1-2-3. 興味が湧いてきた(章悟Side)

 図書室での出来事から数日後、僕は廊下を歩いて、普段は足を踏み入れることのない二年生の教室へと向かっていた。この手には、先輩から受け取った本、『恋がふたりを変えるなら』がある。読み終わったので返しにいくというわけだ。


 今になって考えてみると、妙な話だ。


 初対面の相手に対して急に「本を貸してほしい」なんてよく言えたものだと思う。先輩の方からしたら「知らない下級生が急に声を掛けてきた」みたいな感じだろうし。まあ、貸してくれた時点で悪い印象は持たれていないと思うけど、それは結果論だ。


 どんな顔をして渡せばいいんだろう。いや、そもそもあの先輩の名前すら知らないから、見た目だけを頼りに探さなきゃならない。赤みがかった頬と後ろでまとめた長い髪、小学生のような高校生のような雰囲気で、


 ……それくらい覚えていれば充分だろう。「一年B組の生徒の中から灯子を探し出せ」と同じくらいの難易度かもしれない。


 色々と考えつつ二年A組に着いた僕は、即座にその「先輩」を見つけることができた。


 なぜなら、教室に入ろうとした僕の元へと向かってきたから。


 こうやって見てみると、やはり先輩の体は高校生にしてはかなり小さい。その頭は173センチの僕の胸くらいの位置にあり、下手したら、小学六年生の平均身長よりも低いかもしれない。こんな存在が僕や灯子よりも先に生まれたなんて、人間の体というものは非常に不思議なものだ。


「もう、読んだの?」


 奇妙な感覚に囚われてしまった僕を呼び覚ますように、先輩はこちらを見上げながら質問する。


「は、はい。結構面白くて……一気に読んでしまいました」

「本当? どこが面白かった?」

「あの、普段あまり本読まないので、大したことは言えませんが」


 ほぼ面識の無い相手に対して妙に食い気味な先輩に少し驚きながらも、僕は少しずつ言葉を紡いでいく。


「何ていうか、読みやすいんですよね」

「そう、そうでしょ! 今作に限らず、この作者の作品は会話文のテンポの良さというものが特徴だから、そういう人でも結構読めると思うの。かといって、内容として薄いわけではなくて、親の再婚で突然同居することになった血のつながらない妹と小さい頃からのおさなみ、この二人の間で揺れ動く気持ちが本当によく書けていると思うの。十年以上前の作品で、今見たら、いや、当時でも『ベタ』な設定だとは思うけれど、こういった丁寧さが『ベタ』を『陳腐』なものにしていなくて、それ以外にも、」

「先輩? もう少しゆっくり……」


 高速で繰り出される言葉の合間を縫って、僕はそう言う。その反応で我に返ったのか、先輩は付近を見回し始める。


 周囲の二年A組の生徒達のほとんどが僕達を見ていた。ここが図書室だったら図書委員に注意されているところだ。それは三日前の話。


 先輩は慌てた様子で逃げるように廊下へと出ていき、合わせて僕も移動する。


「ごめんなさい。こんな話聞きたくないよね。それじゃ……」


 教室から少し離れたところで立ち止まり、先輩は僕の手から本を受け取ってこの場を離れようとする。


「これって、続編があるんですよね」


 僕は先輩を呼び止めていた。


 最後まで読んだところで「次巻に続く」みたいな感じだったし、だとしたら、読まないわけにはいかない。


「もし持っていたら、続きを貸してもらえますか?」


 先輩は妙に速いスピードで、再びこちらに向かってくる。


「今日は持ってきてないけれど……そうだ。放課後、ちょっと付き合ってくれる?」


     * * *


 その放課後は、あっという間に訪れた。


 部室棟の前で待ち合わせていた先輩と僕は、中にある一室へと入っていく。


 そこは教室よりも一回り狭く、中央に大きなテーブルがあり、隅の方には図書室のものよりも小さな本棚が置かれていた。


「文芸部、ですか?」

「読むのをメインとしている感じだからイメージと少し違うけれど、名前はそうだね。私が部長を務めているの」


 先輩と僕は本棚の方へと歩みを進めていく。


「確かこの辺りに……ちょっと待って。上の段にあるから」

「僕が取りますよ」


 先輩が踏み台を用意しようとしたところで、僕が代わりにその本を取る。


「二巻から四巻までありますけど、これで全部ですか?」

「いや、五巻まであるけれど……ごめん、最終巻は無いみたい。私の家にあるから、また明日でもいい?」

「大丈夫ですよ。そんな一気に読めないですから」


 文庫本とはいえ、何冊もあったらページ数は結構なものになる。いくら読みやすいとはいえ、そこまで速読はできない。


「……で、ちょっとお願いがあるんだけれど」


 先輩は僕に向き直って言う。心なしか、今までよりもしゃべり方が丁寧に感じられた。


「何でしょうか?」

「見て分かると思うけれど、他に誰も来ていないんだよね。最近はずっとこんな感じで」


 確かに、今部室にいるのはこの二人だけだ。「後で誰かが来る」というわけでもないみたいだ。


「前までは何人かいたんだよ? でも、やめていったり、何も言わずに勝手に来なくなったりして。そういうことがあって、顧問の先生に『せめてあと一人くらいいないと部室は貸せない』って言われて」

「僕に、入って欲しいってことですか?」

「無理にというわけじゃないんだよ? 別に、『入部しないと貸してあげない』ということじゃないから」

「どんな活動をするんですか?」

「主なものとしては、読んだ本について意見交換したり……週に一回とか、それくらいでもいいから」

「分かりました。入ります」


 僕は迷うことなく答えた。


「本当? そんなすぐに決めなくてもいいよ?」

「いえ、入ります。他の部活に入っていないので」

「……分かった。それなら、早速だけれど」


 先輩は机から入部届の用紙と筆記用具を取り出した。やけに準備万端で、こういう時のために用意していたのかもしれない。


 僕はためらうことなく用紙に記入していく。廊下で逃げようとした先輩を呼び止めて以降、話の流れに乗って入部することになってしまった。


 とはいえ、別に強制されたわけじゃない。部員にならなくても『恋がふたりを変えるなら』を貸してもらえるみたいだし、極端な話、ただ続きを読みたいだけならば自分で買えば良いわけだ。


 そんな僕がなぜ入部届にペンを走らせているのか、理由を挙げるならば、


「篠塚章悟……君っていうのね。私は部長のつきむらいち。よろしくね」


 僕の横で声を弾ませている小さな先輩に、興味が湧いてきたからだろう。

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