第22話 なんて馬鹿な真似を

 部屋を後にし、クラメルの屋敷を出てからも、セヴェリは無言だった。

 サビーナもなにも言えずにセヴェリについていく。色々と衝撃過ぎて、頭が追いついていかない。

 自分の兄がレイスリーフェの浮気相手だったということだけで、もういっぱいいっぱいだ。セヴェリにどう謝罪すればいいかわからない。

 やがてクラメルの屋敷が見えなくなり、大通りに入ったところで、セヴェリが立ち止まった。


「サビーナ……」

「はいっ」


 ようやく発せられたその声に、サビーナは緊張を走らせる。一体、なにを言われるのだろうかと。

 しかし、次の発言はサビーナの予想を超えたものだった。


「……すみません……吐きそう、です……」

「え、ええ!?」


 サビーナはその発言に目を見広げる。こんな街中でセヴェリの醜態を晒すわけにはいかない。

 すぐさま周りを見回し、目に付いた一軒の店へと急いで入った。お手洗いを貸してくださいと言いながら中に入り込み、到着すると同時にセヴェリがそこへ嘔吐する。サビーナがセヴェリの背中をさすると、彼は目に涙を溜めながらゲホゲホと咳いていた。


「大丈夫ですか? お口、気持ち悪いですよね。お水を頂いてきます!」


 店の人に謝罪と礼を言って、お水をもらって戻ると、セヴェリは少し楽になっているようだった。


「どうぞ、ゆすいでください」

「ええ……ありがとう」


 セヴェリは水で口をゆすぐと、ほっと息を吐き出した。


「すみません、落ち着きました」

「いえ。宿に戻られますか?」

「少し空気のいいところで休みたいですね……裏手に河原があるので、そこで休憩していきましょう」


 店の人にいくらかのお金を渡して外に出ると、裏手の階段を降りて河原に出る。

 そこは夕刻の涼しい風が吹いていて、さらさらと小さな草花が揺れていた。川はさほど大きなものではないが、悠然と流れているその様は心を落ち着かせてくれそうだ。

 セヴェリはその川の前まで来ると、ゆっくりと腰を下ろした。同じように座るよう促され、サビーナもまたその隣に座る。

 セヴェリの笑顔が寂し気なのは、気のせいではないだろう。


「情けない姿を見せてしまいましたね」


 セヴェリはそう言って苦笑している。サビーナはなにも言えず、「そんなことは」とモゴモゴ言うに留まった。


「みっともない男でしょう、私は。彼女の心はすでに私にないというのに」


 サビーナはブンブンと首を横に振った。みっともないだなどと、思うはずもない。悪いのは全てリックバルドなのだから。


「いいえ、本当に……申し訳ありません!! もう、なんと謝っていいのか……兄が……なんて馬鹿な真似を……っ」

「あなたが謝る必要はありませんよ。あなたはリックバルドではないし、レイスリーフェでもない。なにも悪いことなどしていないでしょう?」

「うう……すみません……」


 そう言われてもやはり謝ることしかできず、サビーナは項垂れた。

 まさか身内がこんな不祥事を仕出かすとは思ってもみなかったことだ。どう償っていいのか本当にわからない。

 そんなサビーナを見てセヴェリは少し微笑み、「私とレイスリーフェは、互いが十五の時に親同士が決めた婚約者でして」と昔を語り始めた。


「まぁ婚約者と言ってもその時は口約束だったのですが……それを聞かされた当時、私は憤慨しましてね。将来の伴侶を勝手に決められるなんて、冗談じゃないと反抗しましたよ」

「セヴェリ様が……反抗……」


 サビーナが呟くと、クスクスとセヴェリは笑う。サビーナはハッとして口を閉ざした。


「そうですね、当時は色々と反抗もしました。でも一度レイスリーフェに会ってみろと言われて仕方なく会ったのですが……なにせ彼女は、十五の時にはすでに完成された美しさを持っていて。私の……一目惚れだったのですよ」


 セヴェリは少し照れ臭そうに笑った。この場面だけ見ていればただの惚気のろけだが、そうでないことはすでにわかっている。


「そして、レイスリーフェも私に好意を抱いてくれていた。私達は遠距離ながらも逢瀬を重ねて、少しずつ愛を育んでいったんです。そして正式に婚約し……結婚も間近だと思っていました」


 聞くのがつらい。ここにリックバルドが絡んでくるのかと思うと、真剣に頭が痛い。


「けれど、彼女の気持ちが少しずつ離れていくのがわかって……他に誰か好きな人ができたのではないかと、察しはついていました。でも認めたくなかった。彼女が、他の誰かを愛するなんて……」


 すみません、と心の中で何度も謝る。謝って済むことではないのだが、そうしないと身の置きどころがない。


「馬鹿でしょう? あれだけハッキリと拒絶させてなお……私は彼女を愛しているんです」


 そう言葉に発した途端、セヴェリの目からスルリと涙が零れ落ちる。一片の濁りも見られない透明な涙は、真っ直ぐに頬を滑り降りて、セヴェリの服に丸い模様を描いた。

 サビーナの胸が、心臓を抉られたかのように痛む。


「セヴェリ様……」

「レイスリーフェの幸せを思えば、婚約を解消すべきだったのでしょうね……けれど、できなかった……心の伴わない結婚など、虚しいだけだとわかっているのに……っ」


 セヴェリの涙は一粒だけでは終わらず、次々と流れ落ちては服を濡らしていく。


「レイスリーフェ……どうして……っ」

「セヴェリ様っ!!」


 さらに大粒の涙を流し始めるセヴェリを、サビーナは膝立ちになり覆いかぶさるように抱きしめた。

 セヴェリの苦しみはどれほどのものだろうか。愛する人に愛されなくなる悲しみは、一体どれだけ涙を流させるのだろうか。

 しかしサビーナにはどうしようもなかった。ただ抱き締め、セヴェリの涙が止まるのを待つしかできなかった。


 日は暮れかけて、空は徐々に茜色になりつつある。

 サビーナはセヴェリを抱き締めながら、穏やかに流れる川を見つめていた。いつかセヴェリのこの悲しみも全て流れ去ってくれればいいと願いながら。

 セヴェリの涙が落ち着きを見せた頃、サビーナはゆっくりと彼から離れた。そしてそっと覗いてみると、セヴェリは少し恥ずかしそうに眉を下げながら微笑んでいる。


「すみません、あなたには本当に情けないところを……」

「いえ、あの……お気になさらないでください」

「ありがとう、サビーナ」


 礼を言うセヴェリは、もういつもの彼と変わりなかった。それが逆に無理をしているように見えて、サビーナの胸は締め付けられる。


「宿に行きましょう。心配性のリカルドが、そろそろやきもきしている頃でしょうから」

「はい」


 セヴェリは立ち上がり、サビーナも膝に着いた草を取り払った。そして歩き始めると、セヴェリに「サビーナ」と名前を呼ばれて振り返る。

 そこにいる彼は、少し困ったように笑って人差し指に唇を当てていた。何事かとサビーナが首を少し傾けると、セヴェリは片目を軽くウインクし、こんなことを言った。


「私が泣いたことは、皆には言わないでくださいね?」


 その頼み事と仕草がなんだか可愛くて、サビーナは微笑みながら頷く。

 セヴェリは少しほっとしたように息を吐き、「行きましょう」とサビーナの先を歩いていった。


 宿に着くと、やはりというべきかリカルドが心配して待っていた。

 デニスは対照的に部屋でグッスリ眠っているようだ。

 セヴェリはリカルドになにも説明してはいなかった。ただレイスリーフェとお茶をしたとだけ伝えていた。レイスリーフェと結婚すると決めた以上、リックバルドのことを言えるはずもなかったが。

 一行はユーリスで一泊した後、また同じ経路でランディスへと帰ったのだった。

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