後編



 いよいよ明日で全てが終わる。長い様で短い様な、けれどやはり長いのかもしれない五年の契約はこれにて満了、の、はずだった。

 ここまでどうにかこうにか無事に切り抜けてきたはずの雇われ寵姫としての役目。それに伴っての偽装結婚。そこに最後の難関が立ち塞がるとは予想だにしていなかった。最後の難関――まさかの仮初めの夫、ディーデリックである。


「……あの、受け取っていただかないと困るんですけど」


 せめて最後の夜くらいは共に過ごす時間もあった方が良いかとリサから声をかけ、それに珍しくディーデリックも頷き二人で軽くワインを飲み始めたのが半時程前。今日くらいは、と思ったけれどもやはり彼の眉間の皺は深く、なんなら記録更新しているかもしれない。それが残念ではあるけれど、安定の彼の様子にどこか安心している所もあり、リサの心境は複雑だ。少しだけ、この関係が終わりを迎える事に感傷的になっているのかもしれない。

 まあ五年も一緒にいたらね、ちょっとばかりは絆されたりもするわよね、などと自分の気持ちにどこか蓋をしつつ、忘れない内にこれを、とリサはディーデリックに小さな箱を差し出した。


 中身は結婚する時に渡された、ベーレンズ家に代々伝わる指輪だ。仮初めとはいえ妻となるのだからと渡され、リサは無くしたり傷付けたりしないようにとこの五年必死に守り続けた。


 それも今日で終わり、と大事な家宝を返したというのに、ディーデリックはかたくなに受け取ろうとはしない。それどころか、リサが「今日で私達の契約も終わりですから」と言えば「嫌だ」と簡潔且つ明瞭に答える始末。


「ベーレンズ卿、もう一度言いますけど、今日で契約は終わるんです。そういう話でしたよね? 今さら嫌だと言われても困りますし、この指輪も受け取ってくださらないと」


 ディーデリックの眉間の皺はこれ以上はない程に深い。見つめてくる視線もとてもじゃないが正視できるものではないが、リサは持ち前の負けん気と雑草魂でどうにか逸らさずにいる。


 寵姫として雇われる事、そしてディーデリックと偽装結婚をする事、それらが五年で終わり、その時にリサには多額の報酬が与えられるという事。これらに関して契約書は一切無い。完全な口約束で成り立っている。リサが書類として残す事を断ったからだ。

 万が一でも計画が漏れる危険性を減らしたい。幼い王妃の為だけに、こんな荒唐無稽な計画を立てる国王が契約を破るとは思えない、というのもあったからだ。

 しかしこうなってくると契約書を交わしておけば良かったと心底後悔する。ディーデリックは不機嫌さを隠そうともしていないが、リサだって不機嫌の極みだ。


「騎士にあるまじき所業なのではないですか?」


 つい嫌味が出てしまうのは仕方がない。ディーデリックはほんの少しだけ身動ぎし、薄く唇を開くがすぐにまた閉じてしまう。それがさらにリサを苛立たせる。


「もう! なんですかさっきから! そうやってずっと何か言いかけては黙って!! やっと口を開いたと思えば嫌だ、の一言だけ! 言いたい事があるなら言ったらいいじゃないですか! この〈ヘタレイクス!!〉」

「〈好きだホゥシェス〉」

「……は……?」


 ついには他国の言語で罵詈雑言が飛び出たリサに対し、ディーデリックはそれと同じ言葉で返す。まさか、の事態にリサは固まる。今の言葉は東方に位置する国の言葉で、それをディーデリックが話せるという事と、そして、その話してきた中身の二つについて。


「リサ、あなたが、好きなんです」

「……はぁっ!?」


 リサの顔が驚きと若干の疑いの色に染まる。無理もない、愛の言葉を口にしてきたはずの男は顔を顰めているのだから。


「あの……そうまでして契約を終わらせたくない理由がおありなんですか?」


 リサが知らないだけで、何かしら深く難解な事情があるのかもしれない。生真面目な彼がこんな嘘を吐いてまでリサを引き留めようとしているのだ、理由如何によっては力を貸してもいいけれど――そうまで考えた瞬間、リサの脳裏に一つの答えが閃いた。


「もしや思いを寄せている方がいらっしゃる!?」

「貴女にですね!」


 即答で否を突きつけられ、リサは「ええええ」と声を漏らす。どうしたって無理だろう、こんな、顰めっ面で好きだと言われても信じられるわけがない。


「……そう言われましても……」

「信じて貰えないのは重々承知しています……」


 ディーデリックは深く重い溜め息と共に項垂れた。彼自身、これまでのリサとの関係、そして自分の態度が非常によろしくなかったのは自覚しているようだ。


「何一つ言葉にせず、かろうじて物しか贈っていなかったですからね……伝わるわけがないんです」


 リサはつい「ですよね」と即答しかけたが、どうにかそれは飲み込んで大人しく話の続きを待つ。そうしてしばらく待てば、腹を括ったディーデリックから思いも寄らない言葉が飛び出た。


「ずっと貴女が好きだったんです!……ずっと……初めて会った時から、この十五年……」

「長っ! って違う、え!? 十五!? 五年じゃなくて!?」


 リサが初めてディーデリックと出会ったのは五年前だ。もしかしたら、それまでの夜会の場ですれ違う程度はあったかもしれないが、彼の言い分からしてそうではない。そもそも十五年も前だとしたら、リサは十一歳でディーデリックは十歳のはずだ。


「子どもの頃にお会いした事ありましたっけ……?」

「貴女は覚えていないと思いますよ。俺も名乗ったわけではないですし、出会ったといってもほんの少しの時間でしたから」


 リサは懸命に記憶を探るが、残念ながら思い当たる節が欠片も無い。そもそもあまり思い出したくはない年代なのだ、その頃は。苛められて鬱屈していた所から一転、売られた喧嘩は尽く買っていた、一番血の気の多い時期だ。


「子どもの頃の俺はかなり弱かったんです。体力もなければ知力もあるわけでなし、いつも苛められては泣いてばかりで」

「……想像つきませんが?」

「貴女に相応しい男になるように頑張ったんですよ」


 項垂れたままだったディーデリックはそこでようやく顔を上げた。眉間に皺は刻まれたままだが顰めっ面ではなく、そしてどこか苦笑しているように見える。


「苛められて泣いていた俺を、貴女は助けてくれたんです。さらには相手にもの凄い剣幕で言い立てて……あれはベインツの言葉でしたね……当時は分からなかったけど、今なら俺も覚えました」

「あー……そう、ですね、ちょうど覚えた時だからまあ……使いたかったのは、ありました……」


 徐々に思い出される記憶が恥ずかしくて堪らない。それでもディーデリックの言う事柄がどれなのかまでは思い出せない。というか、多すぎて分からないのだ。


「ある意味……手当たり次第食ってかかっていたので……」

「貴女に助けられた子どもは多いと思います。俺はその内の一人なだけです、覚えていないのも当然ですよ」

「それで……ええと、その時に……?」

「はい、貴女を好きになりました。きちんと想いを自覚したのはもう少し経ってからですが、あの時に俺は貴女に心を奪われたんです」

「……ちょっとよく分かりませんね!? 決して褒められた態度というか口調ではなかったはずですよ!? それなのに!?」

「自分よりも年上の、しかも数人を相手に、淀みなく他国の言葉で罵倒する貴女は俺にとっての英雄でしたよ」


 騒ぎを聞きつけて大人が集まってきた為にそこで終了となり、リサはそのまま養父母と共に足早に去って行った。


「貴女の出自はあの時すでに知れ渡っていたので、庇われながら貴女が誰なのか気付きました。何一つ貴女に非は無いのに虐げられて、それでも負けずに立ち向かう姿がとても眩しくて感動しました」


 こうなりたいと思った。不当な圧力に負けない強い心を持ちたいと。


「それから頑張って身体を鍛えました。貴女が強い男が好みだという話を聞いてからはさらに。少しでも認めて貰えるようにと、そればかりを考えていたら、なんとか今の立場まできましたね」

「え……えええええ……」


 それが本当なら動機があまりにも残念すぎる。しかしどうやら本当の様なので、リサはただ唸るしかない。


「でも最近は貴女より語学力が上の方がいいと言われ……ちょっと、今、猛勉強中です」

「そんなに真面目に受け取らないでくださいね!? どちらかと言うと与太話の範疇ですよそんなの!」

「貴女に好かれる可能性があるなら少しでも実行したいんですよ」


 ぐ、とリサは言葉に詰まる。口説かれている。それはもう猛烈に口説かれているからして、これまでそんな経験など無かったリサの乙女心は大騒ぎだ。短くはない間を共に過ごしてきたおかげで、彼の為人はそれなりに理解している。生真面目で、気遣い屋で、ステンやティーアは当然ながら、仮初めの妻だったリサにも常に真摯でいてくれた人だ。

 そんな相手に全力で口説かれているこの状況。リサの心の天秤はほぼ傾いている、けれど。


「……一つだけお伺いしたいんですが」

「なんでしょう?」

「あまりにも過分な言葉をいただいていて、正直気持ちの整理ができていないんですけど……それでもどうしても気になっている事がありまして」

「はい」

「……その……私をす……好き、だと、仰るなら、どうしてそんなに眉間に皺……険しい顔をなさるんです、か?」


 若干和らぎはしているが、それでも今もディーデリックは顰めっ面のままだ。いくら好きだと繰り返されても、あまりにも言葉と表情が離反しすぎていて聞いている側が混乱してしまう。そんな当然と言えば当然のリサの突っ込みにディーデリックは言葉に詰まる。それと同時に、一旦は和らいだはずの眉間の皺がまたしても深くなり、唇をきつく噛み締め、何事かに耐えるかの様に瞳を閉じた。


「あの……言いにくい様でしたら無理には……」


 思わずそう声を掛けてしまうほどの苦悶の表情。だがディーデリックは覚悟を決めたのかくわっと音がしそうな程目を大きく開き、そしてリサに告白する。


「貴女と一緒にいられるのが嬉しすぎて、気を抜くとにやけそうになるのをずっと耐えているからです!!」


 予測不能の答えが真っ正面から飛んできた。最早事故だ。リサは大きく仰け反ってソファに背を預ける。両手でしっかり顔を覆い、叫びそうになるのを必死に堪えるが、抑えきれないか細い悲鳴が指の間から漏れる。

 無理、こんなの無理、と身悶えるしかない。いっそ清々しい程のくだらなすぎる理由。そんな事で自分は五年もの間顰めっ面しか見る事ができなかったのかという怒り。そしてそれ以上に、あまりにも可愛らしいというか、思春期かと叫びたくなるほどの彼の一途な想い。 そこにトドメと言わんばかりに、およそ初めて目にするディーデリックの赤面である。首筋から耳の端まで真っ赤にしたその姿は、リサの心臓を打ち抜くにはあまりにも威力がありすぎた。

 ふあああああ、と気の抜けた叫びと共にリサの身体がズルズルと横に流れ、ついにはソファに倒れ伏す。


「……あ、呆れ果てましたか……?」


 両手で顔を覆ったままなのでディーデリックの表情は分からない。しかしその声がいつになく不安に揺れているのが、視覚を遮断している分はっきりと伝わってくる。


「ここにきて可愛いなんて卑怯……」

「可愛いのは貴女の方です」

「息をするように口説くのやめてもらっていいですかね!? 心臓が持たないんですけど!!」


 羞恥を怒りにすり替えてリサは叫んだ。どうにか片肘をついて身を起こすリサに、ディーデリックは攻撃の手を休めない。


「貴女が俺と別れず、このまま妻としていてくれるならひとまず止めます」


 眉間の皺は深まれど、真っ赤な顔をしたままでは最早ときめく要素にしかならない。負けそう、速効で「わかりました」と答えそうな自分がいる。別に嫌っていたわけではないし、なんなら少しでも交流を深めたいと思っていたりした時点で少なからず好意はあったのだ。

 しかし、だからといって即答できる話ではない、というのは茹だった今の頭でもなんとか理解している。


「じ……時間を……せめて時間をください……」


 嫌いではない。好きな方だとは思う。しかし、この瞬間までリサはそういう意味でディーデリックを意識しないでいたのだ。頭の整理と、そして何よりも心の整理ができない事には返事などできるわけがない。


「どれくらい必要ですか?」

「……今晩、熟考します……」


 長いだろうか、いやでもせめてそれくらいの猶予は許されてもいいはずだと、リサは恐る恐るディーデリックの返事を待つ。するとあっけない程に「わかりました」と返ってきた。


「この五年、いえ、十五年待ったんです、今晩待つくらいなどどうという事はないですよ」


 ああでも、とそこで言葉を句切り、ややあってディーデリックは噛み締める様に呟く。


「――この一晩が、これまでで一番長く感じそうですね」


 どこまでも穏やかで柔らかな声、と、気恥ずかしそうなはにかんだ笑顔。

 そんなディーデリックの姿に、今度はリサが眉間に皺を刻んで耐える羽目となった。







 翌朝、一睡もできなったリサがふらつく身体で姿を見せた。壁に這う様に立つものだから、慌ててディーデリックが駆け寄りその身を支える。ひとまずソファ、それかいっそベッドに連れ戻すべきかと悩むディーデリックの腕に、そっとリサの手が触れた。

 一旦は外され、箱ごと返されかけたはずの物が、再びリサの指に戻っている。

 震える声でディーデリックがリサの名を呼ぶ。リサは俯いたまま、小さく首を縦に動かした。


「……リサ、これは……」

「そ……そういう、ことです」

「つまり?」

「だから!」


 反射的に顔を上げれば、至近距離でディーデリックの笑みがあり、リサはピシリと固まる。

「言葉で言ってください」

「……昨日までディーデリック様もこんな風だったじゃないですか!」

「今日から改めます。俺の気持ちは全部貴女に伝えますから、だから」

「それは遠慮します! 無理! 察するので安心してください!!」

「俺は察するのが苦手なので、リサは言ってくださいね、俺への気持ち」

「とりあえずこの腕を外していただけるととても嬉しいです」


 いつの間にかディーデリックの腕の中に閉じ込められている。こんな事も昨日までは無かったものだから、リサは朝からどうしていいかが分からない。

 明確に意思は伝えた、と言うのにディーデリックは離れるどころかさらにきつくリサを抱き締める。


「ちょっ……ディーデリック様! は、離してください! “ばかエンク!”」

「リサ、“大好きですエルヴィ・ゼック”」


 耳元でそう囁かれて、リサの意識は半分飛んだ。しかし負けてなるかと残り半分で踏みとどまる。



 そうして二人、抱き締め合いながら様々な国の言葉で罵倒と愛の言葉が飛び交い続けた。




 

 

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