第31話 犬ですか、私はっ
「バカッ!! サビーナ!!」
シェスカルの声がした。
馬鹿だ、と自分でも思った。
シェスカルが子どもを置いて立ち上がろうとしているのが見える。
でも、きっと間に合わないだろう。
目の前に黒い影が迫りくる。
もう駄目だとギュッと目を瞑ったその時。
「危ねえッ!!」
声が聞こえると同時に、サビーナの体はグンと歩道に引き戻された。
すんでのところで、馬車が目の前を通り過ぎていく。馬の独特な獣の匂いと、その速度を知らせる強い風が、サビーナの肌を痛いほど吹き付けて去っていった。
「ひ、ひえぇええ……」
今あった出来事に、サビーナは肩を震わせ冷や汗を流す。
誰かに引き寄せてもらわなければ、確実に跳ね飛ばされていただろう。もしくは身体中を踏みつけられていたか。考えるだけでゾッとする。
「はぁ、ヤバかったな……」
耳元から、そんな声が聞こえた。
はたと気付くと、その声の主に後ろから抱えるように抱き締められている。ガクガク震える足で立っていられたのは、この手のおかげだったようだ。
「あの、すみませ……」
礼を言おうとして振り返ると、壮絶な美形が目に飛び込んできた。白銅色した髪がサビーナの顔にふわりと触れた。実は天国にでも来てしまったのだろうかという錯覚さえ起こしそうになる。
「大丈夫だったか、サビーナ」
「あ……うん、ごめんなさい、ありがとう」
それはデニスだった。紛れもなくこの世の人間の顔だ。
サビーナはホッとすると同時に先ほどの恐怖がぶり返したのか、徐々に鼓動が大きくなり、静まってくれそうにない。
デニスがサビーナの腰に置いている手を緩める。すると体がズルズルと下がっていってしまい、もう一度抱き締め直された。
「おい、大丈夫だったか!?」
シェスカルが向こう側から男の子を肩に乗せて走ってくる。どうやらあちらも無事のようだ。
「大丈夫、です……ギリギリ……」
「はあ、血の気引いたぜ。お前に何かあったら、リックの奴に殺されかねねぇからな。まぁ、無事で良かった」
シェスカルは心底ホッとしたように長い息を吐き出した。そして男の子を肩から下ろしながら、デニスに視線を向ける。
「悪かったな、デニス。でもこっちもお前の弟を救ってやったんだから、おあいこだぜ?」
「え? ラルフ、お前も道路に飛び出しちまったのか!?」
デニスがパッとサビーナから手を離し、男の子に向かって叫んだ。
支えを失ったサビーナはフラリと倒れ込みそうになり、今度はシェスカルに支えられる。
「おいおい、サビーナを放るなよ」
「ラルフ、勝手に外に出んなって何度も言ってんだろっ!?」
シェスカルの言葉を聞きもしないで、弟を叱り飛ばすデニス。
ラルフと呼ばれた彼の弟は、女の子と間違えそうなほどに可愛いが、今はシュンと肩を落としている。
「でも、たいちょが助けてくれたもん……」
「今日はたまたまだ! いつでも隊長が助けてくれると思うなよ! あんたもだ、サビーナ! フラフラと道路に出て、いい年してなに考えてんだっ!? あっ?!」
急に矛先がこちらに向いてきた。
まったくもって返す言葉もないが、荒い声が皮膚に突き刺さって痛い。ビクッと体を震わせると、体を支えてくれていたシェスカルが間に入ってくれた。
「おいデニス。もうそのくらいにしといてやれ。ラルフもサビーナも反省してるよ。見りゃわかんだろ?」
「ああ?!」
しかしヒートアップしているデニスは、シェスカルをも食う勢いで睨んでいる。
それを見たシェスカルが『いい度胸だ』と言わんばかりにデニスを睨み返した。
「ちょっと頭を冷やせよ? 先に無事を喜んでやるのが家族ってもんだろうが。怖い目に遭った後にそんなに怒鳴られて、トラウマになったらどうすんだ」
「しっかり怒ってやった方が、もう同じことはしないじゃないですか」
「恐怖による学習なんか、いい影響は与えねぇよ。もういい。俺がラルフを家まで送ってやるから、お前はサビーナを送ってやれ」
わけがわからないというように眉を寄せるデニス。そんな彼の本の元へと、サビーナは預けられてしまった。
サビーナを手放したシェスカルは、ラルフに体を向けると同じ目線まで足を折っている。
「痛いとこはないか? ラルフ」
「うん……」
「自分で歩けるか?」
「大丈夫」
「よし、偉いぞ。今から家まで俺と一緒でいいか?」
「いいよ」
「もう飛び出すなよ?」
「うん……ごめんなさい」
素直に謝ったラルフを、シェスカルはゴシゴシと頭を撫でつけている。あの安心感の与えてくれる手で撫でられたラルフは、もうシェスカルに笑みを見せていた。
「じゃ、サビーナを頼むぜ、デニス。ちゃんと屋敷まで送り届けろ。いいな」
「サビーナは子どもじゃねーんだし、一人で帰れんじゃないですか?」
「お前、昨日もそんな感覚で一人で帰らせたのか? エスコートは最後までちゃんとしろ。その間に何かあったら、全部お前の責任になるんだぜ?」
シェスカルの言葉にデニスは黙った。少し口を尖らせているところを見ると、不服はありそうだが反論するつもりはないようだ。反論できるだけの言葉が見つからないだけかもしれないが。
「じゃあな、サビーナ。今日は飯に付き合ってくれてサンキュ。気をつけて帰れよ」
「はい、こちらこそありがとうございました。ごちそうさまでした」
サビーナが礼を言うと、シェスカルはラルフを連れて歩いていった。二人の後ろ姿が見えなくなると、サビーナはデニスを見上げる。
「あの、デニスさん、本当にありがとう。私はもう大丈夫ですから、早く弟さんのところに行ってあげてください」
支えがなくともきちんと立てるところを見せると、デニスは弟の元に行きたそうな素振りを見せながらも、首を左右に振る。
「いや……あんたを送る。確かに、なんかあったら俺の責任になっちまうからな」
デニスはなぜか手を出して、サビーナの手を握った。その意味がわからず、サビーナは眉を寄せる。
「なに、してるんですか?」
「フラフラと車道に出られたりしたら困るからな。首輪代わりだ」
「首……犬ですか、私はっ」
サビーナが吠えると、デニスはいつものようにカカカと笑っていてホッとする。
こんな美形と手を繋いで街を歩く経験など、まずできないだろう。サビーナは少し嬉しくなって、デニスの手を握り返していた。
ほんの少し、胸を高鳴らせて。
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