって造られた国です」


 猊下に答えたのはタチアナ高司祭だった。


「あなたは大地母神マグナ・マーテルの地上における代理人として神の国より選定され、こちらに降臨なさいました。我々も実は戸惑っております。あなたが歴代の聖女様とあまりにもご様子が違いますので……。神より何か啓示のようなものは受けておられませんか……?」


 そう告げると聖女猊下は目を見開き、狂ったように笑いだした。


「あはは、夢の中で見た女の人が言ってたのは本当だったんだ! じゃあ私、逃げられたんだ! あのクソみたいなオジサンの家から! もうあのキモデブに変なことされなくていいんだ!」


 あはは、ははは、神様サイコー!


 聖女猊下は笑いながら涙を流し始めた。

 その理由を私たちが知ったのは、泣き疲れた猊下が自分の身の上をぽつりぽつりと話し始めた時だった。




   ◆ ◆ ◆




 聖女猊下の名前はメグミ・ウエノ。

 体格が小さくて十に満たないように見えたが、それは人種的なものがあるようで、本当の年齢は十二歳なのだと教えてくれた。


 実際の年齢を知った上で着替えの時に体をこっそり観察すると、ほのかに胸が膨らんでいたので、確かに既に思春期に差し掛かった少女なのだと確信できた。


 リネンで体を拭いたのが縁で聖女猊下の話し相手に選ばれた私は、猊下をメグ様と呼ぶ栄誉を与えられた。

 親しくなる過程でお聞きした神の国でのメグ様の事情は重く、悲しいものだった。


 神の国というのはこちらとあまり変わらない生活が営まれているそうだ。


 メグ様の場合は乗り物の事故で両親を亡くした後、伯父に引き取られたらしいのだが、そこでかなり酷い扱いを受けていたようである。

 伯父の目当てはメグ様が両親から受け継いだ遺産で、後見人として遺産を自由にできる権利を得るや否や態度を変えたそうだ。


 食事は準備はしてくれるものの、与えられるものは残飯で、肉が出される日があっても脂身の所をひと欠片だけ、それも家族の揃う食卓には用意されず、一人厨房で食べるよう強要されたとか。


 洗濯、後片付けなども彼女の仕事にされ、使用人のような扱いをしたばかりでは飽き足らず、三歳年上の従兄には性的ないたずらも受けていたようだ。


 そして伯父一家は彼女の両親の遺産を使い込んで家を建て直したり車を買い替えたり――聞けば聞くほどとんでもない親戚である。


 しかしこんな話は市井にはままある話だ。神の世界もこちらと変わらず人間くさく世知辛いものらしい。


 歴代の聖女とあまりにも違う彼女には、本当に聖女なのかという疑問や議論がぶつけられたが、聖女にしか反応しない聖杯が反応したため、騒いだ人間は沈黙するしかなかった。

 聖杯は女神がこの地に下賜された神器で、土地を潤すための祭祀の時に用いられるものである。




 十二歳のメグ様と二十二歳のイライアス陛下――。十歳差での結婚は、政略結婚なら珍しくもないのだが、従兄からのいたずらのせいで男性恐怖症に陥っていたメグ様は結婚を拒否した。


「私はまだ十二歳なのよ? 結婚なんて考えられないし男の人に触れられるなんて嫌! 絶対に嫌! 汚い! それに陛下がいくら銀髪のイケメンでも十歳も離れてるじゃない!」


 メグ様のご機嫌を損ねたら国が荒れる可能性がある。

 よって国の偉い人達が何日もかけて協議した結果、イライアス陛下は別の女性を妃に迎え、メグ様はこのまま国王陛下の庇護のもと、神殿にて心静かに暮らしてもらうという事になった。




 メグ様の処遇についての結論が出たら、今度は空席となったイライアス陛下の妃の座に誰が座るのかが話題となった。

 出家し司祭になった私には関係ない。そう思っていたのだが――。




   ◆ ◆ ◆




「ビビ様、また陛下がお越しですよ」

「お引き取り頂いて」


 ノエリアの連絡に私は即答した。


「会ってあげないの? 相当嫌われてるんだね、あの王様」


 行儀悪くお菓子を摘みながら茶化すように発言したのは同じ部屋にいたメグ様である。


 何故か陛下は私を還俗させ、王妃に迎えようと求婚してくる。

 それをどうにかお断りできているのは、私がメグ様のお気に入りとなっているからだ。


 聖女猊下万歳メグ様最高。


 なぜならこうやってお約束なしの突撃を受けても、メグ様のお世話を理由にお断りできる。


 婚約者だった時にドレスや髪型、化粧にケチをつけてきたのは、私が他の男からの注目を集めるのが嫌だったからだなんて今更言われても、こちらとしては困惑するだけだ。


 好きだからつい構って欲しくて、でもうまい言葉が思いつかなかった、などとのたまい、陛下は私に膝を付いて謝罪した。


 何なの? 馬鹿なの?


 呆れると同時に私は今までの鬱屈を全部陛下にぶつけた。

 言われて嫌だった事とか、ダンスで足を踏み付けたのはわざとだった事とか、初対面の時からずっと陛下が嫌いで嫌いで仕方なかった事とか。

 メグ様という後ろ盾の賜物だ。これまで身分差を気にして言えなかった心の内を吐き出してやった。


 かなりの暴言を吐いたにも関わらず、陛下はその場で深々と頭を下げた。だからその場にあったものを八つ当たりのように投げつけて追い出したのだが、その後も性懲りも無く私のところに求婚の為にやってくる。


 その姿は実に溜飲の下がるものだった。

 氷の精霊に例えられる美貌を歪め、恥も外聞もかなぐり捨てて私に跪き、愛を乞いながらすがりついてくるのだから。


 でも、そう簡単には許してなんてやらない。

 これまで私が受けた嫌な気持ちの分、もっともっと無様に地べたに額を擦り付ければいいのだ。




 この関係の先に待っているものは何なのか――今はまだわからない。

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氷の王弟殿下から婚約破棄を突き付けられました。理由は聖女と結婚するからだそうです。 森川茉里 @nekonin_kazumi

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