ヴィーナス・トランス・サクリファイス

七峰らいが

第1話 1/8フラスコ

 きこ、きこ、きこ。


 団地の隙間に設けられた公園でくたびれたスーツ姿の女がブランコに揺れている。


 空はとっぷりと暮れていた。仕事帰りの酔っ払いが遊具に闖入ちんにゅうしても、歓楽街にほど近いこの場所ではさほど珍しくもない。


 女は星の見えないやみの天をぼうと見つめたまま、音もなくぼろぼろと泣き濡れた。


 心にえぬ苦痛を内から漏らさぬようこらえて、こらえて、それでも耐えきれない熱がしずくとなって顔面の穴から流れ落ちる。


 だが、そのしずくは重力に逆らってふわふわと空中をただよい、一点に集められていった。


、確かに頂戴した。イド、いい仕事だった」


 涙を光の粒子に変えて吸収する謎の男が、身じろぎもせずブランコ柵の上に立っている。


 両腕を丁字にしてバランスを取っているのか、あるいは元から重力に逆らっているのか。


 イドと呼ばれた女は目の前の不思議を不思議とも思わず、


「レトロン。それ、皮肉のつもりなの?」と白い不織布のマスクを外しながら、「あなたこそ、この現実リアリティという世界をよく知るべきだわ。どこの世界にそんなコリジョンも怪しければボーンすらない人間がいるのよ」


 丁字の男、レトロンは終始真顔のまま口も開かず発話した。


「すまない、人間型ヒューマノイド・タイプの造形には疎くてね。モデル生成の労力もあまり割きたくないんだ。

 まあ、ここは監視社会にしては不用心な古い区画だ。スマホをかざす者もいないだろう」


 そして丁字のまま口の小さい球形の実験容器フラスコ着ぐるみスーツを宙に取り出して、


「これがお望みの1/8フラスコと潜航のためのウェットスーツだ。ところで、改まった説明は必要だったかな」


「お願い。私はあまりというものにくわしくないの」


「承知した。1/8フラスコとは人類と文明のスケールが国際単位系を採用している世界と比較して1/8サイズになるよう再設計された小さな異世界を内包しただ。

 君の言うとおり、これは見て楽しむためだけの大変インスタントな異世界だ。人類ひとりひとりの寿命も短く、一日に経口摂取する栄養価次第とはいえ頑張っても寿命は八年程度だろう。 

 あえて言うなれば、この現代日本セカイで言うボトルシップやドールハウスに近いかな。ああいう手合いのように、何らかのコンセプトに沿って作られているものが一般的だ。

 だが、ただ見ているだけではつまらないという困った神々もいてね──おっと、君もその一柱ひとはしらだが──このフラスコの中に転移しても神の権能けんのうと生命活動を維持できるよう開発されたのが、こちらのウェットスーツだ。材質こそ再下級モンスターのスライムだが、何しろ好事家の神々が改造した逸品だ。性能は確かだよ。これならば怪獣の爪や牙はおろか、上級の魔法攻撃にも耐えうるだろう」


「怪獣?」聞き捨てならない言葉を耳にして、イドがくちばしを挟む。「それって生物であってけだものではない、災害であって自然ではない、不思議なモンスターのことよね」


 イドの指摘に動かないはずのレトロンが大げさにたじろいで見えた。


「おっと、そうだった。イド、すまない。あれこれ手を尽くしてはみたが、1/8フラスコは今や天上の神々の投機対象になっていてね。私のような木っ端役人の手に入るのは、日常的にデカブツどもが跋扈ばっこして人類をおびやかすような危険な異世界だけになってしまった。……もっともその非対称アンバランスさが気に入られているから供給率が高いのだが、もとより理不尽に抗う人類のけなげな姿をたのしむための異世界だから、今の君の心情に適しているとは言いがたいが……」


「ええ、ええ、構わないわ」微笑をたたえながらイドはつぶやく。「何かをぶん殴っても文句を言われないどころか褒めそやされる世界って、素敵よね」


「……君がすさんだのか、もとからそういう性格だったのか判断は保留にするが。とにかく今の言葉を了承と認めるよ。ではこのスーツを着て、……ふふ、一度言ってみたかった台詞だ」


 相槌を返してぴっちりとした着ぐるみを纏ったイドがぐんぐんと縮んでいき、やがて光の粒となってフラスコに吸い込まれていった。


 その栓を閉じながら、レトロンはひとりごちる。


「ふむ……イド、君がなぜ私をそこまで信用してくれるのか私には理解できない。今この瞬間にフラスコを叩き落とすことさえできるというのに。

 か……人間型の美徳であり、欠点だな。故に君は、あの職場で……」


 道具ごと丁字の男が消え、公園にはゆらゆらと揺れるブランコひとつが残された。

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