ヴィーナス・トランス・サクリファイス
七峰らいが
第1話 1/8フラスコ
きこ、きこ、きこ。
団地の隙間に設けられた公園でくたびれたスーツ姿の女がブランコに揺れている。
空はとっぷりと暮れていた。仕事帰りの酔っ払いが遊具に
女は星の見えない
心に
だが、そのしずくは重力に逆らってふわふわと空中をただよい、一点に集められていった。
「三年二ヶ月ぶんの郷愁、確かに頂戴した。イド、いい仕事だった」
涙を光の粒子に変えて吸収する謎の男が、身じろぎもせずブランコ柵の上に立っている。
両腕を丁字にしてバランスを取っているのか、あるいは元から重力に逆らっているのか。
イドと呼ばれた女は目の前の不思議を不思議とも思わず、
「レトロン。それ、皮肉のつもりなの?」と白い不織布のマスクを外しながら、「あなたこそ、この
丁字の男、レトロンは終始真顔のまま口も開かず発話した。
「すまない、
まあ、ここは監視社会にしては不用心な古い区画だ。スマホをかざす者もいないだろう」
そして丁字のまま口の小さい球形の
「これがお望みの1/8フラスコと潜航のための
「お願い。私はあまり観賞用異世界というものにくわしくないの」
「承知した。1/8フラスコとは人類と文明のスケールが国際単位系を採用している世界と比較して1/8サイズになるよう再設計された小さな異世界を内包した実験室のフラスコだ。
君の言うとおり、これは見て楽しむためだけの大変インスタントな異世界だ。人類ひとりひとりの寿命も短く、一日に経口摂取する栄養価次第とはいえ頑張っても寿命は八年程度だろう。
あえて言うなれば、この
だが、ただ見ているだけではつまらないという困った神々もいてね──おっと、君もその
「怪獣?」聞き捨てならない言葉を耳にして、イドがくちばしを挟む。「それって生物であってけだものではない、災害であって自然ではない、不思議なモンスターのことよね」
イドの指摘に動かないはずのレトロンが大げさにたじろいで見えた。
「おっと、そうだった。イド、すまない。あれこれ手を尽くしてはみたが、1/8フラスコは今や天上の神々の投機対象になっていてね。私のような木っ端役人の手に入るのは、日常的にデカブツどもが
「ええ、ええ、構わないわ」微笑をたたえながらイドはつぶやく。「何かをぶん殴っても文句を言われないどころか褒めそやされる世界って、素敵よね」
「……君が
相槌を返してぴっちりとした着ぐるみを纏ったイドがぐんぐんと縮んでいき、やがて光の粒となってフラスコに吸い込まれていった。
その栓を閉じながら、レトロンはひとりごちる。
「ふむ……イド、君がなぜ私をそこまで信用してくれるのか私には理解できない。今この瞬間にフラスコを叩き落とすことさえできるというのに。
お人好しか……人間型の美徳であり、欠点だな。故に君は、あの職場で……」
道具ごと丁字の男が消え、公園にはゆらゆらと揺れるブランコひとつが残された。
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