第13話 溶解
休み時間が終わると喚く、上浜の事情は知らんとばかりに、俺はゆっくりと表紙を眺めていた。
海を抽象的に描いたような青い表紙に、白い文字で書かれた題名。
さすが人魚伝説を元にしているだけはある。題名にも人魚が入っているのか。
『泡沫の人魚姫』
これが、この小説の題名らしい。
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泡沫の人魚姫 第13話 溶解
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泡沫。
水面に浮かぶ泡のごとく儚き存在のたとえ。
まるで、どこかの誰かを形容するような言葉だと思った俺の勘は、あながち間違いではなかったんだ。
乾いた指先でページをめくる。古びた紙の匂いが鼻先をくすぐった。
俺は目線を下に落とすと、少しシミの滲んだ用紙に描かれる物語をゆっくりと読み進めた。
『 月夜に照らされて深い青に染まる海。
等間隔で押し寄せる波の音は、子守歌のように心地がいい。
そんな夜の海岸に、白いワンピースを身にまとった美しい少女の姿があった。
少女の瞳は海に負けじと深い青に輝いている。
少女が海岸をさまよい歩いていると、人の視線を感じた。
視線を感じた先に目を向ければ、そこには一人の少年が居た。
少年は呆けたように少女の姿を見つめていたが、はっとして目を逸らす。
戸惑いを隠しきれない少年を諭すように、少女は優しく口を開いた。
「私の名前はシレーヌ。それ以外は覚えていないの。ねえ、あなたの名前を教えてちょうだい」
少年にゆったりと微笑みかけた少女は、どうやら記憶を失くしているようだった。』
俺は驚きを隠せないまま、本から視線を上げた。
目の前には、同じように目をまん丸くした上浜の姿があった。
「これ……なんで、シレーヌちゃんが……」
上浜が困惑の表情を浮かべたまま言葉を口にしたとき、
キーンコーンカーンコーン
ちょうど昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
夏休み中ではあるが、補講に参加する生徒の為にと鳴らしているのだろう。
「やべ。悪い、午後の試合が始まっちまうから、あとは任せていいか」
テニス部も、このチャイムを目安に昼休憩をとっていたようだ。
驚異の速度で図書室を後にする上浜を見送った俺は、物語への戸惑いが残る中、先を読み進めるために本に目を落とした。
*
あれから4時間の時が経った。
長時間の読書に目の疲労を感じた俺は、眉間を強く抑えている。
今読んでいるページの位置を確認すれば、全体の三分の二を超えていた。
シレーヌに関する情報を取りこぼさないようにと丁寧に読み進めていたせいか、だいぶ時間が過ぎていたようだ。
そろそろ部屋を閉めるからと、こちらに向かって来た明沼さんに声を掛けられる。
疲れ切って曖昧な返事しかできない俺をよそに、彼女はテキパキと貸し出しの手続きを行ってくれていた。
「栞も無いんでしょう? これどうぞ」
明沼さんはカウンターの横にある、ご自由にどうぞと書かれた箱の中から一枚の栞を取って、俺の手に渡してくれた。
俺は貰った栞を本に挟みこみ、礼を言ってその場を後にした。
*
既に分かりきっているとは思うが、この小説には既視感があった。
いや、既視感という言葉では済ませられないほど、俺たちのよく知る人物の話が綴られていたのだ。
この物語の主人公は『シレーヌ』の名を持つ少女であった。
それに名前だけではない。
言葉遣いや仕草、加えて置かれている状況まで。俺たちの知るシレーヌと寸分たがわぬ姿で、彼女は本の中に存在していた。
物語の中のシレーヌは、記憶喪失となり、海岸に打ち上げられていた。
真夜中の散歩中に彼女を偶然発見した少年が、自由の利く夜の間だけ、共に過ごすのを約束をする。
そんな、どこかで聞いたことのある話だった。
小説内では、姉妹岩の伝説を元にしたであろう事故が十数年前に起こっていた。
シレーヌと少年はたくさんの冒険をしながら事故の真相を暴き、彼女の正体を探っていくのだ。
この物語に出てきたシレーヌは、普段俺たちが見てきたシレーヌと同様に自由で美しい姿で描かれていた。
海の波のように掴めない性格。
儚いほどの透明感を感じさせる容姿。
ふとした時に垣間見える、悲し気な雰囲気を纏った微笑み。
自由な振る舞いに反して、他者の心の機微を感じ取る、細やかな優しさ。
この小説が、俺たちの知るシレーヌに少なからず関係するのは間違いないだろう。
例えば、主人公のモデルがシレーヌ本人であるとか。
一旦、作者とシレーヌがどう出会ったんだとか、そういう疑問を切り離して考えてみよう。
もしシレーヌが本当に小説のモデルであれば、神谷碧と面識がある線も少し薄まる。
小説の中の登場人物として彼女を認知していれば、神谷碧が一方的にシレーヌをマネしていたとしてもおかしくない。
まあ、シレーヌが碧の名を拒絶していた理由が考え物となるが。
……もしくは、本の中から飛び出してきた主人公本人、とか。
馬鹿げた考えなのは認める。
けれど幽霊、人魚と来てしまえば、本の中の登場人物というのも可能性の範疇に入れておくべきかもしれない。
万一その考えが当たっていれば、
シレーヌは小説の主人公と同じ結末を辿るのだろうか。
先ほどから、その考えがちらついて頭から離れない。
我慢のきかなくなった俺は、図書室前の廊下の隅でカバンから本を取り出した。
全てを読まずに結末を見てしまうのは、物語に対する冒涜だと言う人もいるだろう。俺も、どちらかと言えばそう思う派だ。
けれど今は、そんなことに構っている余裕もなかった。
表紙を裏返し、最後のページをめくる。
しかし、その言動をすぐさま後悔するのだ。
『そうして彼女は朝焼けの中、海の泡となり消えゆくのだった。』
バンッ
勢いよく本を閉じたため、両手がじんじんと痛み出した。
首筋には冷や汗が伝う。
もう、これ以上はよそう。
疲れていたものだから、読み間違えたのかもしれない。
俺は落ち着きを取り戻すために、大きく深呼吸した。
窓の外を眺めれば、夕焼けの元、声を張り上げるテニス部の姿があった。
彼らの喜びに沸き立つ声とは程遠い心情を抱えながら、ゆっくりと俺は帰路についた。
*
玄関ロックを開ければ、いつもはこの時間にあるはずのない、父の革靴が揃って並んでいた。
「凛久、帰ったか」
玄関扉の開閉音に気づいたためか、リビングの方から父が顔を出した。
「父さん、もう帰ってたんで……たんだ」
ぎこちないタメ口を父にきく。
父さんは何ともない顔で、リビングへと戻っていった。俺はその後を黙ってついて行く。
「ああ、休みをもらってな……働きすぎだと叱られたんだ」
一呼吸遅れて言葉を返した父は、テーブルの上に伏せられていた新聞を手に取り、ソファに座って経済面を眺め始めた。
どうやら、リビングで新聞を読んでいたところを俺が帰宅したらしい。
あの日以来、父は自室で過ごす時間を減らし、事あるごとにリビングを訪れるようになった。
一応ではあるが、父さんなりに俺への歩み寄りを見せている。
なんとも分かりにくい変化ではあるが、それはお互い様だった。
まわりくどい道かもしれないが、俺は最近敬語を辞めることから始めた。
まだ、口から出かけては言い直すことも多いが、だいぶ慣れてきたと感じている。
初めのうちは父も驚いた顔をしていたが、今では顔色一つ変えていない。
普通の親子の形とは、まだほど遠いのは事実だが、少しずつでいいから今までの溝を埋めていけたら思う。
そういえば、父さんに聞きたいことがあった。
思い出すやいなや、俺は口を開く。
「父さん、今いいか?」
「ああ、なんだ?」
父は新聞から目を離し、こちらに視線を向けた。
「神谷碧さんの事故現場に行きたいんだけど、頼めるかな」
細く吊り上がった目を少しばかり大きく広げた父は、黙ったまま紙とペンをとった。
俺が無言で待ち続ける中、父さんはスラスラと迷わず筆を走らせる。
ペンが止まった。
父は立ち上がると、紙を持った手を俺の前に突き出した。
「今ならバスも通っているだろう。家を出て右のバス停で五駅。その後の道順はこの紙に書いてある」
「……ありがとう」
互いに不愛想な顔で会話を交わすと、俺はすぐさま家を出ようとした。
すると、リビングの方から声がかかる。
「今なら手が空いている。車を出すか?」
俺を心配しているのだろうか。
父の言動に何とも言えない気持ちになった俺は、口元を軽く緩めて返事をした。
「働きすぎって言われてんだから、休んでてよ。気持ちだけ受け取っとく」
「そうか」
父が新聞に目を戻したのを確認すると、次こそ俺は家を出た。
*
家の近くのバス停から五駅乗った先で、バスを下車する。
ゆらゆらと揺れていたバスの中、考え事をしていたために周りの景色を見れていなかったが、降り立ったこの地には見覚えがあった。
子供の頃よく来ていた場所であるのに、主な移動手段が自転車であったのも相まって、気づくのが遅れてしまったのだ。
父が描いてくれた地図に目を落とす。
頭の中でその道を辿り、確信を持った。
目的地は、あの場所だ。
歩くスピードが幾分か早くなる。
絡まりあう木々の間を急ぎ足で駆けて行った。
「はぁ……はぁ……」
膝に手をついて呼吸を整える。
入り組んだその道を抜けると、
目の前に広がるのは見知ったあの公園。
白い手すりの向こうには、海が広がっていた。
ここは、シレーヌが我を失ったあの場所だ。
「なんで……」
俺は必死に頭の中を整理した。
『再発防止の白い柵』
父がこの事件のことを語ってくれた時、確かに話していた。
ここは、比較的高台に位置している。白い柵の向こうは崖だ。
その下は浜辺とつながっており、見晴らしのいいきれいな海がよく見える。
きっと、神谷碧はここからの落下で命を落としたのだろう。
そして問題なのは、シレーヌの様子がおかしくなったのが、この白い柵を目に留めてからだということだ。
いや、
その先の、神谷碧が落ちた崖を見つけてからだと言った方がいい。
『あ……ああ……やめて、行かないで……』
サイレンが鳴った後、崖から目を逸らせずにいたシレーヌは、異常なほどに取り乱していた。
何故、そこまでの恐怖に苦しんでいたのか。
俺の頭の中に、ある考えが浮かぶ。
もしかしてシレーヌは、
神谷碧が落ちる瞬間を見ていたのではないか?
救急車とパトカーのサイレンに怯える彼女が鮮明に浮かぶ。
事故の当日も、大きなサイレンが鳴り響いたことだろう。
それが、この仮定を裏付けているように感じた。
しかし、いくらここで考えようとも事実は分からないままだ。
シレーヌに確認を取るのもいいが、無理に思い出させようとして、また倒れられてもたまらない。
一旦、この事実も持ち帰って考えるしかあるまい。
踵を返そうとした俺は、ふと思い立って振り返った。
この場を去る前に、やり残したことがある。
道端に咲く青い花を数本摘み、細い草でブーケとなるよう綺麗に結んだ。
その花束を白い柵の手前に、手向けるようにして置く。
『大丈夫、シレーヌが守ってあげる!』
脳裏に浮かぶのは、短い黒髪を揺らし、凛とした目でこちらを見つめる少女の姿。
俺は、手を合わせて彼女の冥福を祈っていた。
「さようなら、シレーヌ」
感謝と哀悼。
多くのやるせない気持ちを抱えながら、初めて彼女に別れを告げた。
*
結局、その日は海に行かなかった。
このまま海に行ってしまえば、シレーヌに全てを見透かされてしまいそうで怖かった。
きっと彼女のことだ。
好奇心に従って、全てを聞き出そうとするのだろう。
こちらはシレーヌの為に黙っているというのに、なんて厄介な性格をしているのだろうか。
残念ながら、海へ行かないという対抗策も長くはもたない。
なぜなら、厄介な奴その2が押しかけてきかねないからだ。
あの怪力で腕を掴まれれば、それこそ逃げ出せない。終わりだ。
どうしようかと、そうこう悩んでいるうちに、よく眠れないまま朝を迎えていた。
本当嫌になる。
俺は今、午前中から始まる塾の夏期講習に向かうため、駅のホームで電車を待っていた。
あくびを噛み殺しながら英単語帳を眺めていると、ひと際大きな風が吹く。
「あっ」
反対ホームの方から大きな声がした。
ブレザーの制服に身を包んだ少女が、風に舞う帽子に手を伸ばしている。
先ほどの強風のせいで、身に着けていた帽子が煽られたのだろう。
帽子の中に纏められていたであろう長髪が空を舞った。
その髪は太陽の光を反射して、美しい銀色に輝いている。
ようやく帽子に手が届いた彼女は、安堵の表情を浮かべて前を向いた。
瞬間、俺と彼女、互いの目がかち合った。
海のように深く青い瞳は、こちらを真っすぐに見据えていた。
何度も、何度も眺めてきた顔がそこにあった。
なぜ?
どうして?
俺は、目の前の光景を疑った。
線路を挟んだ反対ホームの真向かいに佇んでいる少女は、
シレーヌと同じ姿をしていたんだ。
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