第13話

藤枝氏秋は土砂降りの雨の中、ようやく今川本陣に到着した。風も出てきてまるで嵐のようになっている。


「ふー、やれやれ。しかし酷い天候だな……」


馬から降り、本陣の中に入っていく。そこには屋根のついた簡易の小屋が建てられ、そこに義元がいた。


「義元様、藤枝氏秋でございます」


「おお、氏秋か。どうした?」


小太りの中年男が、優雅に扇子を扇いでいる。この男こそが、駿河、遠江、そして三河を実質的に支配し、東海道一の勢力を持つ今川義元である。


藤枝氏秋がちらっと横を見た。そこには米や酒、そして様々な食料品が積み上げられている。


「おお、それか。このあたりの者が献上した品じゃ。もはや織田を見限っておようじゃ、ホホホ」


今川義元が愉快そうに笑う。なにせ義元にとってすべて予定通りに進んでいるからだ。


「義元様、実は先ほど雑兵が乱暴しようとしていたので手打ちにいたしました。今一度、軍律の強化を!」


義元はパタンと扇子を閉じた。


「そうか、もう一度言うようにしよう。しかしな氏秋、雑兵がそうなるのも無理もない。丸根砦も鷲津砦も落ちた。もう清洲城まで障害はほとんどない。雑兵どもが浮き足出すのも分かるもの。なにせ抵抗できない女を乱暴したり、略奪する事ほどあいつ等にとって楽しいものなどないからな」


そして今川義元は豪快に笑う。下種な者がは下種な事をしているのは、いつみても滑稽でおかしい。


そんな様子を見て、藤枝氏秋を何とも言えぬ不安にかられた。


(これはどうした事か。義元様自体も浮かれておられるようだ。今までそんな隙を見せていなかったのに……)


「義元様、あともう一点。このような無防備な所に陣を構えるのは危険です。一刻も早く移動を!」


「おお、お主の言う事は分かっておる。まもなく出陣するぞ。しかしな、なぜか分からぬが、ここに陣を構えるなければならないと思うのだ。なぜかなのかな……」


義元はそう言って土砂降りの空を眺めた。ゴロゴロと遠くで雷が落ちる音もしている。


(ふふふ、太原雪斎がいたら叱られるであろう……)


太原雪斎……今川義元の軍師で名参謀役。武田、北条との甲相駿三国同盟を締結するなど、今川家を支えた。しかし、五年前にこの世を去っている。


その時、突然雄叫びのような声があたりから上がり始めた。


「ウォー!!!!」


「うっ、なんだこの叫び声は」


藤枝氏秋は周りを見回した。しかしあいにくの雨と風が酷く、よく分からない。


「落ち着け、氏秋。どうせ、雑兵どもが酔っ払ったのであろう」


(果たしてそうかな、なにか胸騒ぎがする……)


そんな藤枝氏秋の思いを義元は察した。まったく用心深いことだと思った。なにせ戦は勝ち続けているのだ、なにを心配することがあろうか……


しかしまわりの歓声とも叫び声とも分からぬ男共の声は、一向に止む気配をみせず、むしろどんどん大きくなっていく。


「まったく、困った者だ。氏秋、鎮めてまいれ」


「はっははー」


藤枝氏秋は義元に背を向けて飛び出そうとしたとき、一人の侍が慌てて陣屋に飛び込んできた。


「どうした、なにごとだ!」


「そっそれが……敵が攻めて参りました。おっ織田勢です!!」


「なにー、そんな馬鹿な!どうせ見間違いであろう」


「そんな事はありません、間違いなく織田勢が……」


その時、義元がいる陣屋に多くの侍達が押し寄せてきた。その者たちは藤枝氏秋にとって、始めてみる者ばかりである。まっまさか……


「おお、そこに踏ん反り返っているのは、今川義元とお見受けいたす。われらは織田信長馬周り衆、服部一忠!」


「同じく、毛利新助。お命頂戴いたす!!」


そういって、若武者達が義元に向かって走り出した。藤枝氏秋はそれを必死に止めようとする。しかし後から後から侍達が押し寄せ、それを食い止めるのに手一杯だ。


「義元様、お逃げを!!」


しかし、もう間に合わない。服部一忠は豪快に槍を義元に突き立てる。しかし、その槍を義元は手元にある名刀宗三左文字で払いのける。


「なに!俺の一撃をかわすとは」


「甘いわ、織田の小童!!そんな事では人を刺せぬわ!!」


義元の剣捌きは素人とは違うものであった。さすがは今川義元と服部一忠は感心した。しかし、感心ばかりしていられない。再び槍を義元に向かって突く。


しかし何度突いても上手く交わされる。手間取っていると、毛利新助が猛然と義元に突っ込んで行った。


「オオオオオ!!!!」


義元は名刀宗三左文字を毛利新助に振るう。それを毛利新助は左手で掴もうとした。


「なに!!!」


刀は毛利新助の左手を血まみれにする。毛利新助の左小指が飛び散るが、全く臆する事無く義元に飛び掛る。


「ぐぅぅぅ、やっと捕まえたぞ!!」


「おのれ、離せ離せと申すに!!グワァァァァ!!」


動きが止まった義元の腹に、服部一忠の槍が深く刺さる。それは渾身の一撃であった。確かな手ごたえを感じた。血がボトボトと槍に纏わりつく。そして外は雷鳴が轟く。


そのまま、今川義元は力なく倒れいった。毛利新助が刀を義元の首に当てる。


「さあ神妙にお首を頂戴!!」


「……俺が、今川義元とあろう者がこのような無様な死に様とは・・・無念この上なし!!」


それが東海道に君臨した今川義元、最後の言葉であった。毛利新助の刀が義元の首を刎ねる。大量の返り血の中、刎ねた義元の首を高々に上げる。


「今川義元の首、織田信長馬周り衆、毛利新助が討ち取った!!」


外はますます雨が強くなる中、ついに今川義元が死んだ。しかしそれは、この新・桶狭間の戦いの最初に過ぎなかった・・・

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